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魔道祖師考察『世説新語で読む 竹林の七賢』『人間三国志~竹林の七賢~』~嵆康を取り巻く面々~

大上正美著 
「世説新語で読む  竹林の七賢」朝倉書店  
林田慎之助
「人間三国志~竹林の七賢~」 集英社

魔道祖師をきっかけに中国人物伝や、竹林の七賢を紐解くうちに、動乱の時代に政治にも地位にも拘らず、己の信念を貫こうとして散った嵆康けいこう(223~262)にたどり着いた。

彼の生きざまが魔道祖師の主人公、魏無羨にリンクするという。

竹林の七賢とは

西暦紀元三世紀半ば(日本で言えば卑弥呼の時代)の苛酷な魏晋交代期に、社会通年や権力者に群がる俗物たちに激しく反撥し、どこまでも自己の志に徹して主体的に生きようと苦悩した知識人のこと。
阮籍げんせき嵆康けいこう山濤さんとう劉伶りゅうれい阮咸げんかん向秀しょうしゅう王戎おうじゅうの七人は、いつも竹林のもとに集まり、ほしいままに酒をのんでは心を解放して楽しんだ。だから世間からは彼らのグループを「竹林の七賢」と呼ばれたのである。』と「世説新語」に紹介されています。

『世説新語で読む竹林の七賢』本文より抜粋

では、嵆康とはどんな人物だったのか?
また、彼を取り巻く面々が、いかに嵆康に陶酔していたかについて紐解いてみよう。



嵆康けいこう(223~262)

魏国から晋国へと移り変わる動乱の狭間で、自分の信念を通して自由と詩と音楽を愛していたが、遂には宿敵、鍾会に陥れられて刑場の露と散った嵆康。

だれもが振り替えるほどの美貌を持ち、高い老壮思想と文才に長け、琴を友とする。
世説新語」には
『七尺八寸(約188センチ)の長身でみるからに魅力的な風貌。物静かできびしい外見、爽やかで筋が通っている』とある。
更には王戎が彼について語ったのは
『嵆康と過ごした二十数年のあいだ、一度も彼の喜んだり怒ったりする表情をみたことがなかった』とのこと。
一方、山濤が語った内容は
『彼の人柄は、きびしさをたたえて、さながら一本の松がそそりたっているようなものだ。それが酒に酔うと、その長身がぐらりと傾き、玉山が一瞬にして崩れ落ちようとするさまに似ている。』

188センチの長身
喜怒哀楽を見せない
きびしい外見
物事に筋を通す
文才があり、思想家
琴を愛用する
酒に酔うと一瞬で崩れる

これを見ると魏無羨よりも藍忘機に近い。
強きを挫き弱気を助ける気丈さと潔さは、もはや特定の人物というよりも、あらゆるヒーローの原型と言えるかもしれない。
彼のなかには、魏無羨も藍忘機も存在するのだ。

嵆康と阮籍

嵆康と言えば阮籍と常に対のように取り上げられるのだが、私はこれには少しばかり納得していない。

もちろん、彼らに共通する志と文才は共に並び表されることには何の異議もない。

が、いちBL好きとして(魔道祖師を引合に出す上で)のその関係性の追及には、手を抜くわけにはいかない。
文才云々だけでなく、そこに愛があるのか?という点である。
この二人を相方のように扱われるようになったきっかけは、山濤が残した文にある。


『私が今の時代、友人と言えるのは  ただこの二人だけだ。』と語る山濤。

めったに人と交わることのない夫が、珍しく信頼を寄せているのを不思議に思った妻の韓氏は、彼らを招いて酒宴を開き夜伽の様子を覗き見たいと申しでた。

この『夜伽(=夜の二人の様子)を覗く』意味には、あるエピソードが由来している。

春秋時代に後の皇帝、重耳が放浪先の曹の国で侮辱を受けた際、皇帝を守るために二人の従者が夜通し協議を交わしていたという姿を曹国の重鎮僖負羈きふきの妻が覗き見て、皇帝が後に大きな功績をあげると判断し、従者に沢山の施しをして、後に命拾いをしたという有名なエピソードを真似たもの。

結果、韓氏は二人の様子から、彼等と結びつきを強くしておれば、山濤の行く末は安泰だとアドバイスしたという。

二人の夜伽が睦ましく映ったというが、
これはあくまでも山濤の主観である。

これを元に、ブロマンス的な要素が二人の間にあったかどうかはむしろ低いのではないか。
睦まじい様子の具体的な内容はどこにも記されていない。
彼らは、なるほど同じような志をもち、共に文才に長け阮籍にしてみれば、不本意な官僚職を続けながらも酒の力を借りてしか、本音を溢すこともできなかったところに、喪中にも関わらず、酒を土産に馳せ参じてくれた嵆康は、救いの船的な存在だったかもしれない。

が、当の嵆康にしてみれば、阮籍は山濤や王戎と並んで『竹林で清談出来る仲間』に過ぎない。


嵆康と呂安

嵆康には七賢の面々が集まるずっと以前から、知己として心を許した人が存在した。

それは呂安である。
いわゆる『呂安事件』の渦中のひとである。

この事件のいきさつの前に、はっきりさせておかなければならないことがある。
まず、呂安と嵆康の出会いは何時か?ということ。

ふたりの親密な様子を示すエピソードがある。

   「 嵆康と呂安はひとたび会いたいと思えば千里の道も遠くに及ばず、馬を走らせたものだ。ある時、呂安が    嵆康を訪ねたが留守であった。代わりに兄の嵆喜けいきがもてなしたが、呂安はこれを無視した。」

嵆喜は地方の官吏を勤める人物だった。
呂安にとって官吏、官僚の類いは己の志す思想に当てはまらない者として、口を聞くにも値しないと軽視する傾向があった。そこには自らが私淑する嵆康との間には何者も割り込んでは来れないのだという自信があったのかもしれない。

ここで、注目すべきは、留守宅に兄がいたこと。
嵆康は、249年27才で官僚の辞して山東の山に籠り、神仙の路をめざしはじめる。

それまでは兄のいる実家に住んでいたことになる。
その頃すでに交遊のあった向秀の同僚呂遜から同じような思想をもつ弟、呂安を紹介されたと考えられる。
まだ、嵆康も二十歳を過ぎた頃で、世相への反撥と神仙のような生き方に理想を抱いていた二人はたちまち意気投合し、片時も離れ得ぬほどに親密になった。
その日も一刻も早く嵆康に会いたいと家にきてたのに、官僚である嵆喜に会ってしまったのである。


呂安事件


   老師の思想を語らい、神仙に近づくための薬草を研究する為に畑を作り、只々楽しい日々を過ごしていた。
が、そんな日々も長くは続かない。社会情勢の流れに逆らうことも出来ず、嵆康は実家の領地を納める魏家の孫娘を娶る。
嵆康は魏家への体面の為にしばらく官吏につくが、不穏な政治的流れを察知して辞職し、本格的に山に籠るのである。
それとおなじくして呂安も妻をむかえるが、相変わらず二人の絆は強く、女達は暇さえあれば山籠りばかりの夫達に、少しばかりの不満を持っていたのでないか。

前述の嵆喜に対する態度をみると、呂安が如何に嵆康に心酔していたかがわかる。

嵆康の妻、長楽亭主は、領主とは名ばかりとなった魏家の後ろ楯として嵆家に嫁いだ立場から、不満等は口にはしなかっただろうが、呂安の妻に置いては多少なりとも寂しい思いをしていたのではないか。
そんな義理の妹のいじらしさに兄である呂遜がつけこんだのかもしれない。

呂安の留守の夜、呂遜は義妹と契りをむすんでしまうのである。これが、『呂安事件』の発端である。

気持ちがあるなしに関わらず、妻と兄の不貞を見逃すわけにはいかず、呂安は妻を実家に戻すべく兄を訴えようとしたところ、嵆康は「事を荒立てずに話し合いをもつように」と宥めたとある。
呂安は嵆康がそう言うのならと、引き下がり事は収まったかに見えたのだが……。

呂遜は後ろめたさから猜疑心を抱き、これを機会に弟を僻地へ飛ばしてしまおうと母苛めの罪をでっち上げ呂安を逆に訴えたのである。
が、これには裏があり、もともと魏家との縁戚が深い上に思想家として人気のあった嵆康を目の上のたんこぶとおもっていた司馬昭の片腕だった鍾会が手を回しての事だった。

身の潔白を正すため、呂安はすべての経緯をしる嵆康に証人となってくれるよう願い出た。

この鍾会との確執については後に語るとして、出れば必ず矛先が向くとわかっていながら、嵆康は呂安の為に刑場に赴くのである。

己の身の振り方が如何に危険をはらんでいるかを自覚していた嵆康が、無二の知己である呂安の潔白を証言しに、表に出たのである。

そこには単なる友以上の譲れぬ結びつきを感じるではないか?

結果、ふたりは共に刑場に消えることになるのだが、
嵆康は一糸乱れることなくむしろ、飄々と刑場に上がり、最期におもむろに琴を奏でた。
その曲名は『広陵散』。奇しくも無念を抱いて尽きた幽鬼から教わったという曰く付きの曲だ。
そのメロディは同席していた三千人の学生たちの涙を誘ったとある。

※『広陵散』は金庸作品にも度々登場する有名な曲

鍾会との確執

鍾会は官僚のひとりであったが、思想にも独自の解釈を綴るほどの文才を持っていた。(余談だが、「儒教と中国」渡邉義浩著p11に詳細あり)同年代ながら当時すでに思想家として名を馳せていた嵆康に、持論を読んでもらおうと彼の家まで馳せ参じてきたが、直前になって、自信がなくなり、嵆康に批判されるのではないかと怖くなって、会わずに文だけを投げ入れて帰ったというエピソードがある。
嵆康に対して、一目も二目も置いていて、面と向かって語ったこともないのに、ライバル心を燃やしていたらしい。
嵆康が官吏を辞して間もなく、まだ洛陽の家でいるときに鍾会が部下を多勢連れて押し掛けてきた。あわよくば、互いの理論を戦わせることを望んだのかもしれない。
だが、嵆康は黙々と鉄を煎るのに集中していて、鍾会が声をかけても無視し続けた。
プライドの高い鍾会がこんな扱いに屈する訳がなく、踵を返して帰ろうとしたところ嵆康が口を開いたのである。
「何を聞きにやって来て、何を見て帰ってゆくのか」
鍾会にとっては初めて交わした言葉が、よりによってこんな侮辱的なものであったとは!
「聞いたとおりの事を聞いて、見た通りのことを見てかえってゆくまでだ」と鋭い言葉で返したのだ。
鍾会にしてみれば、世に名を馳せる嵆康が自分の取り巻きにいれば、箔がつくとでも目論んでいたのだらうが、それは裏目にでたのだ。
腸が煮えくり返る思いをしたに違いない。
これが呂安事件での鍾会の仕返しに繋がったといえる。


阮籍げんせき(210~263)


阮籍は理不尽なしきたりに反発しながらも、片足は官僚に籍を置き、のらりくらりと酒に逃げる。上層部である司馬昭が彼の文才を手放したくない為に、多めに見てもらっている節がある。
おのれの立場を棚に置き、従順な役人には白眼を浴びせる彼の行動は、誇りをもって役職を全うしようとするものから見れば、不愉快極まりないだろう。

嵆康の兄嵆喜が、阮籍宅に弔問に訪れた時に思わぬ冷たい態度に憤慨して帰ってきたのをきいて、嵆康は「ほう、洛陽にもそんな気概のある人物がいるとは」と頼もしげに思ったことだろう。
聞けば、酒が大好物という。
特上の酒瓶と七弦琴をひっさげて、阮籍の門を叩いた。
すでに嵆康の人となりは洛陽にも響いていたであろうから、そんな賢人の来訪に阮籍も青眼(喜んで迎えいれる様)で迎え入れたとある。


山濤さんとう(205~283)


この頃、嵆康は山麓で呂安と田畑を耕し、洛陽では向秀と轍を打つ生活をしながらも、琴に詩を乗せ、悠々自適な日々を送っていた。
向秀と出身地が同じだった山濤は、嵆康の文才と頑な人となりを聞き、是非とも酒宴を共にしたいと願い出た。
老師尊尊の気概を語り、その一途な生きざまに惚れ込んだのである。
後に竹林の仲間入りをする阮籍と嵆康のやりとりは山濤にとっては理想の知己に映ったのかもしれない。
滅多に人を誉めることのない山濤が、あまりにも両人の話ばかりするので、内妻の氏が不思議に思い、、酒宴に呼んで停泊している二人の様子に感心し、「あなたは両人の足元にも及ばないから、あなたのもつ度量で支えて差し上げるように」と諭したという。

向秀しょうしゅう(?~?)

向秀は七賢の内では最も早く、嵆康の山籠りの仲間入りをしている。 呂安と 嵆康が出会うキッカケを作ったのは向秀である。向秀は呂安の兄、呂遜とは同じ山陽の役職同士で、同僚としてのつながりがあったのだろう、山籠りする友人嵆康の話題になり、弟呂安が同じように神仙に傾倒していると話をつないだのではないかと思われる。
前述の通り、山濤も向秀と同郷であったことから嵆康に引き合わせている。

誰もが美徳と称えた嵆康の生き方に『養生論』(如何にすれば神仙に近づくのかを論じた書)があるが、向秀は『難養生論』として真っ向から反論している。

「五穀を絶ち、滋味を去り、情欲をふさぎ、富貴への思いを抑制する」と論ずれば

「そのようにすべてを拒み、感情をも圧し殺す事は、自然の摂理からはずれてしまう。
そもそも人間というものは霊妙なる存在であり、食べたいものをたべ、味わい、情をもつのが自然なのです。あなたのようになにもかも絶ってしまうのは生きていないのとおなじでしょう。富貴に対しても、その欲があるから天下に義をおこなうことができるのではありませんか」

と返している。
嵆康は向秀の歯に衣着せぬ応酬を頼もしくも感じながら延々と続けたという。互いの友好を益々強めていったエピソードである。

向秀は嵆康や呂安の生き方を、理想としながらも自らは役職に就き、志とは裏腹な生涯を送るが、ある時洛陽の思いでの酒場をとおりかかった折り、どこからともなく聞こえてきた琴の音に、
「ああ、あの頃は老荘を唱え酒を喰らい、なんとも楽しい日々を過ごしたものだ。」としみじみと回想している

余談だが、向秀は「荘子」に独自の解釈を講じて嵆康と呂安から絶賛されるが、それを世の中に発表することなく生涯を終えている。
後に彼の書稿を郭象かくしょうと言う人物が、彼の草書を自書として世に発表するのだが、残っていた向秀の書稿と同じと判明している。

✨✨✨✨✨
魔道祖師考察としたのにも関わらず、あまり、考察になってない❗️お許しを〰️😱ただ、

嵆康という人物が、ただならぬ魅力を持ち、関わる人々を良くも悪くも巻き込んで突風のように生き急いだということにキュンキュンさせられてしまった
こんなに面白い人なのに、彼を題材にした小説や史劇が今のところ見当たらない。もちろんドラマにもなってないようだ。
どなたか、ご存知の方、是非教えてください🙇


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