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皆伝 世界史探求06 BC750年-BC500年

前の時代ではギリシアやローマ、メソアメリカに都市国家が作られた様子を書きました。人が集まり集落を作り、さらに人が集まり、商人、職人、戦士、王、政治機構などが現れると都市国家と言えます。オリエントではアッカドやバビロン第一王朝、中国では周などの有力な都市国家が他を支配するようになりました。ギリシア、ローマ、メソアメリカでは長い間、都市国家の連合にとどまります。なぜでしょう。世界史探求では、こうした疑問を自分で持つ、気づきが大切です。歴史総合では日本と世界の比較をすることで、理解を深めます。日本も邪馬台国の時代は都市国家の連合でした。鎌倉時代は天皇と幕府の二元体制でした。江戸時代も薩摩や長州に対して、国主/藩主の上にお目付け役が中央から派遣されたわけではありません。あまり中央集権的ではなく、幕末には三百国に分かれた状態だったと言えます。
ここまで、考えながら読んだと思います。
自分なりに答えのようなものは見つかりましたか?
日本もギリシアもイタリア半島もメソアメリカも、山あり谷あり川ありの複雑な地形です。共通項がみつかりました。だから、これが要因の一つと仮定できます。オリエントは平地が多いので支配勢力の入れ替わりが激しかったことは憶えていますね。軍の移動も早いし、チャリオット(日本では戦車と訳しますが、馬車です。)に乗って戦をしたり、王の命令を伝える移動も早い。
山あり谷ありの川ありの土地では早く移動できません。連絡が往復で2か月もかかるなら、遠くの王の命令に従おうと思いません。馬も主にならないので、ギリシア、ローマは歩兵が中心です。これも地形が要因だとわかります。さらに、メソアメリカには馬がいません。北米でも人類の狩猟と気候変動により一万年前には馬は絶滅しました。アンデスにはリャマ、アルパカがいますが、人を乗せることをひどく嫌うので、荷物を載せて、人が引いていく。つまり、ギリシア、ローマ(後で街道を作りますが)、アメリカ大陸では人が歩く、走る速度でしか連絡が伝わりません。行軍も遅い。だから、支配域が都市国家の周辺だけにとどまります。結果として、都市国家の連合がせいぜいということになったんだと思います。
中央アジアのオアシス都市国家も砂漠なので、馬は通れませんし、ラクダくらいしか移動手段がないので、広域的な支配をする国家は現れませんでした。よそから匈奴、モンゴルは来ましたが、長く続きません。
ギリシア、ローマの複雑な地形が生まれたのはプレートの移動によるものです。アフリカのプレートが南から沈み込んできて、ぐいぐい押しています。それで摩擦が起きたところで、マグマが地上に出ます。テラ島、ナポリのエトナ山などが思い浮かぶと思います。火山が多いので隆起する地域があるということです。押されて皺になるところもあります。ギリシア、イタリアはだいたいがこの皺だと思います。アルプス山脈が典型です。曲がりくねった皺の地域には、雨が降ると急流が現れます。谷が深くなります。そこに氷期が終わって海が迫ると、リアス海岸が生まれます。ギザギザした入江の多い海岸ですね。特にギリシアはそういう地形なので、陸の移動よりも海の移動で商売をするようになったのも自然の考えだと思います。岩手などのリアス海岸や、奥羽山脈もプレートの沈み込み、火山、隆起、急流という同じ仕組みです。
こうして山、川、谷で遮られるので、交流が細くなります。狭い範囲で文化圏ができていきます。スパルタなどのペロポンネソスの地域、アテネなどのアッティカ地方、マケドニアの地域では文化圏が異なります。瀬戸内海のような海で往来できるところは、関西と四国が文化として近いことを思えば、一体化しやすいと思います。関西と関東は往来しづらいですよね。
ギリシアや長野県や小豆島のように、こうした水はけがいい傾斜地が多いと、ブドウ、オリーブなどの栽培に適しているとも言えます。やや暑いので、涼しさを好む小麦には向きません。だからギリシアはエジプトから、ローマはエジプトやチュニジア(カルタゴ)から小麦を輸入していたんです。イタリアと言えば、トマトパスタのイメージがあるんですけど、小麦は育ちづらい気候です。トマトも大航海時代にアメリカから来たものです。
都市国家について、なぜと思うだけで、こうしたことまでわかるようになります。人間がしてきたことのすべてとつながっているのが歴史なので、面白いなと思います。
ちなみに、アフリカのプレートは沈みこんでいるので、クレオパトラ七世が暮らしていた宮殿は、21世紀には海の中にあるそうです。人に荒らされないので、物によっては、かえって保存状態がよかったりもするそうです。

前回、寒冷化によって民族の移動が起こったことを書きました。この時代に商が衰退し、周が台頭したこと。オルメカ文明、マヤ文明、サポテカ文明の萌芽が見られたことと関係があるかもしれないと思った人もいると思います。私もそう思いました。今のところ、因果関係を明らかにした研究はないようなので、大学に入ったら興味のある人は研究してみてください。

ギリシアのアクロポリス、丘の上に神殿が建てられたのはなぜだろうと思った人もいると思います。神社も丘の上、山の上、創建時の岬の上に建てられることが多いと思います。なぜ丘の上は神聖なのでしょうか。
先生によると
「崖の中腹に暮らしていた人類が外に出た時には、洪水を避けるために丘の上に暮らすようになった。それで、丘の上は安心という意識と結びついたんじゃないか。それに敵の接近にも気づきやすいから安全だ。敵だーとか洪水だーとか、仲間に呼びかけやすいしな。神が守ってくれていると思うのも自然な気がする。山自体を神聖視する文化も世界各地にあるしな。ピラミッド、ジッグラト、古墳なんかも近い考えにあるのかもなあ、知らんけど」だそうです。
そこで横穴、つまり洞窟から出た人が、縦穴を掘って、竪穴住居に暮らすようになったことを思い出しました。なぜ竪穴を掘ったのかと思ったので、先生に訊いてみました。

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「竪穴は床が半地下ということだ。膝丈くらいの深さの住居もあるし、もっと深いのもある。機能としては、調理した食べ物の匂いが外に漏れ出にくいから、野生動物があんまり近づいてこないんじゃないか。火は外から見えないから、近づいた時だけ火で追い払うんだろう。雨は入りやすいから①のように住居を囲むように盛り土をしていたんだ。それに半地下だと暗さ、奥にいる感じが洞窟に近いから安心できたのかもしれんな。気温も安定しやすいし。冬にかまくらを作るのと同じで、冬は暖かい。掘っているから夏は涼しい。それに柱を立てるには内側の土に挿すほうが簡単という理由もあるだろうなあ。」ということでした。

BC750年-BC500年には南下したインドヨーロッパ語族の第二波により、各々の土地で民族の配置や遺伝子や習俗が再編集され、初めてオリエント文明圏が統一されます。これほどに広い空間が統一されるのは世界初です。インドではインダス川の流域から拡大したアーリア人の文明がガンジス川の下流までを包括します。中国では黄河から拡大した文明圏が、長江を覆う動きを見せています。ヨーロッパでは、次の時代をリードするギリシア文明が萌芽を見せています。

構造図を見てください。

皆伝06 構造図 BC750年-BC500年 - コピー

世界年表を観てください。

皆伝06 BC750年-BC500年 世界年表 - コピー

□北欧

BC500年頃、鉄器時代に入ります。緯度が近い東西の移動は気候が近いので早いんですが、南北の移動は気候が変わるので食べ物も変わりますし、暖かな地域に暮らす人は、冬には北には行きたくありません。だから、文化が伝わるのがゆっくりなんですね。ここまで読んでモンゴルの拡大に気づいた人もいるかもしれません。モンゴルは馬に乗って移動するので、草原地帯では強いし、勢力を拡大しやすいんです。13世紀以降のモンゴルが、森林地帯のヴェトナム、海の向こうの日本、インドネシアでは追い払われてしまったのも理解できると思います。世界史探求では、こうした時代も地域も超えた理解をできるようになるといいですね。

□□オリエント

アラム王国に服属していたこともあるセム系のアッシリアはBC744年、ティグラト・ピレセル三世の代から帝国時代に入ります。複数の王国を支配すると帝国と言います。首都はニムルド(カルフ=モスルの南部)。公用語はペルシャ語(アラム語ではないことに注意)。アラム王国をBC730年に滅ぼします。カルデア人(アラム人)はメソポタミアに残存しています。
サルゴン二世 (在位BC722-BC705)はBC722年、ヘブライ人が作った国のうち、北部のイスラエル王国を滅ぼします。南部のユダ王国は抵抗しなかったので滅亡を免れました。占領はされていないけれど、服属はします。
イランではメディア王国がBC714年に成立(BC712/BC625説もあります)。都はエクバタナ。アッシリアに服属しています。
アッシリアのセンナケリブ(BC705-BC681)はニネヴェへ遷都。大宮殿を建築します。王の力が強いとわかります。職業軍人から成る常備軍を作ります。騎兵隊と戦車/チャリオット(馬車)を併用して勢力を拡大。
BC701年、シリア海岸部と、小アジアを支配します。
エサルハドン(BC681-BC669)
BC671年、下エジプトを占領。
最盛期のアッシュールバニパル王(BC668年-BC631年/627年)は「アッシュールバニパル文庫」を作る。粘土板やパピルスに書かれた文書(ギルガメシュ叙事詩など)を収集しました。現在は大英博物館が所蔵しています。
ライオンを狩るレリーフが有名。この時代は中東にもライオンがいたんですね。支配下の民族に対する圧政と、地縁血縁を断って抵抗力を削ぐために強制移住を実行。文化や技術を持ち寄らせるため、都を見せて臣民意識を高めるためもあるかもしれません。

BC670年頃、小アジアのエーゲ海に面した地域はまだアッシリアに支配されていません。リディア王国がありました。スキタイに追われたキンメル人が小アジア、シリアなどに侵入もしています。
受験生にとって大切なのは、リディア王国が世界初の鋳造貨幣を作ったことです。従来の大麦などの自然物の貨幣ではなく、金属(砂金)を加工して作りました。琥珀に似た輝きで、ギリシア人はエレクトロン金貨(琥珀金貨)と呼びました。保存中、移動中に壊れることも腐ることもないので、貿易が盛んになるとそうした頑丈な貨幣が必要になったのでしょう。
興味のある人には「世界史の真相は通貨で読み解ける」(宮崎 正勝.河出書房新社.2018)「世界<経済>全史」(宮崎 正勝.日本実業出版社.2017) 「金融の世界史」(新潮社)などがあります。

BC664/663年、アッシリアは上エジプトを占領します。第25王朝のクシュ王国は撤退して、ヌビアに戻ります。アッシリアはサイスを支配していたサイス家に管理を委託します。サイス朝エジプト王国。たぶんずっと前に滅ぼされた第24王朝の系統のリビア人がアッシリアから委託されて第25王朝をサイス家として管理していました。
BC663年、アッシリアはオリエントの全域に支配を広げました。教科書では「統一」と言う表現をしています。エジプトの北部や、小アジアの一部は支配しているけれど、上エジプトの南部は支配していないし、小アジアにリディアも存続しています。オリエントの各地域に支配域を広げてはいます。
国が広くなったので中央集権的な政治は難しくなり、全土を州に分けました。道の途中で馬やラクダを交換でき、休養もできる駅伝制度、幹線道路の整備をしました。大きくなった国に共通する政策ですね。
BC653年、ギリシア人であるイオニア人の支援を受けて、エジプトが独立します。小麦などの貿易相手として欠かせないことと関係があるかもしれませんが、よくわかりません。学者は、新エジプトと言います。第26王朝。
BC612年、圧政が要因の一つと言われますが、新バビロニア、メディアの連合軍によって、アッシリアは滅亡します。
オリエントは四つの国に分裂します。四王国時代と言われます。
①新エジプト-通算で第26王朝。BC664年に独立した説もありますが、アッシリアに服属していたサイス朝の第25王朝なので、独立とは言えないと思います。BC653年に独立し、BC525年まで存続します。首都はサイスだからサイス朝。紀元前7世紀にエジプト第三の文字である民衆文字(デモティック。草書)が創始されました。イスラエル北部でメギドの戦があって、ユダ王国を蹴散らして進軍します。この時、ユダ王国はエジプトの支配下に入ります。エジプトはアッシリア遺民の都カルケミシュ(トルコ、シリアの国境で、ユーフラテス川沿い)で遺民と共に、新バビロニアと戦います。けれど、新バビロニア(ネブカドネザル王。将軍が、皇太子のネブカドネザル2世)に敗れ、シリアへの足掛かりを失います。
②メディア王国-BC714/712/625年に成立。首都はエクバタナ(現在ハマダーン)。インドヨーロッパ語族。
この頃、ゾロアスター教が成立します。開祖はゾロアスター(ツァラトストラ)。この人はバルフに埋葬された。ゾロアスター教は火を神聖なものと考えるので、よそからは拝火教とも言われました。AD470年から燃え続けていると言われる火が、21世紀にもヤジド近郊にあります。中国では祆教(けんきょう)と言われます。インドではペルシア人の宗教だからと考えてパールシー教徒と言われます。イラクではほかの宗教と混じり、ヤジディ教徒と言われます。聖地のひとつであるイランのヤジドに由来するのかもしれませんね。
火が神聖なので汚してはいけないと考え、火葬をしません。沈黙の塔という高台にある施設で鳥葬にした後で、施設の下にある穴に落としたようです。土も汚れるから当初は禁止していましたが、21世紀には土葬をしています。世界観はアフラマズダ(光の神/善神)とアーリマン(闇の神/悪神)の争うのがこの世界であるというもの。つまり善と悪との二つが世界の元になっているという「善悪二元論」。アフラとはインドではバラモン教でアスラと呼ばれ、仏教で阿修羅になった神です。
また、人は生きている間にいいことをし、いいことを言い、いいことを思うことで、最後の審判の際に天国に行ける。いいことが足りなければ地獄に行く。いいことをするとアフラマズダにパワーを送ることになります。世界は一万二千年で終わり、つまり終末が来て、最後はアフラマズダが勝利をすると考えていました。こうした善悪二元論は天使と悪魔の戦としてユダヤ教に取り入れられました。また、終末論も編集して取り入れられます。そして、それはキリスト教やイスラームに取り入れられて行くんですね。つまりユダヤ教は土着の民族の神+ゾロアスター教の世界観の産物とも言えます。アトン一神教のアイディアが入っているのかどうかは不明です。
③リディア王国-首都はサルディス。後のアケメネス朝ペルシアは、この都市を王の道の終点とします。馬を利用する騎士のクロイソス王は、ラクダのアケメネス朝ペルシャに敗れ、BC546年に滅亡します。
新バビロニア王国-セム系のカルデア人(アラム人)。首都バビロン。BC625年建国(BC539年滅亡)。ジッグラトを再建しました。世界の七不思議に指定されていて、バビロンの空中庭園と呼ばれますが、高層階のテラスに庭園が作られたのであって、空中に浮遊している庭園ではありません。
隆盛期のネブカドネザル2世は、BC605年、カルケミシュの戦でエジプト第26王朝のネコ二世からシリアを奪います 。
バビロン捕囚(BC 586年から BC538年)を行いました。ユダヤ人が国を滅ぼされ、バビロンへ強制移住させられたことをこう言います。

母がメディア王の娘、父カンブージャ一世がペルシア人なのがキュロス二世(クールシュ二世)です。BC553年に義理の父に対し反乱を起こして、メディアから独立し、アケメネス朝ペルシアを建国します。
アケメネス朝ペルシア
-ハカーマニシュ朝ペルシアというのが、学者の言い方のようです。教科書では HAと書いて、アと読むんですね。Hは発音しづらい音ですからね。
先生によると
「スペインによくあるHerrera さんはヘレーラさんではなく、エレーラさんと読む。イタリアでもHondaさんはオンダさんになる。恩田さんも本田さんも区別できない。江戸っ子と言われる人も、Hikeshi/火消しのことを、しけしと言ったそうで、HiがShiに変わっている。Shindo/シンドはインドの地方名だが、これもShindoのSを発音しないとhindo/ヒンドゥーになるし、hも発音しなければ、indo/インドになる。ヒンドゥー教は漢字で印度教と書く」そうです。面白いですね。
「バルセロナのあるカタルーニャ地方を除くスペインではLLAをジャと発音する。SEVILLAはセヴィリヤではなく、セヴィージャ。LとRの発音が苦手な日本人なら共感しやすいかもしれんね。Jaと書くとハと発音する。日本はJapón/ハポンと読む。すでにハの音があるので、Haはアとなる。ドイツではJapan/ヤーパンだ。Jも発音しづらい、聞き取りづらい音なんだろうな。
日本人もJAMAと書いて、ジャマと読むが、馬台国の場合には、ジャをマタイコクと読む。ジャカシイと言ったり、やかましいと言ったりもする。」と先生は言っています。

キュロス二世は、BC 539年に新バビロニアに侵攻します。親子が共同で統治していたバビロンに攻めこむと、ナボニドスとベルシャザールを破って、バビロンを占領します。キュロス2世はバビロンの守護神マルドゥークを名乗ります。
BC538年、新バビロニアの滅亡。
ユダヤ人はバビロン捕囚から解放され、故郷に戻ることを許されました。
三代にまたがる約50年間の捕囚が終わると「聖書」の記述を開始しました。ユダヤ人にとっての「聖書」を、キリスト教徒は「旧約聖書」と言います。受験生は「旧約聖書」で憶えても構わないと思います。
この時を聖書の「成立」とする説もあります。書かれた文書のうち何を正しいもの(聖典)と認めるか、正しくないもの(外典)と認めるかはまだ決まっていないので、旧約聖書の完成ではありません。BC3世紀からAD1世紀ころに書かれた「死海文書」もまだ書かれていません。「死海文書」は、イスラエルの死海の畔のクムラン洞窟で1947年以降次々と発見された900の羊皮紙やパピルスの写本の巻物群で、ヘブライ語、ギリシャ語、アラム語で書かれ、外典も含まれています。最も古い写本です。多分、オリジナルの原本は存在していないので写本が最古のものとなるでしょう。誰が書いたか不明。本は刊行されていますが、2020年以降にインターネット上で公開される予定ということです。
ユダヤ教の成立はモーセの十戒を授かった時、「聖書」成立時の二つの説があります。ユダヤ教の特徴としては、多神教に決別したヤハヴェ信仰/一神教、ユダヤ人だけが救済されるという選民思想、メシア思想があります。メシアは救世主の意味です。救世主が登場することを待っているんです。律法(トーラー)を持つことも特徴です。律法は旧約聖書のシリーズのうち五書のことで、「創世記」、「出エジプト記」(十戒の一部が書かれています)、「レビ記」「民数記」、「申命記」(十戒の一部が書かれています)のことです。戒律主義も特徴です。ルールに対して厳しいんです。

キュロス二世は新エジプト以外を滅ぼします。BC530年にアーリア系の勢力と戦して戦死したようです。
カンビセス二世(カンブージャ二世)の時に第26王朝のエジプトを滅ぼし、彼はファラオになりました。ヌビア、スーダンへの侵攻は失敗。
BC525年オリエント統一。BC522年に死去。継承権争いがありましたが、先王の姉ウタウサ、妹リタストゥーナー、先王の弟であるバルディーヤの后パルシダとも結婚して血筋の正当性を固めたダレイオス一世が即位します。それまでは王の名称として征服地の王の名を列挙していたのですが、このとき大王、諸国の王を名乗ります。国号は帝国としたようです。重要な土地には王族が赴任して、高官にはペルシア人が就きました。

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アケメネス朝ペルシアの首都は移動しています。最初はパサルガダエ、そしてスサ(スーサ/スーシャー)、ダレイオス一世がペルセポリスを造りました。王都とも言われます。ペルシアのポリスの意味で、別荘として造った年に遷都したようです。主な官僚はスサに残ったようです。政治都市(霞が関のようなもの)はスサと言えます。
王は冬の七か月間はバビロンにいました。移動中はテント生活です。春の三か月間はスサに、夏の二か月間は北西部のハグマターナにいたようです。BC518年から造営し始めたペルセポリスで、春分の日に儀式を行うなどしていました。儀式を司るのはメディア人のマゴス教団でした。単数形はマギですが、マギ、マゴスはのちに魔法使いなどの意味に変わっていきます。
この時代に書き物が粘土板から、パピルスへ移行したようです。ペルシア州ではエラム語ですが、帝国の共通語はアラム語だったようです。軍人への給与は穀物で支払われていました。8.42gのダリック金貨、5.6gの銀貨もオリエントでは流通していたようです。農作物、奴隷、衣服を貿易品としていました。
①領域を20のサトラピー(州)に分けます。アッシリアを模倣したんですかね。主にペルシア人とメディア人をサトラピー(州知事)として置きました。最重要の地域を除いて世襲にしませんでした。サトラピーさんは道路の建設、外交、軍役、地方税の徴収を任されました。
③監察官は「王の目・王の耳」と言われました。手足のようにとも言いますが、王の目の代わりに監視、王の耳の代わりに情報を集めました。知事が独立した勢力にならないように目を光らせていたんですね。
④貨幣の統一
⑤駅伝制度。替え馬、替えラクダがあるし、宿もあります。
⑥軍の道及び交易路として1500マイルの王の道を作ります。この道は小アジアのサルデスと、チグリス下流のスーサを結びます
⑦アケメネス朝ペルシャは1万人の常備軍を持ちます。

ゾロアスター教は王族の間で中心的な宗教でしたが、法で定めた国教かどうかは不明です。

アッシリアと比較して、アケメネス朝ペルシアは寛容と言われます。
その証とされるのが、
①フェニキア人とアラム人の交易を保護した。商業に有利だからそうしただけだと思います。
②ユダヤ人解放と、神殿の再建許可。そもそもアッシリアは抵抗しないユダ王国を滅ぼしていませんから、寛容だと思うんですけどね。
③貨幣で納税することを基本とするけれど、各州の実情に合わせたこと。貨幣が流通しているのは新たに征服したオリエントが主です。従来の拠点であるイランでは現物納税のままというのは、寛容というよりも単に変更しなかっただけだと思います。

19世紀にアジア西部の駐在官吏でイギリス人のローリンソンがベヒストゥーン碑文を解読します。この碑文は、アフラマズダへ の戦勝報告及び感謝を示したもので、ダレイオス1世の実績を記録したものです。磨崖碑と言われるものなので、崖に絵や文字を刻んだものだとわかります。アブシンベル神殿なども崖を彫ったものですしね。ナスカの地上絵も最初期には崖に描いていたそうです。
ローリンソンさんは古代ペルシャ語の部分を解読しました。バビロニア語も部分的に解読。エラム語は未解読。三言語とも楔形文字で書かれています。中国語も台湾語も日本語も漢字で書かれるけれど別の言語、という感覚に近いかな。
ドイツのグローテフェントはペルセポリス碑文を解読します
クセルクセスが都市の門柱「万国の門」に刻んだ&定礎にダレイオス一世がアフラマズダが与えた国として帝位を正当化したものです。この都市から見つかったものはまとめてペルセポリス碑文と言われます。
グローテフェントさんは楔形文字の古代ペルシア文字を解読します。ローリンソンさんと同じですね。シュメール語=バビロニア語、バビロニア語を改良した(殆ど同じ)アッカド語、エラム語は彼は未解読です。二人は互いに独自に解析して同じように解読したそうです。
この時代、アケメネス朝ペルシアでは青釉陶器を作っていました。
興味のある人には「ペルシア帝国」(講談社現代新書)があります。

□□北アフリカ

ドーリア人は北アフリカのキュレネに植民市を作りました。

□□エジプト

リビア人の第24王朝の元で、衰えていきます。BC751年ヌビア(スーダン)のクシュ王国からやってきた黒人により王位を簒奪されます。第25王朝は「ブラックファラオ」時代と言われます。5人の治世でピラミッドの建設を再開するなど、古代の秩序を復活しようとしました。
BC671からBC663年にかけてアッシリアに支配されたので、クシュの人は去ります。BC653年、イオニア人の支援で再興して「新エジプト」といわれる時代。第26王朝。民衆文字(デモティック)を創始。これで古代エジプトの「ヒエログリフ(神聖文字)」「神官文字」「民衆文字」が出揃います。
BC525年、カンビュセス二世のアケメネス朝ペルシアに支配されます。

□□サハラ以南アフリカ

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クシュ王国(首都ナパタ)は北にあるエジプトも支配しています。アッシリアの攻撃を受けたので撤退。エジプトからファラオらが戻ったあと、アッシリアの攻勢を受けてナイル川の上流へ遷都します。遷都は都を移動することです。BC6世紀中頃、メロエ王国(首都がメロエ)と名を変えます。学者が区別するために、違う名で呼んでいるのかもしれません。どちらも現在のスーダン内にあります。
興味のある人には「アフリカ史」(川田順三.山川出版.2009年)という本があります。

□□地中海

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植民活動が盛んな時期です。北アフリカにドーリア人が作ったキュレネなどの例外もありますが、主に地中海の南側、及びイベリア半島にはフェニキア人が植民市を作ります。フェニキア人の植民範囲は、地中海に関してはAD8世紀ころのイスラーム圏と重なりますね。地中海には、黒海の西岸や北岸からは穀物や奴隷、ガリア地方からは金属が入ってきます。
ギリシア人は主に北側に植民市を作ります。アテネなどのポリスでは戦に出ないと肩身が狭いけど、戦費は自分持ちだから、庶民はどんどん貧しくなって、ポリスの外へ出ていきます。植民地からは穀物を母市に送り、母市は植民地へオリーブ油・ワインなどを送ります。対等なんです。フェニキアの植民市が不平等なのとは違います。
スパルタは女性の奴隷と男性の市民との間に私生児が生まれるようになったので、階級をはっきりさせるため、タレントゥムに植民市を建設して追放しました。アジアのイオニア人の諸都市は黒海沿岸に植民市を作ります。
ギリシア人は地中海に広範囲に植民しポリスを作ります。ギリシア人の一派であるイオニア人はイタリア半島にネアポリス(新しいポリスの意味。ナポリ)、フランスのマッシリア(マルセイユ)、ニース(ニケーア/ニカイア)を作ります。ニケーアはギリシア神話の勝利の女神ニケ/NIKEに由来する名前で、日本のシューズメーカーのナイキ/NIKEも由来は同じです。現在のニース以外にも、いくつか同じ名前の街があります。有名なのは小アジアのマルマラ海にほど近い街で、ニケーア公会議が開かれる街です。
ドーリア人はイタリア半島の南部エレアや最南部のタレントゥム(スパルタ人が築いた。ターラント)、シラクーザ/シラクサ(シチリア島)、ビザンチオンや対岸のカルケドン(共に今はイスタンブール市域に併合されています)を作ります。
受験生は、その都市の辿った歴史を書くよう求められることがあります。イスタンブールならギリシア人から始まって、ローマの都になって、オスマン帝国の都になって、トルコ共和国の都市になる変遷を書きます

□□小アジア

ギリシア人の植民は旺盛で、ドーリア人はカルケドン、ビザンチオン(共に現在のイスタンブール市域に含まれる)を作ります。本土にいる大土地所有者よりも植民地の方がリッチな大土地所有者になることもありました。
小アジアのエーゲ海沿岸部にはイオニア人のミレトスという都市国家がありました。これは学者の街でミレトス学派を形成していました。哲学と科学はまだ別れていない時代です。奴隷のいるギリシア世界なので、主人であるギリシア人の中には暇な人もいます。人間って時間があると様々なことを考えますよね。
この世界のアルケー(根源)はなんだろうと考えた人もいました。ターレスさん(BC624年-BC546年)は水が世界のアルケーだと考えました。水は液体にも固体(氷)にも気体(水蒸気)にもなります。納得しそうです。ターレスさんは哲学の父とも言われます。日食の予言もしたそうです。
アナクシマンドロスさんは「万物の根源はト・アペイロン(無限者)だと考えました。何かの性質を限定して持たせず、性質も量もすべてを持っているものだと考えたようです。長い名前が憶えにくい人は、穴櫛マンドロスさんと憶えましょう。魚が進化して動物になって、人間になったと考えたり、大地は虚空に浮かぶ有限なものだと考えたり、雨水は川や海の水に由来すると考えたりしたようです。すごいですね。
アナクシメネスさんは「アルケーは空気だ。分厚くなると冷たくなって水になる。薄くなると熱くなり火になる」と主張していました。ア泣くシメネスさんと憶えましょう。別の覚え方でもいいんですよ。
ヘラクレイトスさんも小アジアで活躍した人で、アルケーは火だと言っています。有名な「万物は流転する」という言葉は言っていないそうです。入試では出るんですけどね。多元論を常識とするギリシャ世界に。「万物は一つの物事である」と主張して、はじめて一元的な論理を持ち込んだとも言われます。弁証法の原理を最初に言い出したとも言われています。

□□地中海西部

イベリア半島のカタルーニャ地方(バルセロナのある辺り)には、BC650年ころからギリシア人、フェニキア人が来ます。
陶器、金属器、織物、ガラス製品、香水などの文化をもたらします。カタルーニャからの輸出品は穀物、皮革、塩など。
BC6世紀中頃、イベリア半島にカルタゴ(フェニキア人)の勢力が拡大します。
BC550年、カタルーニャにギリシア人が植民市エンポリオン(21世紀のアンプリアス)を建設。

□□イタリア半島

イタリア北部にはエトルリア人、ローマ人、サビニ人がいます。 南部はギリシア人がたくさんの植民市を作っているので、大ギリシアという意味でマグナ・グレキア/グラキアと呼ばれます。
エトルリア人の王国は都がヴィー/ヴェイイ。
伝説ではトロイ王家の末裔アエネアスの子孫の王が、先代の王の姉妹を巫女にして、その巫女が軍神マルスとの間につくった双子がロムルス、レムス。巫女ゆえに子を産むことは許されないので川に流しました。狼が乳をやって育てたとも言われます。テヴェレ川沿いに、7つの丘(カピトリーノの丘など)に城壁など築いたBC753年が、ローマ王政都市を建てた年とされています。BC753年に伝説では建てられて、滅んだのはAD1453年。下二桁が一致しているので覚えやすいと思います。
実際は、初代の王は実在も不明で、後期の王はエトルリア人。民族は混在しています。場所はエトルリアとサビニに挟まれた位置です。ローマ人は、北東のサビニ人から女性を奪い、戦争になったのですが、勝利したと伝わっています。
氏族ごとの共同体/クリアによるクリア民会があったとも言われますが、実態は不明。
BC509年、ローマは共和政になりました。つまり、王がいない政治体制です。貴族はいたので、実態は貴族共和制。
 ローマにはアナトリア/小アジアにいたフリギア人のフリジア帽子がBC6世紀に、アケメネス朝から伝わりました。先っぽが前に垂れ曲がった赤い三角帽子です。これはローマでは解放奴隷の証です。中世にベネツィア統領が着用し、18世紀末のフランス革命では市民のシンボルとなりました。
 伝説の王ロムルスの名に由来するロムルス暦は種をまく日(キリスト暦で3/1)を一年の始まりとしました。一年は10か月あります。冬になると戦もしないし、農作業もしないからその間は月(キリスト暦で1月、2月)を数えません。第二代の王とされるヌマがヌマ暦を作りました。一年を355日とし、12か月にしました。
ある頃から、季節がずれるので2年に一回、閏日として22日間を2月の後に入れ、1年の始まりを1/1にしました。従来の3/1の開戦ではなくて、農閑期の休養期に戦争を開始すれば、相手方は準備ができていないと考えて、開戦を1/1にしたんです。1年の始まりの基準を種まきではなく、開戦日にしたということです。
けれど、閏日の22日間を入れ忘れることが多くって、BC1世紀のユリウス カエサルの時代には3か月ほど暦と季節がずれていました。そこでエジプト暦+2月に閏日を入れるユリウス暦にした。偶数は不吉な数字なので、1か月を30日としないで、29,31日にしました。細かいですね。2月は28日のままにしました。2月は不吉な28日のはずなんですが、ローマの慣習では月の後半は次の月の始まりから何日前と数えます。フランス語で9:45を10時15分前と言うそうですが、それと同じで、ローマの大事な祭日である2/22を3/1の7日前と表現していました。ローマ人は、この表現を変えたくありませんでした。変えたら、2/22は3/1の9日前という表現になってしまいますもんね。だから、2月を30日にしなかったんですね。日本人が使っているカレンダーもこの影響を受けているわけです。

南イタリアはマグナ=グラキア/大ギリシア植民地と言われ、ギリシア人のポリスが多い。エレアという都市が作られて、ピタゴラスさんはここで活動していました。ピタゴラスさんは万物は数であると言いました。アルケーではなく、性質を言っています。数で表現できないものなんてないということのようです。直角三角形の長さに関わるピタゴラスの定理(三平方の定理)でも知られています。また、1と無限大の関係を数理論で説明し、二元論を主張しました。1オクターヴを7分割(ドレミファソラシに相当)する「音階」というものを考えたのもピタゴラスさんらしいです。中世のヨーロッパでも数学と音楽は近い関係にあったようなので、数学者が音楽家というのも不思議ではないのかもしれませんね。
シチリアにはシラクーザ/シラクサという都市も作られます。
シラクーザの話が出たので、シチリアの歴史もまとめて書いてしまいます。シチリアの歴史って、入試ではまとめて出題されるのに、教科書にも参考書にもまとまっていないので、探すのが大変なんですよね。と言うわけで、時代を超えて書いておきます。受験生は、今は読まずに、中世に入ってから読み直してもいいと思います。
先史時代にシカニ人(シチリアの由来?)、そしてフェニキア人、大ギリシア植民地、BC480年にはゲロンがカルタゴを撃退し、BC5後半にもアテネを撃退した。シラクーザ中心になりディオニュシオス一世はカルタゴと和約、ポエニ戦後にローマ領になる。AD5世紀にヴァンダル王国が支配、東ローマが奪還し、8世紀初頭にイスラームのウマイヤが支配。827年から支配が始まり、878年には完全にイスラームの勢力下に入った。11世紀後半、ノルマン人のロベール・ギスカールが南イタリアを占領、弟のルジェロ一世がシチリア全島を占領する。1130年、ルジェロ一世の子のルジェロ二世がシチリア王国をつくる。1140年、ナポリ公国も占領する。実質的な両シチリア王国の成立だけれど、ナポリは王国でなく、王位はシチリアにしかないのでそう言わない。12世紀末、神聖ローマのホーエンシュタウフェン家のハインリヒ六世(ルジェロ二世の娘が妻)に滅ぼされる。ハインリヒ六世の子は神聖ローマのフリードリッヒ2世で、1224年にナポリ大学を作る。死去後は子が継承するけれど、イタリア半島への勢力拡大を嫌うローマ教皇クレメンス4世の要請でカペー朝フランス王ルイ9世の弟のアンジュー伯シャルルがシチリアを征服し1268年、王位に就く。但し、首都はシチリア島のパレルモからナポリに移す。それでも名前はシチリア王国のまま。ナポリ公国も支配しています。1282年、シチリアの晩鐘という事件を経て、アラゴン王のペドロ三世が進軍し、シチリア島を征服。ナポリ地域は占領できず、1302年シチリア王国は分裂する。フランスのカペー朝の分家のアンジュー家のナポリ王国と、アラゴン系の分家のバルセロナ家シチリア王国になる。(どちらもアラゴン系ではある。)
シチリア王国               ナポリ王国
アラゴン家の分家のバルセロナ家    カペー朝の分家のアンジュー家
1416年アラゴン王アルフォンソ五世①
1442年                ①がナポリ占領 
        1442年/1443年両シチリア王を名乗る
1458年   ①の子フェルディナンド一世②が両王になる 
1494年 アラゴン王フェルナンド二世    ②の子アルフォンソ二世

1494年フランスのヴァロワ朝シャルル八世がナポリ王国の王位を主張すると、ローマ教皇アレクサンデル六世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世、スペインのアラゴン家フェルナンド二世がシャルル八世軍を追い払います。
1495年                ②の子フェルディナンド二世③
1496年                ③の叔父フェデリーコ一世④
1503年               ナポリ王国を廃止、総督を置くだけ
1504年        フェルナンド二世がナポリも支配
スペイン継承戦争後、1713年のユトレヒト条約でシチリアはサヴォイ家の領地になる。オーストリアのハプスブルク家が進軍し、ナポリの総督は追い払われ、ナポリはハプスブルク家領になる。1720年ハプスブルクが侵攻して、シチリアを奪い、代わりにサヴォイ家にサルデーニャ島を渡す。1733年-1735年のポーランド継承戦争勃発(仏西サルディニアVSザクセン選帝侯、ロシア、プロイセン、ハプスブルク)でフランスのブルボン家はスペインのブルボン家の支援を仰ぐ。1734年スペインのブルボン家のフェリペ五世の子のカルロがフランスの敵であるオーストリアのハプスブルクが支配するナポリ、シチリアを占領、ナポリ王になる、1759年に彼はスペイン国王になる。ナポレオン戦争中の1806年‐1815年、フランスがナポリを占領(ナポレオンの兄ジョゼフ、妹婿ミュラが王位に就く)、シチリアだけをスペインが領有。1816年ナポリとシチリアの王位を回復したスペイン人のフェルディナンド一世が両シチリア王国を名乗る。1860年ガリバルディが占領、1861年イタリア王国に併合される。
長いですね。

□□ギリシア世界

植民活動は旺盛で、ギリシア人は黒海沿岸のシノペ、エーゲ海のレスボス島)にも植民をしていました。
こんな時、リディアの貨幣がギリシア世界に入って来ます。貨幣経済とは、お金がなければ生活できない社会。作物などの品物が実るとすぐに売り出しますが、売り手が多いから物価が下がり、暴落します。鉄まで安くなるし、多くの人が鉄の槍や盾を買って重装備をしての戦争参加が可能になります。つまり、重装歩兵が生まれます。戦争に参加してポリスに貢献しているのだからと、平民が参政権を要求します。経済的に没落する人にも、ポリスは対応する必要が出て来ます。貨幣は物々交換ではないので、腐りませんし、軽いし、かさばらないので遠くまで運べます。つまり商圏の拡大をもたらします。商圏/商売の範囲が都市単位から地区単位に変わり、地域単位へと変わります。自分たちの母市やギリシャ本土の母市も貨幣経済になります。アテネでは、ドラクマと呼ばれる自国貨幣を鋳造し始めました。

皆伝06 ギリシア文明 - コピー


□スパルタ
二人の王がいます。さらに一年の任期ですが、選挙で選ばれた五人が実権を握ります。まだ総有制度/原始共産制なんですが、貨幣経済になるとお金を持った人は気持ちが大きくなって、政治に口出しをするようになります。つまり民主化が起こります。貧富の差が拡大しますし、商売に失敗して奴隷に落ちた人は「やってられない」と反乱もします。
BC610年から、リュクルゴスの改革というものがなされます。リュクルゴスはずっと前の人物だとか、伝説の人物だとか、様々な説があります。
スパルティアタイをみんな兵士とする皆兵政策を取ります。軍国主義ですね。なぜかと言うと、奴隷がもともと市民より多かったのに、貨幣経済で没落して奴隷になる人が増えたんです。そうすると反乱を抑えるためには全員が戦士にならないといけなかった、そういう理由です。スパルタは治安維持のための兵士なんです。だから、建国当初を除くと、外征はあんまりしないんです。民会の権限も縮小したとも伝わっています。王の権限が強化されたということなんでしょうか。クレーロス(持ち分地/私有地)の売買禁止、銀貨の使用禁止もします。他国との往来も禁止、貿易も禁止します。スパルタは農業国なので、自分たちの食べる分を自給できます。だから、こうした措置を取れるんですね。経済的鎖国と言っていいと思います。金貨は禁止なんですが、鉄貨だけ流通したようです。
かつてはスパルティアタイにも身分差はありましたが、こうした措置によって平等者(ホモイオイ)になったと言われています。王はいるんですけれどね。
いつまでスパルタは総有制を維持するかと言うと、ペロポネソス戦争(BC431年からBC403年)までです。そのころにはスパルタにも貨幣が流入して貧富の差が生まれました。民主化闘争が起こって混乱して、衰退して、全ポリスが参加するコリント同盟にさえ参加できなくなったんです。

スパルタとアテネ以外のポリスでは、以前は没落してしない市民だけが鉄製の縦、鉄製の兜、鉄剣、鉄の槍を買えました。お金のない人は戦争に参加できないか、対した武装もせずに参戦するしかありませんでした。貨幣経済に入り貧富の差が出て、物価が下落して、鉄まで安くなるので、没落している人でも鉄器を買って参戦できる、堂々と意見を言うようになります。多くの人が鉄の槍や盾を買って重装備をしての戦争参加が可能になります。つまり、重装歩兵の軍隊が生まれます。戦争に参加してポリスに貢献しているのだからと平民の参政権要求もあります。指導者層は対応する必要が出て来ます。

□アテネ
貨幣経済の流入で、政治的に混乱すると、世論の後押しを受けて調子のいい、威勢のいいことばかりを言う人が台頭します。21世紀にはポピュリストと呼ばれる人たちです。当時は僭主と言いました。けれど、こういう人は大言壮語なので、実際に行ったことをできるかと言ったらなかなかできません。すぐに期待外れの存在に成り下がってしまいます。
他の都市国家の勢力を背景にして独裁者となったキュロンによる僭主政治(チュランノス)も、暴君でゴリ押しなので長続きしません。
ドラコンさんは、9人いるアルコン(執政官)に就任していて、従来の慣習法の成文化をします。BC621年のことで、ドラコンの法と呼ばれています。私的な復讐を規制したんですね。裁判官の名前がわああっといっぱい書いてあります。流血事件があると、例えば被害者への賠償として土地を渡しても、被害者の方には働き手がいないし、けがをして働けない、つまり土地だけあっても被害者は仕方がない状態です。そこで、加害者は土地はそのまま渡さずに働いて、収入の6分の5は賠償金として払う。こうした規定があったようです。また、些細な罪でも死刑の規定があるなど厳しかったとも言われています。(この規定はソロンが廃止しました)。
・ソロンにより大ざっまな市民の平等が生まれたので、ソロン没後は地域対立が発生す。
BC594年、ソロンの改革。ソロンもアルコンです。
①負債免除というか軽減します。奴隷身分に落ちそうな人を減らすために、すでに没落している人を対象としました。約500gの銀塊の価格を従来の73ドラクマから100ドラクマにしました。つまり、貨幣価値の切り下げによって、実質的に負債/借金を減らしたんです。
②人身抵当の債務の禁止。もしかしたら、これから没落するかもしれない人を対象に、奴隷身分に落ちることを予防したんです。借金を返せなかったら、自分の体で払います。奴隷になりますと言うことですね。これを禁止。
③これまでの家柄などの身分をなくして、財産=小麦の納税額で4ランクに分けました。財産政治と言われます。高名な家名でも関係なく、
税金が500メディムノス級は、貴族とします。アルコン及び財務官の被選挙権を持ちます。騎兵としての参戦義務を持ちます。
次のランクが騎士とされます。騎兵としての参戦義務を持ちます。一般役職の被選挙権を持ちます。
農民。一般役職の被選挙権、重装歩兵の義務を持ちます。3mの長槍と盾は支給されますが、兜、甲冑、脛当て、剣は自弁(自分で用意します)。
無産市民。貯金がない労働者。無役(役職に就けません)。軽装歩兵の義務を負います。民会には参加できます。
参戦と参政の権利義務を明確化して、貴族でなかった人も政治権力を拡大させました。各階級から100人ずつを出して400人会議を設置。身分制議会ですね。
④民衆裁判所はソロンの改革から開始されますが、たぶん当時は選挙で選ばれていた。抽選と言う説もあります。
ソロンが目指したものは、市民の没落を防ぐこと。
とうぜん、お金を貸していた人/債権者は貸したお金よりも少ない額しか戻らないので、不満を持ちます。
無産市民も、土地の再分配を期待していたのにそうはならなかったので、不満を持ちました。

ソロン没後は市民の地域対立が発生します。
A山地住民/デヤクリオイ-貧民が主に住んでいます。共産制を要求。
B平地住民/ペディオイコイ-主に大土地所有者。寡頭政治を要求。
C海岸住民/パラリオイ-主に商人。穏健な民主政治を要求。
同じ血族で同じ地域に暮らしているので、強い結束が生まれて、別の地域とは激しく対立してしまいます。地域では上記の三つがあって、氏族を元にした兄弟組(フラトリア)を元にした部族が4つあります。
ペイシストラトスの僭主政治 -BC560年。軍を率いてクーデタで権力を握りました。非合法政治です。共産主義を訴えて、大土地所有者を追放します。無産市民(ヘクテモロイ)に土地を分配して、自作農にしました。ソロンがしなかったことを実行したんですね。だから、山地住民が支持しました。ナクソス島のポリスなどとの航路、販路を開放したので、海岸住民も支持しました。壺を作れば、販路はポリスが考えるとしたので、職人も支持しました。海岸住民のうち、部族のリーダーであるクレイステネスは亡命して、19年間は帰りませんでした。

この頃はアルカイック期と呼ばれ、人物の彫刻は生命と幸福を表すために口元だけ綻んでいました。こうした微笑をアルカイックスマイルと言います。

ヒッピアス(兄)、ヒッパルコス(弟)の僭主政治BC527年-BC510年。一族政治とも言われます。ペイシストラトスの子供です。BC514年にヒッパルコスが二人の市民に殺されたことで、ヒッピアスは強権化します。BC510年にはヒッピアスも追放されます。後で、ペルシアの侵入を案内します。
それにしてもなぜアテネにはこうも僭主が出るのでしょうか。アテネは直接民主制なのでチェック機関がないことがその理由だと言われています。
日本でも知事を直接選挙で選ぶので、政治家としての資質とは無関係に、俳優、作家、キャスター、歌手などが政党から立候補を促され、また市民がそうした人に投票します。

亡命していたクレイステネスは最初はテーベ、次にスパルタという具合に、アテネに対抗するポリスの軍事力を頼っていました。そして、紀元前508年にスパルタの支援でヒッピアスを追放しました。
BC508年-BC507年、クレイステネスの改革
①地域対立の芽を摘むために、150(のちに170)のデーモス(行政区のこと。デモの複数形がデモス)に分けました。都市部の町内会のようなもので、結束力はありません。地縁の分離を目指して、住むところを変更する抽選を何回も行ったために、団結できなくなりました。とは言っても本籍地と言うことです。そこに住まなくてもいいという条件でした。また血縁の四部族を解体して、人工的に十部族を作りました。部族と言うよりは組といったほうがいいでしょうね。例えば、
A山地住民/デヤクリオイの第一区と、
B平地住民/ペディオイコイの第一区と、
C海岸住民/パラリオイの第一区が同じ部族になります。
公式の場では、家名(名字、姓)を名乗ってはいけない決まりが作られて、例えば「徳川秀忠です」ではなく、「丸の内デモに属する家康の子の秀忠です」と名乗るということです。
②さらに希望した人のうちから、抽選で民衆裁判所の裁判官を選ぶようにしました。陪審員は30歳以上の市民から抽選で選ばれた6000人が任命されて、裁判ごとに籤で担当を決めました。日中に来て会場に入れた先着6千人と言う異説があります。6000人が一斉に審議することは稀で、大体は400人から600人のグループが審議したようです。民衆裁判所と言う名前ですが、民事裁判も、国対個人の裁判も担当します。のちのペリクレス時代に、陪審員に日当が支給されるようになります。陪審員が買収されないための措置と、一部の学者は考えています。
後で書くオストラキスモスの発動条件である有効投票者数の下限と同じ6000人と関係しているかもとも言われています。
③500人会(五百人評議会)の設置。ブレまたはブーレイと言います。十部族、つまり市民なら誰でも籤で各50人が抽選され、計500人で構成します。任期は1年で、連続しての再任が禁じられていて、生涯2回まで務められます。 役人の監査、軍船の建造と維持などを中心に、国政全般にわたる広範な権限を持っています。民会に提出する議案をあらかじめ準備する役目もありました。行政組織なので、21世紀の省庁に相当します。
④従来の、アルコン(執政官。この時期に9人から10人にしました)と、その経験者が構成するアレオス・パゴス会議(貴族の終身議員からなる元老院)は司法を主に担当しますが、この時期に形骸化しました。
また、アルコンに代わって、10人選挙されて再選も可能な将軍職(ストラテゴイ)が従来の軍事職だけから、政治の最高職になっていきました。成年男子市民全員の参加する民会が、アテネの最高政治機関となったといっていいと思います。民会は多数決です。

民主化は戦争と密接なつながりを持っています。ソロンの改革の要因となった世論は、ポリスの防衛に参加した人たちの参政権要求というものでした。男子普通選挙が施行されると、徴兵制になることもあります。近代、フランス革命後に民主制になると、徴兵制が導入されました。日本では逆で、立憲君主制ではありますが、1889年に国民皆兵制度となり、後から1925年に男子普通選挙が認められるようになりました。女性の参政権が遅れるのは、戦争に参加しないから、命を懸けて国家を守らないからという理屈になります。ただし、女性は命を懸けて、新しい命を生んでいます。国家の成員となるべき人を増やしているのだから、貢献していると言えます。その場合、子を産まない女性がしばしば離縁されたように、子を産まないと参政権が得られなくとも当然という結論に至ってしまいます。
全員が参政権を持つためには別の理屈を発想する必要があります。例えば納税者である事が条件になります。または、参政権は権利でもあるが、義務でもあるという発想をすれば、全員参加は当然となります。民主主義は全員が参加して初めて機能しますからね。オーストラリアでは合理的な理由がないのに投票しないと罰金を取られます。

オストラキスモス(ギリシア語です。オストラシズムは英語だと思います)の採用。直訳は陶片主義だと思いますが、陶片追放と訳されることが多いんです。広場に集まります。すると、そこにはごみとして捨てられた陶器のかけら(オストラコン)が転がっています。「おーい、みんな。そこらの破片に僭主になりそうな人の名前を書いてくれー」と呼びかけます。これは6000票以上の得票者のうち、最多得票者(または過半数の者と言う説があります)を10年間ポリスから追放する制度です。僭主を予防的に排除する目的です。但し、政敵排除のために、悪くない人に対してネガティブキャンペーンをして追放させることがあったので、BC417年に廃止されます。ペルシア戦争で活躍するテミストクレスは追放されて、敵国だったペルシアに保護されました。
この時代の文学として、ヘシオドスが労働って尊いよねということを書いた「労働と日々」、神の系譜を考えた「神統譜」があります。
イソップ物語」。作者の小アジア出身のアイソポスは解放(された)奴隷です。アイソポスの物語がなまったのかな。
この時代、女性は小アジアのイオニア風のキトン(薄い麻)などを着ていました。外套としては、薄くて、ひだの多いディプラックスなどを着ていました。ゾーナという下着もすでに着用していたようです。


□□インド

都市国家の対立がBC8-BC7世紀には、激しくなってきます。ガンジス下流の統一へ向う時代です。
BC7-BC6世紀には、十六王国に統合されます。
次第に耕作地が増え、穀物の余剰が出てくると、それを運んで売買する商人が台頭してきます。商人はいつでも権力者からの自由を求めます。どうしても堅苦しいバラモン教を忌避します。また、戦争の多い時代なので、クシャトリア(王侯貴族、戦士の階級)がバラモンの勢力を上回るようになってきます。
解脱を考えずに賛歌/ヴェーダばかり歌っているバラモン教、これでいいのだろうか?と考える人たちが出て来ます。バラモンやバルナ制/ヴァルナ制への批判から自由思想家が台頭します。その代表が六師と言われる人たち。誰を6人に選ぶかは歴史家によって異なるそうです。「歴史家により異同がある」と表現します。
六師は仏教の表現で、異端者の意味合いがあります。
1.道徳否定論のプーラナ=カッサバ /富蘭那迦葉 (ふらんなかしょう)
2. 運命論・決定論のマッカリ=ゴーサーラ/末伽梨拘舎梨 (まかりくしゃり) 
3. 懐疑論のサンジャヤ=ベーラッティプッタ/刪闍耶毘羅胝子 (さんじゃやびらていし)
4.快楽論的唯物論のアジタ=ケーサカンバラ/阿耆多翅舎欽婆羅 (あぎたきしゃきんばら)
5.因果否定論のパクダ=カッチャーヤナ/迦羅鳩駄迦旃延 (からくだかせんねん) 
6.ジャイナ教のニガンタ=ナータプッタ/ヴァルダマーナ/尼乾陀若提子 (にけんだにゃだいし) 。受験生はこの人だけ憶えましょうね。
そうは言っても、バラモン教の基礎は踏まえているので、ユダヤ教とキリスト教が似ているように全く異なる宗教ではありません。輪廻と解脱の概念は継承しています。

ヴァルダマーナ(尊称はマハーヴィーラー)が、ジャイナ教を創始しました。精神と物質から世界はできているという二元論で、宇宙は生命と非生命から成ると考えました。生きているうちに嘘をついたり、虫を殺したりして、悪行を行うので、カルマ/業(ごう)が垢や埃のように溜まっていきます。カルマ/業が多いほど嫌な者に生まれ変わってしまうし、カルマがある限り解脱できません。
ヴァルダマーナは、苦行をすれば、カルマを払い落とせると考えました。輪廻から解脱するために、苦行により業/カルマを消す。生物を殺すことは禁止(不殺生戒)で、信者は殺生を避けるために商売人が多いと言われています。田畑など都市の外では虫を踏むから農業をできない、村に住めない。魚や鶏肉もさばけない。虫を吸い込んで殺してもいけないからマスクをしている人も多い。箒で道をはいて、虫を左右によけてからそこを歩く。銀行やアクセサリー販売なら大丈夫なので、そういう職業の人が多いそうです。
仏教は苦行が不要なので楽で人気なのとは対照的です。ジャイナ教はきついので、信者は少ないし、拡がりを持たない。宗教は楽なほど広がりますからね。戒律が厳しいユダヤ教よりも、戒律破りが神に赦されるキリスト教の方が人気。修行をする空海の真言宗よりも、南妙法蓮華経と唱えるだけで救済されるの法華宗の方が民衆に支持されます。

ゴータマ・シッダールタは六師ではありません。ガウタマと書かれることもあります。仏教を創始します。悟りを開いてからは、仏陀と呼ばれます。彼の生存期間はBC565年-BC485年、いやいやBC5世紀中頃-BC4世紀中頃だとの異説があります。受験生は、だいたいBC500年前後にはユーラシア大陸で有名な思想、宗教が成立したと憶えておくと都合がいいので、この時代に書きます。
釈迦族の出身なので釈迦牟尼(シャカムニ)とも言われます。
コーサラ王国(現在のネパール)の支配下にあるカピラ国のルンビニにあるカピラ城の釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッダールタ。王子は貴族だからクシャトリアの階級です。生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と呟いたらしい。伝説です。
自由に伸び伸びと育ち、16歳で結婚し、3人の妻がいました。子もいたんですが、さんざん好きなことをしてから、妻子を捨てて29歳で家出、諸国を遍歴します。困った人ですね。
王子の時代、初めてこの世には病人がいると知って、ショックだったようです。それまではそうしたことは隠されていたんですね。そのショックから、世の中にある苦というものを考え始めたそうです。
高名なバラモンに弟子入りして修行に入ったけれど、苦行をしても悟れないと、彼は思いました。ブッダガヤの村娘のスジャータから布施としてお粥を受けて、体力を回復してから、菩提樹の下で涼んでいたら悟りを得ました。悟りは、自分は世界の歯車に過ぎず個性としては無価値なものと気付くことです。
先生は「ゴータマでさえこうだから、好きなことをしないうちから修行せよと言っても鬱憤が溜まるだけである。子供の時にマンガを読めないから大人買いをしてしまうんだ。子供の時に飽きるくらい読ませれば、たいていの人は落ち着く。ゲームもそうだ。遊びもそうだ。」と言っています。先生もマンガを読ませてもらえない子供だったんでしょうかね。
仏陀/ブッダは、世界は固定的で不変の物というバラモン教の世界観を批判し、徹底的な無常観を主張しました。無常観とは常の物などない、人間はいつか死ぬ、木も枯れる、そして生まれ変わる、世界とは変化しつづけるものということ。それを脱する/解脱するには悟りが必要。バルナ制/ヴァルナ制を否定し、社会の階級に関わらず、人間は誰でも難行苦行を経なくても解脱できると主張しました。私も解脱できるかもと思えるので、人気は出ますよね。バラモン教の「不変」という世界観、ヴァルナ制、ヴェーダを否定したのであって、全否定ではありません。自分が新しい宗教を作ったと意識していたかどうかも不明です。
サルナートで初説教をします。クシナガラで涅槃(ねはん。死去すること)。「冠婚葬祭の世俗的貢献から離れなさい。葬式と遺骨崇拝にはかかわるな」と言い残して、80歳程度で死んだようです。21世紀の日本の仏教は、葬式仏教と言われていますが、宗教って教祖の思想からは離れていくものですからね。ゴータマの遺骨を納めたストゥーパ(卒塔婆)を、五重塔などの形にして飾っていますもんね。
悟りを開いた人を阿羅漢と呼び、ブッダと同じ意味でした。後にゴータマの弟子で、悟りを開いた人をさすようになりました(つまりゴータマを除外する)。中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢と言い、第1回仏典結集(けつじゅう又はけちじゅう)に集まった500人の弟子を五百羅漢と呼びます。仏典結集とは、各地に散らばって教えを広めている弟子たちが、経典を持ち寄って、正確には仏陀はこう言ったということを確認しあい、これが正しい経典だと定めるものです。
最古の経典は「スッタニパータ」。スッタは経、ニパータは集成を意味します。「スッタニパータ」は文庫で出版されています。小説としてブッダの生涯を読みたい人には「シッダールタ」(ヘルマン・ヘッセ.新潮文庫)があります。
原始仏教時代とはゴータマと、その直接の弟子の生きている時代で、だいたいBC500年-BC380年のようです。
ゴータマの教え。
四諦(したい)-四つの真理の意味。この世には生老病死の四つの苦があり、その苦には人間の欲という原因がある。だから生きることは「苦」、その原因は「集」(執着、渇愛)にあり、対処法は渇愛を「滅」すことで、そうすると涅槃への「道」が開けるとう四つの真理を明らかにしました。
八正道(はっしょうどう)-涅槃に至る修行の基本になる八の徳。正見(正しくものを見よう)、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。
十二因縁-苦の原因と過程を説いたもので、12段階があって、時間も循環しています。
無明(むみょう)→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有(う)→生→老死(ここから未来)→無明へ戻る。
たぶん死と無明の間に六道があり、輪廻しています。ただ、当初は6つの世界/六道はそろっていませんでした。だんだん増えて六つになりました。天道・人間道・常に争う修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道。
無明-迷いの根本となる無知。
行-無明に基づいて、次の「識」を形成する働き。
識-受胎したときの最初の一念。過去ですね。
名色-母胎中で発育する心的なものと肉体的なもの。
六処-6種の感覚器官が整って母胎を出ようとする状態。
触-物に触れて知る感触のみの状態。
受-対象を識別感受する状態。
愛-欲望によって対象を判断すること。
取-自分の欲望に執着すること。
 有 。生存している現在です。
生/老死。
前のものが後のものの原因となっています。苦しみを断つため、その根本的原因である無明から順次に滅されなければならないと言われています。他の説もあるようですけれどね。
簡単に言うと、仏教の考えは、すべては無。一切皆苦、人生の全ては苦しい。諸行無常、すべては変化し、神も人も変化する。自我は不変だと思い込み渇望執着することが苦。人間はささやかな物からできていて、自我などの存在の余地はない。輪廻する無であると悟れば、執着がなくなり苦もなくなる。
BC6世紀ころになると、アーリア語+ドラヴィダ語=サンスクリット語の原形が発生します。融合が進んでいます。

□□中央アジア(南ロシアからモンゴルにかけての地域)

中央アジアの草原部の東部(と入試では表現されます)の方では、スキタイが活動しています。モンゴル高原、アラル海の北側ですね。馬の通りやすい地形や、季節によって洪水やぬかるみや雪原と化して通りにくい道、草が生い茂り馬の食べ物があるから通りやすい道などが定まってきます。そして、草原の道/ステップロードが形成されていきます。
スキタイは西に移動して、キンメル人/キンメリア人を追い払います。キンメル人はイランに逃げ込んで、そこでメディアと争いとなりました。

□□中国

周王朝。都は鎬京。
王族Aは洛邑に居を定め、王族Bは鎬京に居を定めています。この王族同士の争いがあります。異民族の犬戎を引き入れて、王族A(申侯)が鎬京を攻めます。BC770年、犬戎によりBは都の鎬京を落とされてしまいます。洛邑側Aの勝利により洛邑へ遷都します。以降、学者は東周と呼び、鎬京が都であった頃の周を西周と呼びます。

皆伝06 春秋時代 - コピー

孔子(BC552年/551年 -BC479)の著作、または編集とされている「春秋」には、BC722-BC481までのことが記録してあります。大体の時代が重なると言うことで、この時代(BC770年からBC403年)の中国は春秋時代と呼ばれます。「春秋」は孔子の出た魯国の史書です。史書は歴史書のことです。
魯国は東周と斉の間にある小さな国で、周王朝の始祖になった武王の弟であった周公旦が建国したようです。

いつ頃からか、はっきりしませんが、中国の人たちには世界の心のという意識が出てきて、周囲を蔑視するようになります。中華思想と言います。
方角別に北狄(ほくてき)、西戎(せいじゅう)、東夷(という)、南蛮(なんばん)という蔑称をつけました。
すべて野蛮を想起させる漢字ですね。
犬戎も西から来たので、戎という漢字を使われます。
おそらく遊牧民で、猟犬を従えていたので犬という漢字が使われたんでしょうね。
日本にもこうした中華思想が入るので、奈良、京都が中心と思うと、東北の人たちを蝦という漢字を使って呼びます。ポルトガル人などは南の東南アジアを経由してきたので、南蛮人と呼ばれることになります。

異民族に土地を奪われ、王朝が臣下に分与するべき新たな土地/封土が減るから封建制は立ち行かない時代です。とうの昔にもらった土地にはありがたみはありませんからね。地方勢力が勃興してきます。地域文化圏の成立の時代です。東周の領地は10分の1に縮小してしまいます。周王朝から派遣された世襲の官吏ではなく、現地の領主が支配下の官吏を派遣するようになります。顔見知りではない世襲でない官吏が行政をするようになると、慣習法が通じなくなるので、成文法へと変わっていきます。文章として記録された法ということです。
都市国家は減って、有力な都市国家の支配下に入っていきます。そうした邑制国家が、領域国家/領土国家になってきます。移行の時期です。
戦争規模の拡大で戦車(馬車)に代わり、騎馬兵や農民歩兵が登場します。領土国家になっていく時代なので、総力戦になるんですね。戦車はお金もかかるので数を多く頼めません。それで農民を徴兵するようになります。
この時代、青銅器から鉄器段階に入るので、牛に鉄の犂を引かせることで田畑を深く耕せるようになります。牛耕農法と言います。農閑期には戦です。天水農法から灌漑農法へと変わっていきます。そうすると、水をめぐる争いなどが頻発するので、私有財産の意識が出てきます。そうした過程で、氏族の共同体が衰退していきます。宗族の衰退ですね。

のちの戦国時代は下剋上の時代なので、周王朝を支える国などありません。春秋時代はまだあるんです。尊王の時代です。豊臣政権の五大老のように、周王朝を補佐する国が台頭していきます。主に五カ国が覇権を争いました。
斉晋呉楚越ですが、受験生は、字は異なりますが「精神呉楚越」と、一つながりの言葉として覚えるといいと先生が言っていました。地図で見ると、上から順にジグザグになっているので、場所も覚えられます。
そして、その君主を春秋の五覇と言います。と言っても学者によって挙がる名前が違うので、6人います。時代も重なっていません。人格者などを徳がある人と言ったりしますが、徳をもって天下を治めることを王道と言います。力をもって治めることを覇道と言い、覇道を行うものを覇者と言います。五覇はみんな覇者です。
斉は桓公BC685-BC643。管仲という有名な宰相がいます。宰相は宮廷の、王宮の首相のようなものです。
晋は文公BC636-BC628に覇を唱えました。
楚は荘王BC614-591。周が王を名乗っているはずなのに、もはや楚が王を名乗っています。そういう時代です。尊王のはずなんですが、定形に収まりませんね。
呉王の闔閭(こうりょ)BC514-BC496 
皆伝の区切りでは次の時代ですが、
呉王の夫差(ふさ)BC495-BC473
越王の勾践(こうせん)BC496-BC465 呉に会稽の戦いで負けたことから、「臥薪嘗胆」という言葉が生まれました。敵対していたので、「呉越同舟」の語もこの二カ国に由来しています。 

孔子は孔が名字、名前は諱(いみな)とも言ったりしますが丘です。字(あざな。あだ名のようなもの)は仲尼(ちゅうじ)。尊称である子(先生の意味)を付けられて、孔子(コンツー)と言われます。
身長が220cmあったとも伝わっています。魯国、山東省曲阜の出身。巫女の家系。巫女の血筋を持つ大男なので、言うことに迫力がありそうです。カリスマになる要素を持っています。
魯国の始祖である周公旦(「周礼」という本も書きました)を理想として、彼の定めた礼制(人間関係の秩序)を学び、伝えようと考えました。けれど、当時の魯国では礼制が蔑(ないがし)ろにされていたので、魯国を去って、斉の都である臨淄 (りんし)に行ったりもしました。当時の学問、経済の中心の都市だったので、知識人から多くを学べると思った、そういう理由もあると思います。
周公旦を徳のある理想の人と思っているので、野蛮な土地でも君子(徳のある人)が住めば粗野でなくなる、刑罰などなくても道徳を教えれば自ら恥じ入るとして自発性を重んじたと言われています。王道ですね。思想の体系化はしなかったと言われています。弟子たちが体系化をしていって、儒教と言われるようになりますし、そのグループを儒家と言うようになります。
儒教には現世利益や来世救済がなく、高等宗教と言えぬという人もいます。だから中国では、後に道教が現世利益、仏教が来世救済を補完する余地があったとも言われています。
宗教ではなく哲学だという人もいます。
孔子はその思想をまとめようとはしなかったので、非体系的です。硬直性と無縁なのがいいところかもしれません。その分、体系化された宗教とは違うと宗教家からは観られます。
何かの真理を探究するものを学問と言います。そのうち、事物の本質とは何か?を問うのが哲学です。
神、天などのえる存在/超人を前提として世界を説明するものを宗教と言います。この点で、儒教は宗教と言えます。
受験生は宗教、思想としては儒教、学問としては儒学と考えても構いませんし、同じものだと考えても構いません。

孔子の思想としては、仁義礼智。
仁は愛を意味します。精神の在り方が仁、つまり愛であれと言っています。その実践が忠義寛恕。
恕は人にしてほしくないことは人にするなというものです。キリスト教は、人にしてほしいことを人にせよと言っています。両方とも、みんなが同じ価値観を持っている前提でいるんですね。
仁政をすればみんながいいなあと思って集まるので、人口が増え国力が上がる。王権というものは天命/天の命令であり、武力で取るものではない。民を苦しめたらそれはもう王ではないから、革命をしていい。ジョン・ロックなどに通じる考えですね。
仁義孝悌。仁は君主への愛、義は友人への、孝は親への、悌は兄弟への誠実な態度を言います。義理と言うと友人を思いますし、親孝行という言葉もありますもんね。親孝行は儒教に由来するんです。日本人は儒教の信者でなくとも、その影響を受けているんです。
礼は秩序を意味します。機能としては行動を律するのが礼。
智は是非を分別するものです。理性と言っていいのかな。
「修身」自己を修めれば、「斉家」家庭は治まり、「治国」そうすれば国家は治まり、「平天下」国家が治まれば天下は平らかになる。つまり、個人-家族道徳-国-天下へと行くために、まず自己をきちんとする。
儒教には四書五経と言われる経典/聖書があります。弟子たちが長い期間をかけて編集していくものですが、簡単にここで書いてしまいます。
五経-
①「詩経」。BC11₋8世紀、周から春秋時代に作られた叙情詩305篇を孔子が集めたもの、中国最古の詩集。
②「書経」。中国最古の史書と言われることがあります。「地」の文言は、日本の元号である「平成」の由来です。「昭和」も「書経」に由来しています。)
③「易経」(えききょう)。主に商以来の占いの本です。占い師を易者と言います。「大正」の由来はこの本にあります。
④「春秋」。魯国の史書です。
⑤「礼記」(らいき)。礼の本です。
四書-
儒学の基本となるのはこの四冊だ、と12世紀に朱熹(しゅき)という人が定めました。定める前から存在はしています。
①「論語」。孔子の言行録です。ったり、ったりしたことの記を死後にまとめたものです。論語に収録しなかった話は「孔子家語」に収められていて、「明治」の元号の由来はここにあります。論語の外伝、外典と言えるものです。
②「大学」。もともとは「礼記」の一篇だったんですが、独立しました。二宮尊徳さんが手にしている本だそうです。
「天は人に本然(ほんねん)=本姓を与えた。温和慈愛の道理たる仁、是非を分別する智などである。肉=気質に惑わされるのは愚者である。本性に従って生きなさい。聖人は見本を示して、万民を教育しなさい。暗記と修辞は無意味で、人の師となるには不足である。年齢と徳を長じるのが人のである。大学教育とは、本性の徳を明らかにする(=明徳)、私有しないで広める(=新民)、至る善=君の仁、臣の敬、親の慈愛、友の信である。」
人民良く善に向かって、自ら新めるなら、良い国になる。鳥でさえ止まる枝を知る、人間は至善を選ぶべき。悪臭の如く悪を嫌い、好色の如く善を好みなさい。真実に全力を尽くしなさい、善に従っているかどうかは自分が知っている。天地己に恥じない行いをしなさい。嫌な人の美点、好きな人の悪しきところにも気づきなさい。子を慈しむように衆人を扱いなさい。賢人を採用して信じ、不善の人は放逐して完全に遠ざける、情をかけない。公共事業で民間を圧迫し、税金を搾り取るのは最低である。」
などが書かれています。
③「中庸」。中庸というのは、偏らず、平常で、不変で、適切妥当であること。「自然に何でも分かってしまう聖人でなくても、懸命に努力すれば聖人に近づくことは叶う。欲に惑わされず、善を選び取りなさい。外からの影響を受けると喜怒哀楽の情が起こるが、影響がある前の平静なる心を思い出して対応しなさい。才能あるものには任を与えることで応えなさい。忠信あるものには信を持って応えなさい。遠来の人には恩を施し、諸侯は手なずけて刃向かうことのなきようせよ。百姓には十分に生活の具を与えよ。そうすればうまく天下が治まる。部下にこうあってほしいというものがあったら、自分は自ら上司にそのようにしなさい。天はもとより公平無私である」と言ったようなことが書かれています。
自分の境遇、才能、周囲の人間関係、自分の精神状態、欲に捉われずに、そういったことの影響を受けての判断ではないと思える正しい道をひたすらに選びなさいということなんでしょうね。
④「孟子」孔子の孫の弟子である孟子が書いた本。
四書、五経はたぶんすべて文庫として出版されているので、もっと知りたい人は読んでみることをお勧めします。
心に刺さる言葉があるかもしれませんね。

□□日本列島

弥生時代の定義/条件とは何でしょうか?
農耕水田・環壕集落・鉄器と言われています。
弥生時代の名称は、東京都の弥生という地名に由来します。そこで、縄文土器とは違う土器が出土したんです。けれど、今やどこが出土場所だったのかさえ分からなくなっているそうです。そして、土器を時代区分の条件としない方がいいという意見が学者の間で主流になっています。なぜかと言うと、
弥生土器の最古のものは、福岡の板付遺跡から出土した夜臼式土器(ゆうすしきどき)と、現在のところ考えられています。これはBC8世紀ころのものです。福岡の橋本一丁目遺跡が弥生土器の最古だとする説を取る場合は、BC10世紀です。
縄文も弥生も、土器を作る技術は同じです。縄文土器と弥生土器を区別すべきでなく連続したものとして捉え、単なるマイナーチェンジと考えるべきだとの説が有力となって来ています。弥生時代をいつからにするかにより、この土器が縄文土器なのか弥生土器か変わります。将来、縄文土器・弥生土器の区別はなくなるかもしれません。
研究者でも見ただけでその土器が縄文か、弥生かを判別するのは難しいんです。特徴はありますが、難しい。大人と子供の見分け方に似ています。子供は小さい・声が高い・皺がない・髪の毛がたくさんある。大人は大きい・声が低い・皺がある・髪の毛があまりない。こうした特徴はありますが、若くても声が低い・小さい・皺がある人はいますし、18歳の人を見て大人かどうかを判断するのは難しいですよね。縄文-厚い重い黒い。弥生-薄い軽い赤い。これも最大限の違いを表した特徴なので、時代の境界線上にある土器は、ほとんど差がないようです。
そういうわけで、農耕水田・環壕集落・鉄器が弥生の特徴/条件とされました。
土器に付着している米がいつのものかを調べると、BC900年-BC800年くらいが最古のようです。それで弥生時代はBC900年頃、つまりBC10世紀からとする説があります。
この米は、縄文時代の畑の陸稲と違い、水田の水稲です。
とは言っても、遺伝子上は全く同じだというので、湿地に適応しただけということですね。土器(甕)で米を煮て食べるんですが、共用皿を使います。個人のお皿はないんです。壺は貯蔵に使います。土器が用途別になっていくんですね。弥生時代は煮炊き用の土器は7ℓ以下で、7ℓ以上は水甕です。運搬用の皮で包む、網縄で縛ったものもあります。
弥生時代の終わりはAD3世紀半ば。以降は古墳時代に移行します。つまり弥生時代は最大で1100年ほどの期間です。

この時代の初期は寒冷化が一層激しかったようです。それで、多くの人が朝鮮半島からやって来ました。交易でやってきた人もいたでしょう。
列島で有力者となり小国を形成しました。21世紀のような国境、国民、国土を持った国家とは違うので、「クニ」と歴史家は表現しています。代表的なクニに、北九州の奴国(ぬこく)があります。そして、環濠集落、祭祀のための塔などを作りました。農耕がうまくいくように祈ったのかもしれません。代表的な環濠集落に、佐賀県の吉野ケ里遺跡、神奈川県の大塚遺跡があります。

水田が根付いたのは半島からの人が持ち込んだ技術によるものである可能性が高いそうです。農耕水田が九州北部から瀬戸内海の西部に伝わるまでに200年かかりました。大阪までは300年かかっています。奈良までは400年のようです。
だから、長野県、千葉県、宮城県にいる人は、農耕水田など知らないわけです。縄文文化の中で暮らしているわけです。日本列島が一気に弥生文化に変わったわけではないので、いつから弥生時代と言えないのもわかります。農耕水田の伝播には、農具や灌漑設備(かんがいせつび)が伴っていました。/灌漑とは、溝を掘り水を引くことです。
対人武器も入ります。入ってきた青銅器(BC100年の説もありますが、早いとBC800年頃です)は銅鐸などの非実用儀式に使います。副葬品の勾玉・鏡・剣も青銅でできています。但し、こうした儀式用のものは、実用的なものではないと歴史家は考えます。青銅器と同時に入ってきた鉄製品は実用的なものに使われました。だから、日本列島には青銅器時代はなく、鉄器時代へ入ると、学者は解釈しています。鉄器の流入もBC8世紀だ、いやBC4世紀だ、と異説があります。本格的に鉄器が持ち込まれたのはBC4世紀頃とすると、2017年に石川県から出土した、完璧に近い形の槍かんなが最古の鉄器ということになります。槍かんなは、シュハスコを取り分ける時のように、片手で持ち、ナイフのようにして表面を削ぐ鉋です。
農耕水田だけではなく、鉄器も入って初めて弥生時代と言うのであれば、BC4世紀ころからが弥生時代と言えます。
こうした弥生文化は、伊勢に達したあと、すこしとどまったようです。濃尾平野はこの時代には、おそらく海でした。急峻な山もあったので、そこで遮られて止まったんだと思います。朝鮮半島からの渡来人と縄文人は、愛知と京都を結ぶ線までは混血して、「弥生」人になっていったようです。
混血しなくても、文化を受け入れれば弥生人とも言えます。
言葉も混じっていったでしょうね。
北海道、沖縄には古い言葉が残るとはよく言いますが、弥生文化にしても、その後の文化にしても入りにくいので、縄文の言葉も残っているかもしれませんね。

伝説ではBC660年に神武が天皇として即位したそうです。この年を紀元とする場合、AD1940年/昭和15年に皇紀2600年となります。皇紀2600年が祝われたのはそのためです。天照大神-子-孫/ニニギノミコト(天孫降臨をした。宮崎県へ降りてきた。妻は木花開耶姫(このはなのさくやひめ)。その姉を追い返したせいで、永遠の命を失ったそうです-山幸彦-子-孫/神武(宮崎県生まれ)。
詳しくは「古事記」を読むと書いてあります。
弥生時代になると、文化が変わります。弥生人の持ち込んだ文化なのか、気候変動に合わせたのかわかりません。女性は貫頭衣、男性は袈裟衣へ変わっていきます。
住まいは、竪穴住居です。
周りに環状に濠(水を張る)や壕(水はない)を巡らした環濠集落が登場します。これを、学者は防衛のためと考えています。縄文時代と比べて、戦争が激しく、頻繁になったと考えているんです。縄文のように核家族で暮らすことが主流でなくなり、集落に人口が増えたことが原因でしょう。狩猟、採集、漁労のように移動式の生活ではなくなりました。負けそうだから戦わずに逃げるという縄文と違い、農耕のために定住しているので、簡単に集落を捨てて逃げられないという原因もあるでしょう。
お墓や棺に入れる副葬品の勾玉(まがたま)・鏡・剣も青銅でできています。

□□アメリカ大陸
□中米

中米の人たちは15世紀以降にスペイン人などが来るまで、鉄器を用いませんでした。
メキシコ中央高地には、長さ70mの土製建築がありました。メソアメリカで最古の女性の石碑も作られます。 渦巻きを吐く異形神の石彫も描かれました。
海岸部には、オルメカ文明が継続しています。
サンホセモゴテには、BC700年-BC500年に260日暦を表す最古の文字が刻まれました。踊る人と言われる石彫もあります。彼らがサポテカ文明の中心になっていくモンテアルバンを建てます。
BC700‐BC400年、マヤ低地南部(グアテマラ、ベリーズ)にティカル、ナクベ、北部にショクナセフなどの都市ができて、神殿ピラミッドもたくさん作られます。
ナクベには、高さ24mの神殿ピラミッド。先古典期中期の初のセンター/拠点/文化的中心。前800年、奢侈品の分布を観ると、格差がうまれていたことがわかります。マヤ低地で最古の球技場もあります。どんな球技なんでしょう。身長よりもやや高いところにある輪っか(バスケットボールのリングのような)に、ゴム球を投げて通すと得点になったそうです。遊んだり、賭けたりしたそうです。命を賭けたこともあったそうです。
ラ・リベルタは先古典期の中期後期の大センター。黒曜石、ヒスイの交易網をコントロールしていました。ラ・ベンタ、チアパデコルソに似たパターンで、広場と20mのピラミッドが配置されました。宗教的なつながりがあったんですね。日本でも、古墳の作り方や形に地域性が見られたり、関西をまねたりしていましたもんね。
ユカタン半島のコムチェンの遺跡からは、この地域で最古の土器も見つかっています。後期には2㎢の範囲に1000を越える住居がありました。高さ8mの神殿ピラミッドは低い気がしますが、4ヘクタールの中央広場は大きいのかな。
もっと知りたい人は「古代メソアメリカ文明」(青山和夫.講談社メチエ.2007)、「マヤ文明を知る事典」(青山和夫.東京堂出版)などの本があります。

□南米

BC800年-BC500年、リモンカルロには広場を囲むU型の建築があって、中央基壇には階段や、コンドルなどの線画の壁画があります。
BC1500-BC500年、プエマペにはモンテグランデ様式の器の副葬もありました。貝類は南からの寒流が大半なのに、BC500年頃を境に北からの暖流の貝が多く出るようになるので、気候変動なのかという学者がいます。交流の相手が変わった可能性もあります。
ペルー北高地に、クントゥルワシ。遺跡の発掘に、日本の考古学者が深く関わったそうです。名前が印象に残ります。
チャビン文化も継続しています。チャキナニという都市が、この時代には地方の中心都市のひとつになっていたかもしれないそうです。
アルヘンティーナ(アルゼンチン)、チリでは狩猟採集をしています。土器もまだ作っていません。
南米の人たちは15世紀以降にスペイン人などが来るまで、鉄器を用いませんでした。

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今回はBC750年-BC500年の世界を書きました。
次回はBC500年-BC334年の世界を書きます。
ペルシア戦争、十二表法などのローマの法制化、ソクラテス、中国の戦国時代などです。
次の皆伝07はこちらです。
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