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30歳女子が、吉本ばななさん『ミトンとふびん』を読んで気づいた「たとえ何かを失ったとしても、あなたは何も失っていない」ということ。

最近の私は以前にも増して、「失うこと」、「終わりにすること」に対して怖さを感じていた。仕事や大切な人との関係、家族。

これからのキャリアに希望を見出しかけつつも、掴みかけたものがスルスルとこぼれ落ちていき、プライベートでは大切な人との終わりの予感がするようだった。これが30歳女子のリアルだ。

このままでいいのか悩む一方で、終着点が見えそうになるとよりいっそう怖くなる。あたりまえにいる存在を失ってしまうかもしれないと想像して苦しい。

それはあまりにも自分の中で日常となっているから、大切だと思っているものが欠けてしまう世界はとても頼りなく、色が消えてしまうような気がしたのだと思う。まるでその存在がいないと私ではないかのように。

吉本ばななさんの最新作『ミトンとふびん』には、失った人たちの物語が描かれている。切なくて苦しい。けれども、なぜかとても美しいのだ。

本の中に出てくるのは、母を看取った娘、婚約予定だった恋人を失った男性、母たちの同意を得られぬまま結婚した2人など。それぞれが失った人との思い出を懐かしむたびに涙し、悲しみの中にいた。失ったことの大きさに気づき、残された人たちは、毎日自分を生きることに精一杯。

けれどもそのぽっかりと空いた穴に、そっと寄り添ってくれる人が必ずいた。まだ傷は癒えていないが、自分だけの世界に少しばかり彩を足してくれる人たちがいること、それは本当に救いだ。

読み進めると、とても温かな気持ちになる一方で、染み出てくる切なさに胸が締めつけられた。しばらくその本の世界から現実に戻ることができず、さまよい続けていた。

このnoteを書こうと思ったのは、この本に出会うべくして出会った強く思ったから。本の中に今の自分を見つけた。失って、失いかけた自分がいたことを少し残しておきたいと思った。

※以下より本の内容に触れていますので、これからお読みになる方はお気をつけください。



私はいつでも私だ

生きていること、私がいることそれ自体が、すでに平和そのものなのだ。嵐も死もない、怯えて将来に来るこわいことや楽しそうなことに接する必要はない。私はいつでも私だ、と。(中略)
私は最後まで母のかわいい宝物で、そのことは変わらなかった。それだけでいい、そう思えた。

『ミトンとふびん』の2章「SHINSHIN AND THE MOUSE」より

2章の「SHINSHIN AND THE MOUSE」にあった1節である。

この2章に登場する私は、長らく病を患っていた母を看取ったちづみだ。母にとってちづみは、生きる希望だった。ちづみが友達と旅行に行くと、その写真をとても楽しみにした。写真を見る母の顔は、まるで孫の写真を見るみたいに。旅行中も何度も連絡を取り合った。

母のことばには、ちづみへの想いがすべて凝縮されていた。

「ちづちゃん、あなたがいたことが私の人生だった。あなたは私の人生そのものだったの。(中略)私の人生のすばらしかったことのほとんどがあなたであることがわかる。すばらしい人に育ってくれてありがとう。」

『ミトンとふびん』の2章「SHINSHIN AND THE MOUSE」より

自分の存在があるだけで、すばらしいということ。何かを失ったからといって、私のすばらしさは変わらない。失うということは、なにか欠けてしまったり、私であることが奪われたりすることではないのだ。

できないことがあるとすぐに原点方式でジャッジしてしまう自分がいるけれど、本当は何もマイナスになんてなっていない。レーダーチャートで表すとしたら、完璧な五角形や六角形になる必要もない。そんな風に少し前向きになれた。そこにいるだけで、私はすばらしいと、たとえ誰かが声をかけてくれなかったとしても、自分が自分に少しずつ、そんな言葉をかけることができたなら。

そこにあった感情に居場所を

第3章は、タイトルにもなっている『ミトンとふびん』。そこで描かれるのは、母たちに結婚の同意を得られないまま先立たれ、その後結婚した外山くんとゆき世の話だ。

同意を得られなかった理由がそれぞれにあった。ゆき世は卵巣の摘出手術をしており、子どもを持つことができない。そして外山くんは弟を亡くしていて、その弟にゆき世がそっくりだった。母が反対するには十分な理由があった。

代わりに怒ってくれてるんだ。この怒りは私がどこかに置いてきてしまった大事な感情なんだ。

『ミトンとふびん』より

ゆき世の母が結婚を反対している理由は、ゆき世が気づかぬうちに目をつむってきたことだった。本当はゆき世だって怒りたかったのだ。

人の怒りの感情からは、なぜだか目を背けたくなりがちだ。自分を否定されたように感じるからかもしれない。けれども自分の代わりに誰かが怒ってくれることは、とても幸せなことだと気づいた。

自分の母を重ねて読んで気づいた、自分のこと

ここからは物語の登場人物ではなく、私の話を少しだけさせてもらいたい。この物語に登場する2人の母がいるが、そこに私は自分の母を重ねて読んでいたのだ。

1人目は、2章の「SHINSHIN AND THE MOUSE」のちづみの母だ。

ありがたいことに私の母は元気でいてくれていて、母はいつも「人生のすばらしいことのほとんどが私であって、いつも味方だよ」といったような想いをもちながら接してくれていたように思う。ちづみの母がちづみに伝えたように。

それは思いすぎかもしれないし、他人から見たらそんな関係、典型的な親離れ子離れできていない危ない親子だと思われるかもしれない。

けれども母のそのまなざしを、ばななさんのことばによって、私の価値は、何かを失ったからといって何も変わらないと、伝えてくれている気がした。

もう1人は、3章の「ミトンとふびん」のゆき世の母だ。

私が社会人になってからのことだが、母は私を大切にしていないと思わせるような言動をする人のことを怒った。

けれども、私はそれに対して反抗した。その人の良い部分を他にもたくさん知っているし、その時の状況ではいたしかたなかったのかもしれない、などと言って。自分で話しておきながら、大切な人のことをいろいろと母に言われることが嫌だった。

今振り返って思うのは、その人の言い方は優しいし、強制はしないけれど、相手の状況を配慮するというより、損得勘定が強かったのではないかということだ。

例えば仕事で私は大阪にいて、自宅に帰るのに大阪より1時間かかるのに、その人の行きやすい場所に来てほしいと言われたり。たしかその人は仕事が休みで融通はきくようだった。

本当は「大阪行くよ!」とまずは言ってほしかったのが本音だったけれども、好きな人であれば、「何か事情があるかもしれない、しんどいのかもしれない」と、思ってなんだかもやもやする気持ちを押さえて、「行くよ!」と言ってしまう自分がいた。

けれども果たして本当に母が怒ったことは間違っていたのだろうか。今となってはわかる。そこにある事実を見ないようにしていたのだと。大切にされていないことを認めることが嫌だった自分がいたことを。

母は代わりに怒ってくれていた。と今になって気づく。消そうとしてなかったことにした感情がそこにあったことを、思い出させてくれた。

偶然性と必然性

私はこの2つの物語に出てくる男女の関係性に憧憬の念を抱いた。ちづみはシンシンこと田川真吾という男性と出会い、あまりの体の大きさの違いにお互いが惹かれ、また外山くんとゆき世は互いにあなたしかいないと思い合った。

偶然性と必然性。あなたじゃなくてもいいのに、あなたじゃないといけないみたいな。ずっしりと重たさを感じられるようで、軽やかな関係性。

もしかしたら失うことや終わりにするということも偶然と必然の上に成り立っているのではないのだろうか。突然予期せぬ形で失ってしまうこともあるし、ここで終わりにすることがとても自然なこともある。

もちろんそんな簡単な言葉で言い表せない出来事が世の中に存在するのも事実だし、失うことはまだやっぱり怖い。けれども、失うことや終わりにすることの捉え方が少し、和らいだような気がするのだ。

失うことで見える景色が、登場人物それぞれ変わっていった。それは新しい人に出会うことかもしれない。自分の大切な感情に気づくことかもしれない。誰かにあの時かけてほしかった言葉を言ってもらうことかもしれない。

失ったようで失っていないのだということ。それに気づいたとき、彼らはとても美しかった。

この物語はすでに失ってしまった人には、優しく包んでくれる温かさがあり、失うことへの恐怖感を持つ者には、失うことは、確かに怖いかもしれないけど、大丈夫だよと教えてくれる。

ゆっくりでいい。自分の速度で進んでいけばいい。きっとあなたは大丈夫。そう語りかけてくれている気がした。

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