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資本主義が苦手な僕らは、好きなことで生きていくことができるのか

〝好きなことで生きていく〟
なんて耳障りのいい言葉だろう。

そんな言葉を信じて進み、自分を見失ってしまう人は、一体いまの世の中にどれだけいるのだろう。

好きなことを夢見て進むと、資本主義の魔法にかかる。そこは共同幻想の世界。僕らの活動には常に〝数字〟が付きまとう。

人を測るのは数字だ。

SNSフォロワー数が10万人だから「この人はすごい人だ」とか、書籍を10万部売ったから「この人は有名な人だ」とか、そんなふうに人を視る。まるで数字を、戦闘力かなにかのように感じ、スカウターのような曇りガラスを一枚視界に挟んで、僕らは人を見定めている。(ドラゴンボールがわからない人ごめんなさい)

好きなことで生きるために、自分に影響力をつけようとSNSを始め、フォロワーを増やすことに躍起になる。

常に周りと自分を比べ、あの人は自分よりフォロワー数が多いから上だとか、あの人は自分より下だとか、どうすれば数字を伸ばせるのかとか、そんなことで僕らの頭はいっぱいだ。

とにかく数字だ。数字が全てだ。数字さえ取れば自分の戦闘力が上がるのだと信じ、数字のことばかり考えて過ごしている。

数字が得意な人はそれでいい。

物事を論理的に考え、戦略的にものごとを展開し、効率良く作業を進めることができる。そんな人は、誰よりもこの資本主義というゲームに向いているだろう。でも、資本主義というゲームが苦手な人種もいる。

僕がそうだ。

数字よりも感情を優先してしまう。やりたくないことよりもやりたいことを優先してしまう僕らのような人間は、この世界で彼らのように器用に前に進むことはできない。

〝好きなことをして生きていきたい〟という人種は、このゲームには向いていないのだ。

そもそもこの資本主義社会では、〝好きなことをする〟ことと、〝生活する〟ことは相反している。

生活するために必要なお金は、ある程度需要のあるところに労力を掛けないと発生しない。しかし、自分の好きなことをただやっていては、ある程度の需要を満たすことはできない。だから僕らは、好きなことで需要を作ろうと安易に考えてしまう。

好きなことで生きるために、需要のあるものを提供しよう、他のことで数字を作ろう、影響力をつけようなんて考えてとりあえずやってみる。そのうち、自分でも気づかないうちに道から逸れ、「私は一体なにがしたいんだろう」なんて悩み始める。

自分を見失うことくらい、僕らにとっては日常だ。

そんな僕らは一体どうすれば、この数字で覆われた世界をうまく生き抜くことができるのだろうか。


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僕は、自分で言うのもなんだが、資本主義社会で生きるのがヘタクソだ。世の中の仕組みなんて知ろうともせず、周囲の反対を押し切って20歳から漫画家を目指し始めた。出版社へ漫画を持ち込みむ日々に貴重な20代前半を費やして、なんの実績も得られないまま気付けば26歳のフリーターになっていた。投資なんてかじったことも触ったこととないのに、儲かると信じて仮想通貨に手を出して300万円損をした。昨今の風潮にあこがれ、「おれも好きなことで生きていくんだ」と意気込み、漫画業で独立して1年半で挫折した。

僕はどう考えても、物事を論理的に順序立てて効率よく進められるタイプではない。自分の感情を最優先に、後先考えず突っ走ってしまうタイプだ。そんな人間がこの資本主義というゲームに向いていないことがわかったのはついこの間、漫画業で挫折して少ししてからのことである。

僕も〝成功〟という言葉に憧れたうちの1人だ。もっと言うと、〝成功〟という言葉に憧れて、自分を見失ったうちの1人だ。 

インフルエンサーなんて言葉が、日本でも流行り出した頃、「インフルエンサーになれば好きなことで生きていける」と信じ、SNSに盲信的に取り組んだ。「とにかく有益なことを発信して数字を稼いで、漫画という自分の商品を集まった人に売ろう」そんなことを考えていた。『フォロワーの増やし方』を発信しているインフルエンサーを見てひたすらに真似をした。多少は数字を伸ばすことができたが、彼らのように突き抜けることはできなかった。「好きなことで生きていこう」と漫画業で独立した頃は、フリーランスの、これもまたインフルエンサーが発信している情報を真似て取り組んだ。やっぱりうまくいかなかった。

僕は器用な人間じゃなかった。誰かの発信した情報をそっくりそのまま真似て行動に移せるほど、器用な人間じゃなかったのだ。

どうしても、論理の間に感情が入ってしまう。

成功者の情報をそっくりそのまま真似すればいいものを、「あれはできるこれはできない。あれはやりたいこれはやりたくない」と、感情が選択を左右する。結果的に、成功者の真似をしているのに、なんだかうまくいかない結果になってしまう。

成功者はそんな僕らに、「そりゃ成功しないよ。そっくりそのまま真似してないもの」と言うだろう。そんな彼らに僕は、「いや、だからそれができないんだよ」と言いたい。

僕と彼らは違う人間だ。人間という種類では同じでも、個体としては別の、違う人間だ。彼らとは生まれ育った環境も、考え方も、なにを見てどう感じるかも全て違う。なのに、彼らの全てをそっくりそのまま真似て行動しろというのは、僕にはできない。

そもそもそんなに器用に生きれるなら、とっくの昔からやっている。

こんな不器用な僕らは、資本主義というゲームの中ではうまく生きれないものなのか。お金の支配から解放され、自由に好きなことで生き抜くことは、僕らには不可能なのだろうか。スポーツや娯楽、他のゲームは選べるのに、なぜ資本主義というゲームは強制参加なのだろうか。

不器用な僕らが〝成功〟を追い求めること自体、間違っていることなのだろうか。

そもそも〝成功〟とはなんなのだろうか。


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これまでの人生を振り返ったとき、数字の世界に大切なことはなに一つなかったことに気づく。

漫画業で食えていた頃の僕は、〝好きなことで生きていく〟を実演できていた。立ち上がりからSNSで近況を発信し、たくさんの人が応援してくれた。しかし、ふるわない業績とともに数字は減っていく一方。フォロワー数はみるみるうちに減っていった。いいねの数もリツイートの数も減っていった。数字の減りが落ち着いた頃には、僕は漫画事業に疲れていた。

僕は〝好きなことで生きていく〟を実演できなくなってしまった。SNSに何を投稿しても以前のようには振るわない。「僕の価値は下がってしまったんだ」なんて、そんなふうに自分を捉え、落ち込む毎日だった。

人生は面白いもので、そういうときにこそ大切なことに気づく。

僕には、そんなときでも僕の元を離れず、応援し続けてくれている人たちが確かにいた。

僕の業績が伸びて、発信の調子がいいときも、発信の調子が悪いときも、どんなときも、そばいにいてくれる人たちがいたのだ。そのことに気づいたとき、僕は彼らに感謝した。ただひたすらに、ひとりひとりのアイコンを眺め、感謝した。

「目の前にいるのはひとりの人間だ」

そう思ったとき初めて、僕は今まで彼らをどこか、〝数字〟として視ていたことに気がついた。

「とにかく有益なことを発信して数字を稼いで、漫画という自分の商品を集まった人に売ろう」「数を増やせば好きなことで生きていける」そんなことを考えていた僕は、目の前で応援してくれている人を、数字として視ていたことに気がついたのだ。

胸が苦しかった。

僕はなんて非人道的な捉え方をしていたんだろう。

アカウントの向こうには確かにひとりの人間がいて、どんな状況で、どんな想いで僕を応援してくれているはずなのに、僕はそんなこと考えもしないで、ただ数を増やせばいいとばかり考えていた。

自分を恥じた。

反省し、これまでのものごとの捉え方を改めることにした。


すると、資本主義の魔法が、徐々に溶け始めたのだ。


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僕は〝数字〟という共同幻想に、常に踊らさせていたことに気づく。

なんでフォロワー10万人の人を、すごいと思っていたのだろう。なんで、書籍を10万部売った人をすごいと思っていたのだろう。

彼らにフォロワーが10万人いようが、書籍を10万部売ろうが、その人はその人だ。数字が上がったたからって実力や中身が変わったわけじゃない。

彼らも中身は、ひとりの人間なのだ。

僕だって同じだ。フォロワーさんが何人いようと僕は僕だ。フォロワーさんひとりひとりだって人間だ。僕をなんとなくフォローした人もいれば、好きで商品を買ってくれる人もいれば、その熱量や気持ちは人それぞれだ。〝1〟という数字で一括りに測れるものでは決してない。同時に僕の戦闘力も、そんな数字じゃ測れるものでは決してない。

そんな当たり前のことに、僕はようやく気がついた。

僕は資本主義を疑った。数字がなんだ。数字どれだけ大事だというのだ。目の前の人の気持ちを隠してしまう数字なんてごめんだ。いくら売れようと、フォロワーさんが増えようと、数字しか残らないなら嬉しくはない。

目の前の人が僕に価値を感じ、応援してくれるから嬉しいのだ。その結果が〝数字〟という形になって現れるだけなのだ。数字を追い求めるから結果がついてくるのではなく、いいものを作って世の中に届けようとするから応援されて、結果として数字がついてくるのだ。

いままで気にしていたことが一気にバカらしくなった。

フォロワー数が多いからすごいとか、どれだけ売ったからすごいとか、そんなのは全然本質的じゃない。

その数字の中には誰がいて、どんな想いで応援してくれているかの方が遥かに大切だ。

ブランディングがしっかりしてるから売れる?マーケティングがうまいから売れる?応援されるから売れる?

違う。

どこまでいっても商品を買ってくれるのは人だ。人が価値を感じてくれるから商品を買ってくれるのだ。

順番を履き違えると、大切なことが見えなくなる。

売るのではなく買ってもらえるのだ。

数字しか見えていなかった頃の僕は、SNSを駆使してフォロワーを集め、自分の力で売ったなんて本気で思い込んでいた。

応援するのに論理的な理由なんてない。その人に価値を感じるから応援するのだ。

応援されたいから、大義名分を作って、苦しみをデザインし、共感を煽る。そんなのは打算的だ。本当は自分のやりたいことだけやりたいけど、それだけじゃ応援されないから、世の中のためになる大義名分を作るのだ。僕が「世界に挑戦」とか謳っていたのは、正直ブランディングだった。応援されるために設定した打算的な目標だ。

応援されるために、何か別のことをする必要があるのだろうか。応援されるために1対1で会う?想いを語る?ファンを増やす?応援される前に、応援してもらえるほどの何かを僕はしたのだろうか。誰かに面と向かって語れるほど、確かな想いはあるのだろうか。そもそもファンとは、増やすものなのだろうか。

応援してくれる人は、僕がどんなことをしようが応援してくれる。ブランディングを固めないと応援してくれないような人は、きっとどこかのタイミングで離れていくのではないだろうか。

作品を買うのはその人次第。ものが良ければ買った人が広めてくれる。魅力があれば応援してもらえる。そんなことは、SNSができる前からそうだった。一枚3000円のCDアルバムを買ったのは、人気アーティストだからじゃない。どこかで聴いたその曲が、心に深く刺さったからだ。そして自分がハマったものに共感してほしくて、友達に勧めた。ライブにも行った。グッズも買った。その一連の流れに、彼らを数字で測ったことは一度でもあっただろうか。

どこまでいっても結局は人と人だ。数字に本質的なことはひとつもない。ただの共同幻想だ。


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本質を視れば、結局は人と人だ。

ここは資本主義社会である前に人間社会だ。人間社会を究極に突き詰めると、人と人だ。僕がいて、誰かがいて、人と人とのやり取りで成り立っている。人と人とのつながりの社会だ。

縄文時代前半の人々には、身分の差がなかったと言われている。それは、発掘された遺骨で衣服や装飾に差がなかったことから、そのように言われている。彼らは誰に支配されることもなく、ただ生きるために、仲間と協力してマンモスを狩り、皆で肉を分け合って食べていた。そこに数字や権力はなく、ただ目の前の人を信用して、協力し合って生きていたのだ。

人間社会の本質も、ここにあるのではないだろうか。僕らは常に、目の前の人に支えてもらいながら生きている。仕事をくれるのも、商品を買ってくれるのも、目の前にいる人だ。人に支えてもらいながら、僕らは生きている。数字は関係ない。人は人だ。能力があるから仕事を振るし、価値があると感じるから商品を買ってくれる。数字を取っ払ったって、僕らの本質的な価値はなに一つ変わらないはずだ。


数字を持ってる人の言うことが正しいわけじゃない。いや、正確には、数字を持っている人の言うことを、そっくりそのまま真似できる器用さを僕らは持ち合わせていない。誰よりも感情的で不器用な僕らは、僕らの正解を僕らで見つけていくしかないのだ。誰も教えてくれない、自分だけの正解を。


今の僕はただ、自分を貫いて描いた作品が、誰かの下向きな心に刺さって、その人が前を向いて生きるきっかけにでもなればそれでいい。

結果的に作品が多くの人に受け入れられて、数字として現れるなら、そのときは数字を歓迎しよう。「これだけの人が僕に価値を感じてくれたんだ」と、素直に喜びを表そう。

でも、先に数字を求めることはとりあえず今はいい。

またそういった、数字的な戦略が必要になるときが来るかもしれない。でも、今の僕は、この世界で生きるのがヘタクソな僕は、資本主義というゲームのルールに逆らって生きてみたい。

もう少し、資本主義を俯瞰して眺めていたい。

僕は僕の気づいたことを大切にしていく。

僕に価値を感じてくれたひとりひとりを大切にして、好きなことだけで生きている日を夢見ながら、

今はただ、物語を描いていく。

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