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嬉しい、という気持ちの話。

先日、とあるドラマの放送が発表された。
推しが主演に抜擢されていた。
放送が終わるまでは生きていける、と寿命が延びるのを実感する。
わたしはどこまでも推しに救われて生きている。少なくともこの5年くらいは。

毎朝起きると、真っ先に枕元の携帯でTwitterを開く。
じぶん用にカスタムされたトレンドを見れば、寝ている間に発表された推しや周りのアイドルに関する大体の情報が載っているからだ。
例えば新CM解禁だとか、シングルが発売になるとか、ドラマに出演するとか。
それに推しが関わっている日は、わたしの世界がぐるんと変わったような感覚になる。
今までの日々の繰り返しではない、新しい一日が始まるんだな、と思うことができる。

***

今年の2月中旬ごろ、いい加減就職活動を始めなくてはと、ゼロの知識を埋めるためにネット検索に明け暮れていたことがある。変な意地を張るのが大得意なわたしは、身近な友人や先輩に頼ることをせず、なんとかしようとしていたのだ。
そこで検索を続ける中で、よく聞かれる質問があるらしいと知った。
リストになっているサイトを見つけ、後で考えようとスクショを撮る。一問一答みたいに、答え方を探すようにしていた。記憶力はあまり良くないけれど、キーワードさえ覚えられれば、後は面接で話せる自信があった。

中には変わった質問もあって、それで何がわかるんだろうと思いながらも一応答えを考えていた。今思えば内容というよりかは考え方の部分だったのだろうし、結局答えに窮するような質問はされないまま就活を終えたのだけれど、それはまた別の話だ。
一般的なよく聞かれる質問の中でわたしが悩んでいたのが、「今までで一番嬉しかったことは?」という問いだった。

どこかのサイトでオススメだと書いてあった人生を概観するグラフをつくっても、この数年間のことをざっと振り返っても、わたしにとって嬉しかったことの傍には必ず推しがいるような気がするのだ。
推しがデビューしたこと。推しのコンサートに当選したこと。その座席がいわゆる神席だったこと。推しのドラマが決まったこと。推しの冠番組ができたこと。推しが活動休止から復帰して充電完了したこと。
推しにまつわる嬉しかったことはたくさん思い出せるのに、わたしの身に起きた嬉しかったことは全然思いつかなかった。

面接で推しの話をするのが効果的だとも思えなかった。
もしすべり止めのような、落ちても問題ない企業を受けることがあれば、そこで話してみても良かったかもしれないけれど、最短で就活を終えたかったわたしは、そういう回りくどいことはしたくなかった。どこも本命であるなら、もちろん推しの話などできない。
推しにまつわることで落とされるのは癪だったし、落ちた責任を推しのせいにはしたくない。もしそうなるなら言わないほうがマシだった。
だからこそ、推しとは関係のない、わたしだけの嬉しかったことを探さなくてはならなかったのだ。

高校生になった辺りから現在までのことをひたすらに思い出し、書き留めていく。これは使えそうだ、と思っても、簡潔に話せないエピソードは不採用。そもそもわたしがやってきた演劇や創作活動は、明確な勝ち負けなどがない分説明が難しい。どれだけ頑張ったか、どういう工夫をしてどんな結果を残せたか、きっと知らないひとにとってはわからないことだらけの分野だ。
それに一番嬉しかったことだから、それなりに大きな出来事でないといけない。些細な喜びを話しても、それが一番ですかと返されたら詰まってしまうだろう。
推しが関わらない嬉しかったことを探す作業は、なかなか進まなかった。

次第に気付いたことがある。
わたしにとっての嬉しいは、ハードルが高すぎるということだ。
演劇にまつわるどんな思い出を振り返ってみても、楽しかったの向こうには苦しかったことが隠れている。毎日の稽古が辛かったとか、精神的にきつかったとか、そういった色々を含めて、終わってみれば楽しい思い出として昇華されているように思う。
だから、この中からわたしの思う嬉しかったことを探しても、あるはずがないのだ。
嬉しいの隣には苦い思いが張り付いていて、単純な嬉しいという言葉では片づけられないものばかりだから。嬉しかったことという文脈で話すには、苦労が多すぎる気がするのだ。

わたしは単純で純粋な嬉しいを探しているけれど。
苦しみを乗り越えた先の達成感を、ひとは嬉しいと呼ぶんじゃないか。
そうであるなら、書き留めた数々の思い出は、嬉しかったことと同義になる。推しとは関係のない嬉しかったこと、その中の一番だって決められる。
導き出した一番嬉しかったことには、脚本演出を務めた舞台が成功したこと、と答えた。たくさんの素敵な感想をいただいて、やって良かったと思いました、と。

***

それでもやっぱり、嬉しかったことと聞かれてパッと思いつくのは、推しにまつわることだ。
推しの主演ドラマが決まったとき、心の底から嬉しいと思った。推しが起用されたこと、業界から推しが必要とされていること、そしてわたしがそのドラマを見られること、全てが嬉しかった。
この喜びは、生きるに足るものだ。

他人から見たら些細なことで、これは本当の嬉しさではないのかもしれない。わたし自身が頑張った末に得たものではないから。ただ好きなひとを追いかけていたら、転がり込んできただけのものだから。
でも、この些細な嬉しかったことを積み重ねることで、わたしは生きていけるし、これからも生きていくのだと思う。

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