今夜もビールが買えなかった

厨ニっぽい話です。ジブリが嫌いなわけではありません。


月島雫<村上龍

作家でなくても、たいていの仕事には締切というものがある。
「このタスクの目的はなんですか?」「そもそもこれって意味あるんでしたっけ?」などと、有能な怠け者ぶって、いくら仕事を減らそうとしても、締切はなくならない。

そんな怨霊のような締め切りは、「ワークライフバランスがーー」などとさもまっとうらしいことを述べて定時以降は明日カノ(メチャ面白い)を読んだり、今流行のClubhouseにスキマ時間どころか可処分時間をブッ込んだりしていると、あっという間にやってきてしまう。

ああ、今夜こそやることをやらないと、ダメだな。

というわけで、深夜に重い腰を上げてキーボードを叩き、企画書のようなものを書くのである。

当然進まない。

眠い目をこすり、脳みそがピリピリしてきて、時計の針は加速する。
ちょっと進んだらタバコを吸い、作業に戻ろうかと思ったらまたタバコを吸う。

やはり進まない。

そうこうしているうちにバイクの音が気になりだす。するとたいてい朝だ。このとき決まって願う。「月島雫」ではなく「村上龍」になりたいと。

私は「耳をすませば」の月島雫を軽蔑する。

「耳をすませば」は説明不要のマンガ原作ジブリアニメで、読書好きの少女・月島雫と万能イケメン・天沢聖司の青春譚である。

月島雫は紆余曲折あって小説を書く決心をしたのだが、その目的は「自分に才能があるか確かめるため」。カロリーメイトをむさぼったり、眠い目をこすったりしながら、原稿用紙に向かい、書いた小説をあらかじめ名乗り出た読者に褒められる。

「耳をすませば」はさわやかな話だな〜 と思うわけだが才能のくだりで無性に腹が立つ。

才能がなかったら諦めるくらいなら最初から書かなければいいのに、と。

絵も音楽も文学も、芸術は才能がなくたって楽しんで良い。
芸術は、生活を豊かにするものだ。作る側も鑑賞する側も。
でも、リトマス紙のような試験薬ではないと私は強く思う。
楽しいことを、試験薬にされるのは、全然ジャンルも趣旨も違うが、排除アート的なざわめきをおぼえる。

(一方で、作品は、作者がどういう熱量であろうと、おもしろいものはおもしろい。美しいものは美しい。さらに、芸術のあり方を定義するのもちょっと違うのではと思ってはいる)

私は、脱稿したらビールを買いに行きたい。

なにで読んだか忘れたので、出典がわかったり、事実とことなることがあったら教えていただきたいが、たしか村上龍全エッセイ 1982‐1986にこんな話があった。

「限りなく透明に近いブルー(現在の文庫は 私が知っている表紙と違った!)」を書き終えた村上龍は、「オレ、小説なんて書いちゃったんですよハハハ」なんて言いながら家を出て路上でビールをグイッと飲んでヘラヘラしてたんだとか。

他人に見せびらかしたり、成果としての創作ではなく、単純に小説を書く行為がしたくて、それを楽しんで、満足行くまで書き終えた大げさに言えば芸術至上主義とも言えるふるまいに、たいそう憧れた。

ちなみに、私は一切お酒を飲めない下戸であるため、一度も脱稿後にビールを飲んだことはない。

(こういった話題をだすとたいていは、自己満足のために自慰的な創作をする例を上げて反論する者もいるが、そういう作品が嫌だったら触れなければ良い話で、私は書く行為を楽しみたまえ。他者に評価をおもねるなと述べている。)

好きになることにも才能がいる

月島雫は、おそらくオトナになって小説を書いていないと思う。中学生の頃書いた小説をたまに読み返したり、天沢聖司との思い出に浸っているくらいだろう。おそらく、小説を書きたかったわけではなく、たまたま目の前にあったのが小説だっただけなのだ。

いくら文才があっても、小説を書くことが好きでないと、小説を書くことはなかなか続かない。やる必然がないことを、人はなかなかしない。

私が月島雫に出会ったら、才能を試さなくていいから、創作を好きになってほしいと伝えたい。誰かに止められても続けるほど好きになってほしかった。10年前、私は書くことを好きになりきれなかったから。

企画書をば早や書き果てつ。

文芸創作を好きになる才能がなかった私は、ちょっと努力して、書くことを好きになるよう努めたりしていて、ときたまスイッチが入る。

企画書のようなものを書くときなどもそうである。

しかし、今回もビールを買うことはせず、布団に潜ってしまった。

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