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吉澤嘉代子「残ってる」に聴く夏の無常

ここ数年で、わたしの中で「夏の終わりの風物詩」となっている曲がいくつかある。

そのうちの一つが、吉澤嘉代子さんの「残ってる」という曲。

この曲をしみじみと聞くようになって3回目の晩夏。
最近意識して聴いていることがある。

それは曲全体に流れる「無常」。
名残惜しくも夏が終わり、季節が進んでいく無常、
ずっと好きだったひとと一夜を過ごせたけど、そんな幸せなひとときも終わってしまう無常、、

曲はこんな歌詞からはじまる。

改札はよそよそしい顔で 朝帰りを責められた気がした
私はゆうべの服のままで
浮かれたワンピースがまぶしい

通勤客で溢れかえる駅で、昨日のデート服姿が浮いている、そんな情景が思い浮かぶ。
この描写はサビの最後のワンフレーズ

私まだ昨日を生きていたい(2番だと「生きていた」)

という心情を表現しているのだろう。

そしてサビへ続くBメロ

風邪をひきそうな空 一夜にして街は季節を越えたらしい

「浮かれたワンピース」じゃ風邪をひいてしまうそうなくらい、空気がひんやりし始めたのだろう。夏の終わりと秋の訪れを感じる。

◆◆◆◆
空気だけで季節の変わり目をしみじみと感じることって、あるよね。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」

なんて古今和歌集の歌にもあるくらいだ。千年前も今も同じだね。
◆◆◆◆

そしてサビ

まだあなたが残ってる からだの奥に残ってる
ここも ここも どこかしこもあなただらけ
でも 忙しい朝が連れて行っちゃうの
いかないで いかないで
いかないで いかないで
私まだ昨日を生きていたい

昨晩の余韻を全身で感じながらも、現実がまた戻ってくる切なさ。
でももっと切ないのが、2番のサビの歌詞

まだ耳に残ってる ざらざらした声
ずっとずっとちかくで 聞いてみたかったんだ
ああ 首筋につけたキスがじんわり
いかないで いかないで
いかないで いかないで
秋風が街に馴染んでゆくなかで
私まだ昨日を生きていた

1番では全身で感じていた「あなた」の余韻。
それが2番では「耳」や「首」のまわりに限定されていく。
時間の経過とともに薄れていく余韻が、これでもかと無常を感じさせる。
ああ無情……

順番は前後するが、2番のAメロも容赦なく夏の終わりを感じさせてくる。

駐輪場で鍵を探すとき
かき氷いろのネイルが剥げていた
造花の向日葵は私みたい
もう夏は寒々しい

「かき氷いろ」ってどんな色なんだろう。
「浮かれたワンピース」にしても、想像力を掻き立てられる表現が素敵だなと思う。

こんなに容赦なく、切なく、夏の終わりの無常を歌われるから、夏が好きなわたしとしては聴くたびに泣きそうになる。

しかし、そんな無常で溢れるこの曲には、儚くも力強い希望を感じさせる一節がある。

誰かが煙草を消したけれど
私の火は
のろしをあげて燃えつづく

煙草を消す。
弱弱しく小さくなった火を無造作に、押しつぶすように消す。
それでも私の中の火は、高く高く煙を上げて燃えつづける。
この短い一節が、この曲の中に灯る一筋の希望になっている。
わたしはそんな気がした。


ちなみにラジオで聴いた話。
5月のJ-WAVEの特番だっただろうか。
吉澤嘉代子さんがこの曲について話していた。

この曲は井上陽水さんの「帰れない二人」へのアンサーソングとして作ったのだそう。
とある男女の駆け落ちを歌った「帰れない二人」を聴いた中学生時代の嘉代子少女は母親に行ったのだとか
「帰れない二人だなんて可哀そう。」
嘉代子母はそんなピュアな嘉代子少女の感想に、大人の人間の機微を教えのだとか。
「帰れないことが幸せなこともある」

時は経ち、大人の女性になった嘉代子さんはそれでも、この二人を家に帰してあげることにした。

そうしてできた曲がこの「残ってる」なのだそう。

聴いてみると、「残ってる」のイントロは「帰れない二人」を引用している。

朝晩の空気、虫の音に、夏の終わりの足音をじわじわ感じるようになった。

それでもまだ「残ってる」夏を大事に抱きしめて残りわずかとなった8月を生きていたい。

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