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瞑想の旅〜スリランカのお寺での時間②〜過去生の記憶

スリランカの南の方にあるMATARA(マータラ)という街にあるお寺にお世話になりました。
コロンボからバスで2時間くらいのところになります。

2004年のスマトラ沖地震の時、このマータラも影響を受けましたが、ここのお寺は無事だったそうです。

涅槃像


御神木のようなガジュマル

海に面したお寺。
その敷地の中にあるクティに一人ずつ滞在しました。

瞑想しに行ったのですが、クティの生活がなかなか過酷でなかなか慣れずに大変でした。
虫、虫、虫・・・。
この辺りはまた別で書かせてください💓

今回は、瞑想をしていて印象的だったことを書こうと思います。

スリランカは赤道に近いこともあって、重力が小さく、瞑想をするのに適切な場所なのだそうです。
スーッと深く入りやすい感じがあったのは、そのせいもあるのかと思います。

日本ではみたことがないような真っ赤な夕陽

最初は、瞑想の時間も回数もなかなかこなせずにおりましたが、瞑想期間の最後の方になると必死に瞑想をするようになっていました。
瞑想者は、瞑想をするだけでなく、ブッダの教えを深く理解するために、経典を読んでいきます。
日本の仏教とブッダが説いた教えは、全然違うのですよね・・・。

最後の方、瞑想をする時に、
ブッダの教えと日本の仏教の教えは異なることもあるけれど、ブッダが望んだことなのだろうか・・・などと考えながら瞑想に入りました。

日本では、織田信長が比叡山を焼き討ちし、本願寺と10年に渡り戦争をし、本当に多くの人が亡くなっているという歴史がありますよね。

人が殺し合うこと、その愚かさ(歴史上の誰が悪いとかそういうことを言いたい訳ではありません。争いによって失われた命の尊さについてです。)
一人ひとりの命は尊くてかけがえのないもの。
「争いなどによって、天寿を全うせずにその命が失われることの悲しさ」、というのが、自分の細胞に刻まれている感じがいたしました。

(瞑想の先生によると、瞑想が深くなっていくと、過去生のものが出てきたりすることがあるそうです。)

そのことに気づいた時、こんなことも悲しみとして、身体に刻まれているのだ、ということに驚きつつ、涙を流してそのことを解放しました。

そして、「全ての命は尊い」、「生かされていることのありがたさ」、「生きとし生けるものが幸せでありますように。」そう心から思えたのです。

比叡山とか本願寺というのは、そのこと自体を深く私が傷ついている、というよりは、日本人にとってわかりやすいもの、として出てきてくれたのかな、という感じで解釈しております。

物事の問題は外側にはなく、全ては自分の中にあるということ。

何度も何度も瞑想をしていく中で、「生きる」ということをすごく強く意識するようになったと思います。
なんとなく生きている、ではなく、「意思を持って生きる」ということ。

日本や、世界でも、胸が痛くなることがたくさん起きています。
人ごとではもちろんないけれど、
私たちにできるのは、今ある命を大切に、今できることを精一杯すること。

「生きとし生けるものが幸せでありますように」


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