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自分を卑下することをやめられないぼくの人生論

よく、自分を卑下する言葉を使う。その方が落ち着くから。

自分を誇示するのは好きではない。性格なのかなんなのか、自分を卑下している方が落ち着くのだ。しかし、心とは正直なもので、自分を卑下する言葉を使うと、心がキュゥゥゥゥッと縮まっていくのを感じる。たぶん、心にとってあまり良いことではないのだろう。それを感じながらもやめられないのは、自分がこの世で最も愚かな人間だからである。

これまでたくさん人に迷惑をかけてきたし、たくさん人を傷つけてきた。傷つけてしまった人の中には分かり合えた人もいたが、それで自分の罪が消えたわけではない。傷は心に残るのだから。

ドヤった方がいい、みたいな文化を最近はところどころで見かけるが、ぼくはなんともそこに積極的になることができない。今日も死ぬ気で頑張った、自分は天才だ、おれはすごい、偉い、かっこいい、、、なんて言葉たちをこうして文字にするだけでも心がむず痒くなる。落ち着かない。だって、自分は誰よりも愚かな存在なのだから。

そもそも、自分の評価は自分で決められない。人間社会で生きている以上、評価というものは常に他人軸だ。いくら自分を大きく見せても、見る人が見れば小さいのだ。何度も人を傷つけてしまったぼくは、どれだけ社会貢献をしようと、最低人間であることに変わりない。だからぼくは、自分を誇示することができないのだ。例え自分のやってきたことをどれだけ並べようと、それによってどれだけの人がぼくを認めようと、ぼくはただやってきただけと思うだけ。その結果を受けてドヤることなど、首元にナイフを突きつけられてもしないだろう。

こうして文を書いている間も、心がキュゥゥゥゥッとなっている。無知蒙昧な自分だったら、自分を激しく誇示できるのだろう。傷ついたことも、傷つけたことも知らないままでいれたら、ずっどずっと、誰かの役に立ち続けていると思えるのかも知れない。でも、それはもう叶わない。人生、知れば知るほ闇である。ときたま溢れるわずかな光を頼りに、暗闇が深くなる奈落を進み続けるしかないのである。

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