私には何も変えられない/池江璃花子の呟きと、現代日本のニヒリズム(+付記)

上に引用した池江璃花子選手の発言で、ぼくがもっとも引っかかったのは、次の一節だ。

私に反対の声を求めても、私はなにも変えることができません。

競泳の池江璃花子さんについては、ぼくはその活動をまったくフォローしていなかった。どんな競技者なのか、どんな女性なのかも、まったく知らない。

そもそも、競泳という競技じたいに興味がない。競泳の特殊性は、競技の大部分、アスリートの身体は水面下に隠れており、観客は、アスリートの動きをほぼ見ることができない点にある。だから最近の中継には、メダルのとれそうな選手がどのレーンにいるのか、CGで指し示したりしている。要するに見る側にとっての競泳は、タイムがすべて。競技のプロセスを楽しむのではなく、まったく純粋に「順位」「結果」を楽しむものだと思う(もちろん、専門家や経験者は、水面より上に出ている部分だけで、各アスリートの動きを理解し、楽しむことができるのだろうけれど)。

その意味で競泳は、オリンピックの「国別メダル対抗戦」を象徴する競技なのかもしれない。

コロナ禍で東京五輪開催の是非が論じられるようになって以来、「そもそも、オリンピックじたいの存在意義ってあるのか?」という声が、目につくようになった。19世紀のオリンピックは、純粋なスポーツ大会ではなかった。当時、スポーツを楽しめるのは貴族や高級軍人、学生に限られた。要するに、上流階級に所属し、将来は国家の指導層に所属するであろう若者たちだ。彼らがスポーツを介して一堂に会し、交流すれば世界平和が実現するはずだ、というのが、創立当初の「夢」だった。

オリンピックは長らくアマチュアリズムの大会だった。当時、すでにプロの選手はいたが、彼らは町々を渡り歩き、お祭りに飛び入り参加して金を稼ぐ、いわば旅芸人のような存在だった。旅芸人を参加させても世界平和にはつながらない。同様に、選挙権すらなかった女性もまた、大会から排除された(創設者のクーベルタン男爵は最後まで女性選手の参加にいい顔をしなかった)。

この理念は20世紀に入ってたやすく破綻した。84年のロス五輪以来の商業化をあげる人が多いけれど、ぼくはそれ以前にすでに破綻していたと思っている。具体的には20世紀初頭、ヨーロッパ各地で起こった革命と、第一次世界大戦によって、従来のエスタブリッシュメント層が没落し、市民が台頭した。例えば大河ドラマ「いだてん」には、金栗四三が途中棄権した1912年のストックホルム五輪のマラソンで、途中で死亡したポルトガルのラザロ選手がちらっと出てくる。ドラマでは触れられていなかったが、ラザロは貧しい大工でありながら、地元のスポーツクラブ・ベンフィカ(現在でもサッカーチームが有名)に所属し、長距離走で名を挙げた。すでに貧しい一般市民でもスポーツを楽しめる環境ができつつあったのだ。

世界平和の理念に変わって台頭したのが、国威発揚だ。1930年代、ナショナリズムの風潮が高まるなか開かれた1936年のベルリン五輪は、ナチス支配下のドイツで開かれたことで国威発揚の象徴とされた。だが、ナショナリズムにこだわっていたのは開催国だけではない。この大会には、陸上で4つのっ金メダルに輝いたジェシー・オーエンスはじめ、アメリカ代表として多くのアフリカ系選手が出場したが、別にアメリカが人種差別に寛容だったわけではない。当時の米五輪委員会委員長のアベリー・ブランデージは、ナチス信奉者で反ユダヤ主義者だった。要するに、金メダル競争に勝つためには、黒人選手を出場させないわけにはいかなかったのだ(アメリカチームは、400メートルリレーに参加予定だったユダヤ系選手を外し、黒人のオーエンスを急遽代役にした)。

その後、オリンピックは、国威発揚の場であることを否定している。例えば、IOCは国別のメダル獲得数を発表していない。選手団も、公式には国家単位である必要はなく、だから、統一チームで出場したり(1964年東京での東西ドイツや2018年平昌での統一コリア)、選手個人で出場することも可能だ。とはいえ、オリンピックが「おらが国の代表が勝ったら気分よかんべ」という「国民」の欲望に応える場として、人気を得ていることに違いはない。例えばアメリカ国内では、アメリカ代表以外の競技はまったくといってよいほどテレビ中継されないらしい。

東京五輪招致活動が盛んだった頃、お笑い芸人の小藪千豊という人が、雑誌で「自分は東京開催に賛成である。なぜなら、地元だから日本人のメダルがたくさんとれると期待できるからだ」という趣旨の発言をしており、あきれ返ったことがある。五輪開催の意義は、スポーツを通じた国際交流のお座敷を提供することにある。だが、この発言に異を唱える人は、実は少ないのではあるまいか。

とはいえ、国威発揚が従来ほど、スポーツビジネスを呪縛するものでなくなっているのも事実だ。サッカーは昔から、ワールドカップの方が大人気だし(おオリンピックに23歳以下の代表が出場しているのはIOCの要請で、サッカー連盟は嫌がっている)、テニスやゴルフ、さらにはスノボーなど、オリンピックなどなくても稼げる競技では、出場辞退するトップ選手は少なくない。オリンピックに選ばれるほどの種目なら、毎年、世界選手権が開かれる。世界陸上などオリンピックより面白いという声もある。

もちろん、オリンピック頼みの競技はいくらでもある。4年に1度の大会出場のためという名目で給付される助成金がなければ、つぶれてしまう団体も少なくないし、だから、多くの競技団体は政治家を会長に戴いている(例えば、川淵三郎前サッカー協会会長が改革する以前のバスケットボール協会会長は、なぜかライフル選手だった麻生太郎現副総理だった)。

だから、コロナ禍にもかかわらず、多くのアスリートが開催の是非について沈黙している事情は、理解できなくもない。メダル候補に挙げられる選手ならば、東京五輪が開催されなくても、生きていく道はあるだろう。だが、オリンピックがなければ路頭に迷いかねない選手や団体を見捨てることは、心情的にできないだろう。

だが、オリンピック名目の助成金に頼らなければ存続できない、現在のスポーツ界の在り方を、いつまで続けるつもりなのだろうか。

そもそもオリンピック自体、開催した国や都市は、その後、経済的に低迷することは、歴史が証明している。1964年の東京五輪でさえ翌年は大不況で、戦後はじめて赤字国債が発行された(いまや、いくらに膨れ上がった?)。ギリシャのように国じたいが破綻した例もある。長野五輪は、開催直後に帳簿が焼かれ、地元は長らく負債に苦しめられた。

いまや、テレビ以外にもインターネットなど、メディアが多様化した現在、マイナースポーツでもビジネスとして成り立たせることは可能になっているし、この傾向はますます広がるだろう。オリンピックに頼らないスポーツビジネスのありようを、各競技団体は追求すべきだし、それがアスリートたちが国家から自立する土壌が生まれる。

大阪なおみ選手が2021年のローレウス・スポーツ賞で世界最優秀女子選手に選ばれた。

言うまでもなく彼女の受賞は、テニス選手としての成績だけではない。アフリカ系のアスリートとして、ブラック・ライブズ・マター運動を支援し、アメリカで警官に殺された黒人たちの名前入りマスクをつけて、大会に参加したからだ。彼女はアスリートとして、世界を変えるために何ができるかを考え抜き、実践した。自分には世界を変える権利と可能性がある。彼女はそう信じて疑わなかった。

民主主義の大前提は、1人ひとりに、社会を、国家を、そして世界を変えうる権利と可能性を与えられていることにある。実際に、個人としてできることは限られるし、その権利が悪い方向に向かうこともある(民主主義の模範とされたワイマール憲法下でナチスが誕生したように)。衆愚という言葉すらある。

だがそれでも、ぼくは民主主義を支持する。自分が世界を変えうる。たとえ1人では不可能でも、自分の小さな思いが、いずれうねりとなって、たとえ小さな範囲であっても、何かを変えることができるかもしれない。そんな可能性を信じなければ、ニヒリズムに陥るしかないからだ。

上に挙げた池江選手のTWEETが、どれだけ池江選手自身の本音なのかはわからない。彼女は、電通関連のマネジメント事務所に所属している(親族に電通社員もいる)。コロナ禍で開催中止を求める声に対して、是が非でも開催したい勢力が、いわばオリンピックの女神として、どんなふうに彼女を利用してきたかを思えば、少なくとも、「チーム池江」の推敲が入っているだろうことは容易に想像がつく。

しかし/だからこそ、ぼくは日本を代表するアスリートに「私には何も変えられない」などという、非民主的なセリフをはいてほしくなかった。

現在の日本のスポーツ界の在り方を思えば、現役選手が運営に口出しなどできないだろう。スポーツ界だけではない。選挙での投票率低下が象徴するように、今の日本で、自分が何かを変えられると信じている人は、よほど恵まれた立場にいるか(三代目四代目の世襲政治家!)、よほど楽天的な性質なのか、どちらかだろう。ぼく自身、できることなんてごくわずかであることは自覚している。

それでもなお、「自分には世界を変える権利と可能性がある」という建前を信じたい。何度も「民衆」の力で国を変えてきた隣国の少女たちが歌ったように

私たちの目の前にある、けわしい道
想像もつかない未来と壁
それは、変えられない
でも、あきらめたくない

この世界の中で繰り返される
悲しみにさよならを

たとえ、道に迷うことがあっても
かすかな光を私は追い続ける


【付記/2021.5.10】

池江選手のtweetについて、新しい事実がネットをめぐっている。件のtweetの直後、ネットメディアは一斉に配信したのだが、その手回しが良すぎた。なかには、彼女のtweet(5つに分かれている)の途中で全文を引用した記事を配信したメディアまでいた。

私も、ネットでの配信に続いて、「著名人」の池江選手を擁護する発言が相次いだことから、「電通の仕掛け」ではないかと疑惑を持っていたが、確信を持てなかった。だが、デイリースポーツのフライングのおかげで、あのtweetはいわば池江璃花子の名義貸しであり、事前から綿密に練られた、五輪開催を強行したい勢力(いうまでもなく電通もその一つ)の作戦だったことは、ほぼ確実と言っていい。

21世紀に入ったあたりから、オリンピックやワールドカップといったビッグイベントに際して、ビジュアルに恵まれた有力候補を過度に持ち上げる風潮が続いている(本当のスターは、大会の成績で生まれるべきなのに!)。白血病からの復帰という美談までついてきた池江選手は、看板娘としてはこれ以上ない逸材であり、彼女を主役とした「仕掛け」の舞台裏が透けて見えてしまったというわけだ。

地上波や新聞などの大メディアが、この茶番劇をどのように報じるかはわからないが(おそらく、無視だろう)、もはや池江選手は、かつてのような純粋無垢の女神を演じ続けることは不可能だろう。そのことが、彼女の「自立」へとつながるのならば、それはそれで結構なことだと思う。

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