なほこ500
言葉にすることで、自身のグリーフを吐き出しているところ。ほぼ回復。
古典の意訳です。今のところ怪談がメイン。
袖振り合うも多生の縁 という諺があるが、 袖が触れる程度の縁なら、日常であまり意識しないだろう。 しかし、2~3日同じ場所で時を過ごした人とは、どれくらいの縁になるのだろう。 縁がある、はよく聞く。 縁が深い、とかあまり聞かない。 縁は、ある、か、ない、の2択なのだろうか。 薄い縁、縁遠い、地縁、奇縁、縁故、因縁…等々、調べればたくさんあるが、 その中でも、まさに奇縁というのに出くわしたことがあった。 海外行きの飛行機で隣り合った席の年配の人と行き先が同じ、滞在日もほ
たぶん、無意識に避けていたのだと思う。 高校の時に失った友人について、具体的に思い出すことを。 これまで触れていなかったが、書くことで、どうしても思い出してしまう。 気づけば、あの時から20年以上経ってしまった。 事故の原因となった相手が見つかったのかどうかも、知らない。 調べれば、すぐわかるのだろうが、調べようという気にならない。 責める相手を特定したところで、何かが変わるわけでもなく。 地元に帰って、久しぶりに共通の友人に連絡を取り、会った。 もう一人加わったこともあ
隣で眠る人たちの寝息 寝返りを打って布団が擦れる 換気扇が回っている ぼぉ~ シーンという音は、自分の耳の周辺の器官がたてている音らしい、と昔、何かで聞いた まっくらとも言えない部屋の中 頼りない たよりない 灯りに 守ってもらおうとしたのは自分だった
思い出される顔は いつも笑顔です 怒っているのでもなく 悲しんでいるのでもなく 人生の難しさを知る前の笑顔 人生の苦味を知っている笑顔 どの笑顔も 思い出されては あなたが還るのを 待っているよ いつでも いつでもいいよ とほほえみかけてくれるのです そこがわたしの熱情の源 たましいの故郷
祖父の手紙をいくつか写した。 次はそれを繋ぎ合わせている。 何でこんなことをしているのだろうか、といえばいろいろと理由はあるのだけれど、 グリーフ・ケア的に言えば、3年越しに祖父の看取りを続けているのだ、と言えるだろう。 そう考えれば、看取りは永遠にし続けることができる。 直接看取れなかった後悔も、その状況を選択した過去の自分への不甲斐なさも、 祖父の手紙と交流することによって、祖父との交信を続けていける。
突然、学生時代の後輩のことを思い出した。 いつも自信がなさそうにしていた彼を、5つ以上も歳が上のNさんは傍に置いていた。 傍に置いていた、というか、傍に居たいだけ居させていたのだと思う。 後輩はNさんの家で寝泊まりすることも少なくなかったようだった。 とにかく、その二人がセットになった光景は、いつの間にか日常になっていた。 Nさんは私にとって部活の先輩で、留年していたといっても年齢にしては随分大人びた雰囲気の人だった。 背の高い男性で、グループの中で中心的な存在だったとい
今日も祖父の手紙を写している。 死因に特別な理由がない場合、その嘆きは穏やかになる、かもしれない。 ただ、祖父が亡くなった2年前は、コロナ禍の初期だった。 どんなに遠くに住んでいても、葬式には駆けつけるのが親族としては当たり前と思っているのだが、それができなかった。 こういう言い方は乱暴だが、コロナのせいで参列を拒否されたのだった。 当時、私は悲しい気持ちのやり場がなくて、同居の家族に対する怒りとしてぶつけてしまっていた。 それに気がついたのは、ずいぶんと後になってからだっ
世の中に、自分の背中を押してくれた人はどれくらいいただろうか? あるいは、今も押してくれる人はどのくらいいるのだろうか? 私が普通に学生生活を送っていたときも 職場でいじめられて行きたくないと毎日シクシク泣いていたときも 心から落ち込んで外に出られなくなったときも 一念発起して学生に戻ったときも また仕事でヒィヒィ言ってたときも 変わらず私の背中を押してくれたのは、遠くに住む家族と、亡くなった友人の存在だった。 家族から離れて、遠くで勉強や仕事がしたかったのは、そうせざる
今日も祖父からの手紙を写している。 写しながら、そういえば、誰かが文字を書くところを見ることが減ったな、と気づく。 普段、家族以外の人に会ってないから尚更だが。 自分で書くのもメモ程度が多くなった。 手紙を書くときは、誰しも自分の状況を客観視せざるをえない。 誰かに伝えるのであれば、状況説明が必要になる。 状況抜きで主観に訴えることも可能だが、相手には伝わりにくくなるだろうから。 対面するとカッとなってケンカしてしまうような相手のことを書くときですら、一歩引いた視点から
祖父から届いた手紙の文字をなぞって、何がしたいのだろうか? 自分に問いかけながら、作業している。 祖父と手紙のやり取りをしていたのは、私が実家を出てから祖父が亡くなるまでの17年間。 祖父が亡くなってからは、誰かと手紙を交わすことも滅多になくなった。 そこまで考えて思いあたった。 そうか。 私は未だに祖父と手紙を交わしたいんだ。
今日も祖父の手紙を写した。 筆跡を辿るのは、すぐに慣れた。 今まであまり気がつかなかったけれど、祖父と母の字は似ているところがある。 やはり親子だな。 たまに、夫と私の母の字が似ているところがあって、不思議に思う。 ドロドロの血縁ドラマが始まりそうな伏線ではないぞ。
土に触れるたび あなたのことが思い出された 幼い頃の記憶 土に触れるたび 幾度も幾度も よみがえってきた こんなに度々、思い出すことができるなんて 思ってもみなかった 土を触り、野を耕すまでは 水を撒き、果実を獲るまでは 草や花は育つ どんどん どんどん 小さな鼓動を空へと響かせる 私の中にあるポカンとした洞穴に 思い出と名付けたネクタルを注ぎ いっぱいに満たす あなたと語らう ネクタルの中でも シュワシュワ……
誰かの死にともなって感じたグリーフ(悲嘆)を綴ることで、読む人を暗い気持ちにさせたいのではない。 少なくとも私は。 友人の死からは既に20年過ぎているし、両祖父についても15年とか、2年とか経っている。 なぜ、そんなに時間が経過した今になって、誰かの死を悼むことについて書こうと思ったかというと、グリーフ・ケアを学びはじめたことによって、自分の中で、何かが回復していると感じているから。 「何か」が何なのかは、わからないのだが、 たとえて言うなら、植物が種から芽を出すように
2年前に亡くなった祖父の手紙を少しずつ写している。 グリーフ・ケア講座の音声を繰り返し、聞きながら。 自分の頭の中で繋がらないところを、何度も聞いている。 ゆっくり考えたり、実践してみて、自分の中に落とし込みたい。
職が安定しないのも 趣味が継続しないのも 時々、沈んでしまうことも 先に逝ってしまった彼女たちの分を 生きているのだと思うことにした 生きてる わたし 生きてるよ 雨の日も晴れの日も 晩御飯のメニューで夫とけんか 朝起きれなくてグズグズ泣く娘 あの頃には見えなかった たいせつなものを両腕で抱えてる あと何十年か経って もし先に逝った人が増えてたら わたし もっと道に迷ってるかも より多くの人の分を生きるようになるのかも そんなのでも いいかもしれない
ラジオドラマ、朗読用の脚本です。 本文ナレーター「昔々のお話。京都に富田(とんだの)久内というものがおった。歳は若いが情け深く、慈悲にあふれた人物だった。ある日、家を出て北野天神という神社にお参りした。お参りを済ませ、もと来た参道沿いの茶店に入り、座って茶を飲んでいるところに、12,3歳頃とみえる小坊主が歩いてきた。小坊主の顔は青ざめ、疲れているようだったので、久内は思わず、声をかけた」 久内「やあ、小僧さん、あなたはどこのお寺の方ですか?」 小僧「はい、私は東山の方から