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私とパパは本当に同じ色を見ているの?

10才のとき、夕飯に使うケチャップが足りなくて、お父さんと近くのコンビニに買いに行った帰り道。夕焼け空がとても綺麗で、お父さんが夕日をさして「あの赤が綺麗だね」と言った。私も綺麗だと思っていたから、「綺麗だね」と答えた。その瞬間にふと「今お父さんが見ている赤と私が見ている赤って、本当に同じ赤なのかな」と思った。
私とパパは本当に同じ色を見ているの?
もしも全然ちがう色を見ていたら。たとえば私が赤だと思っている色、お父さんには私にとっての緑色と同じ色に見えていたらどうしよう。
ちがう色を見ていて、「綺麗だね」と思っている気持ちが別のものだったらどうしよう。だって、私が赤を綺麗だと思う時の気持ちと、緑を綺麗だと思う時の気持ちって全然ちがうもの。お父さんとおんなじ気持ちだと思っていたのに、実はまったく違う色を見ていてまったく違う「綺麗だね」なんだったら、どうしよう。
そんなことが突然不安になったことがあるんだ。
このもんだい、一緒に解決してくれるかな。

まず、私はどうやって色の名前を覚えたんだっけ。
「りんごは赤いね」「葉っぱは緑だね」「このクレヨンは赤だね」と大人に言われてだんだん色の名前を覚えた気がする。パパにも色を教えてもらったよ。
だからもしも、違う色に見えていたら、教えてもらう間に「なんかおかしいぞ」ってなると思うんだけど…。絶対におかしくなるって、絶対に言える?
もしも、「なんかおかしいぞ」って全くならずに今日まで来たと考えてみよう。
私が「赤色」だと教えてもらった色、私が赤色に見えている色を、お父さんも同じように「赤色」だと思っている。けれどもお父さんの目には私にとっての緑色と同じ色に見えている。私が「緑色」だと教えてもらった色、私が緑色に見えている色を、お父さんも同じように「緑色」だと思っている。けれどもお父さんの目には私にとっての赤色と同じ色に見えている。その場合ってなんの違和感もなく、「りんごは赤いね」「葉っぱは緑だね」が通用してしまうではないか。
これを確かめる方法って、おそらく無いのだ。なぜならば、「これは何色?」というテストをしても私も父も「赤色」と同じ色の名前を答えるからだ。
じゃあ、色を見た時の気持ちでテストしてみたら確かめられるかな。たとえばケチャップの色を指して「この色は熱そう?冷たそう?」って聞いたら、お父さんは「熱くも冷たくもない」って答えるかな。だって私にとって赤は熱い色、青は冷たい色だけど、緑はどちらでもない色だから。この答えも「確かめられない」だ。たとえば同じ部屋にいて私はちょっと暑いくらいなのに、お母さんが「寒くない?」って聞いてくることもある。温度の感じかたは人それぞれだし、色と100%結びついているわけではない。また、私の「赤=熱い色」が炎の赤色や太陽の夕日の色のイメージと関係しているとしたら、お父さんはその色を私にとっての緑のように見ているうえで「赤=熱い色」だと思っているのだから、ケチャップの色を見ても同じように「熱そう」と答えるはずなのだ。その質問で、本当に同じ色を見ているかどうかは確かめられない。
たとえば脳科学とか難しい色彩テストをやってみて、同じ波長を眼が受け取って、同じ刺激が脳に走っているという結果がでたとして、私は「同じ色を見ていたんだ、よかった!」って納得できるかな。
結局納得できないんじゃないかなと思う。
私が知りたいのは、科学的に/客観的に同じ検査結果が出るのかどうかじゃなくて、「パパにとっての夕日の色はパパにとってどういう感じか」ということだからだ。それは究極的にはパパになってみないと分からないことだ。そして、私はパパになりかわることができない。

「私が赤だと思っている色、お父さんには私にとっての緑色と同じ色に見えていたらどうしよう」という不安と「まったく違う「綺麗だね」なんだったら、どうしよう」という不安は一見、色彩認識と、色に対する感性という別のことを問題にしているように見えて、そこで感じている不安は「パパにとっての夕日の色は私にとっての夕日の色と同じ感じか」というひとつのことだ。これが証明できるためには「パパにとっての夕日の色はパパにとってどういう感じか」ということがわからなければいけない。
言葉を尽くして説明してもらったら、「もしかしたら少し私と違うのかな」「私と似ている気がするな」という何かしらの感触があるかもしれない。けれども究極的には確かめられない。私は他者にはなりかわれない。そういう世界で私たちは生きているのだ。

※10才の私は、同じ感じか確かめられないということに孤独を感じて夜通し泣いて、そこからとんでもなく内向的な性格になってしまったけど、そんなに悲しい気持ちにならないで、って言ってあげたい。大学に入ってこの「クオリアの問題」という哲学に出会って、哲学者や賢い人たちも私が悩んだ問題を時間をかけてたいせつに考えているんだ!と知って嬉しくなった。「本当の意味では他者のことをわからないのに、分かった!とか分かりたい!って思い続けられるのっておもしろいな」と思って考えることがますます楽しくなったし、同じようなことをおもしろいと感じて話しあえる友だちもできたよ。あの時の私に、その悲しさの先がさらにあるよ、って言ってあげたい。