「自由意志」の時代におけるエチカ
*「自由意志」とは自明なものなのか
現代においては「自由意志」による選択が何よりも尊重されます。そしてその選択の結果は基本的には「自己責任」とも言われます。けれども、果たして「自由意志」なるものはそんなに自明なものなのでしょうか。我々は本当に「自由意志」なるものによっていつも物事を合理的に判断しているのでしょうか。
この点「自由」の意味と倫理を精緻に考察した17世紀の哲学者がバールーフ・デ・スピノザです。その主著「エチカ(ethica)」とはラテン語で「倫理学」という意味です。「倫理学」とは平たく言えば「人はどのように生きていくか」を考える学問ということになりますが、この「エチカ」の語源である「エートス」には「慣れ親しんだ場所」とか「巣や住処」という意味があります。
こうしたことから「エチカ=倫理」という言葉には「人は〈今いる場所で〉どのように生きていくか」という問いが含まれており、いわゆる「道徳」とは異なる意味を持っています。いわゆる「道徳」が特定の価値観を普遍的なものとして上から押し付ける規範であるのに対し「倫理」とはあくまで個別的で具体的な状況に則した善悪の価値基準を問うものです。
* 汎神論--スピノザ哲学の世界観
スピノザ哲学は一般的に「汎神論」と言われています。「汎神論」とは森羅万象あらゆるものが「神」であるという考え方です。日本では「八百万の神々」のような多神教的な自然崇拝のイメージが馴染み深いですが、スピノザにおける「神」とはただ一つの「神」です。
ここで「神」とかいうワードが出てきた時点でもう何か胡散臭く感じるかもしれませんが、スピノザのいう「神」は一神教的な意味での神とはまったく異なります。
スピノザ哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。言い換えれば「神に外部はない」ということです。スピノザのいう「神」とはこの宇宙を含めた「自然」そのものであり、我々を含めた万物はこの「神」の中にいます。これを「神即自然」といいます。これがスピノザ哲学の枢要部にある世界観です。
すなわち、スピノザのいう「神」とは人格を持った神ではなく、我々の生きるこの世界の「自然の法則」そのものです。こうした意味でスピノザは今日の自然科学的な発想から「神」を捉えているといえるでしょう。当時、スピノザはキリスト教神学者から異端思想者として危険視されていましたが、もし神を絶対至高な存在者として捉えるのであれば、むしろスピノザがいうような「神」が現れてくることになるはずです。
* 世界の本質としての「コナトゥス」
そしてスピノザは神を「自然」であるだけではなく「実体」であると定義しました。「実体」とは言葉の通り、実際に存在しているものです。すなわち、神こそがこの世界における唯一の「実体」であり、神だけが実際に存在しているということです。
そしてその神の「変状」が我々人間を含めた万物であるということです。ここでいう「変状」とは、あるものが一定の形態や性質を帯びる事をいいます。つまり神の一部が一定の形態と性質を帯びて発生したものがこの世界を構成する個物であるということです。要するに、我々は「神の一部」ということになります。
そしてこのような個物は「様態」と呼ばれます。ここでいう「様態」とは、特定の「モード(様式)」を意味します。つまりこの世界を構成する個物はそれぞれが神が存在したり作用したりする「モード(様式)」であるということです。すなわち、それぞれの個物は神が存在したり作用したりする「力」を「表現」しているということです。
このようにスピノザは物の本質を「力」として把握しています。このような「力」をスピノザは「コナトゥス(conatus)」と呼びます。コナトゥスとは「自分の存在を維持しようとして働く力」を指すラテン語です。これは医学や生理学でいう恒常性(ホメオスタシス)の原理に近いものです。
* 組み合わせとしての善悪
さらにスピノザは独特な仕方で「善」と「悪」を定義します。スピノザによれば「完全/不完全」という区別は人間が勝手に決めたものであり、自然界には「完全/不完全」の区別はなく、それ自体で「善」とされる存在も、それ自体で「悪」とされる存在もなく、「善」と「悪」は「組み合わせ」によって生じるものに過ぎないと考えました。
例えば毒性があることで知られるトリカブトという植物はそれ自体は別に「悪」ではなく、あくまで人間との「組み合わせ」によって「悪」になるということです。
こうしたことから人間にとっての「善」とは、その人にとっての活動能力を増大させる「組み合わせ」であり「悪」とはその人にとって活動能力を低下させる「組み合わせ」なのであるとスピノザは考えました。
* スピノザが考える「自由」
「エチカ」では第一部で「神」が定義された後、第二部では人間の「精神」が論じられます。続く第三部では「感情」の起源が論じられ、第四部では「感情」の力が論じられます。そしてこの本が目指す最終目標は「自由」の究明に他なりません。最終部である第五部は「知性の能力あるいは人間の自由について」と題されています。果たしてスピノザの目指した「自由」とはいかなるものなのでしょうか。
「自由」というと普通「外部からの制約がない状態」を想起します。けれども、そもそも外部からの制約がまったくない状態などあり得ないでしょう。
いま見たようにスピノザにとって、個物としての人間の本質とは「力」であり、人間にとっての「善」とは「組み合わせ」により活動能力が増大することでした。けれども、活動能力が増大するといっても、人間には身体や精神といった条件や制約があります。すなわち、ここで重要なのは与えられた条件や制約に従い、自身の力をうまく発揮できることです。そして、これがまさしくスピノザの考える「自由」です。
* 自由と強制
スピノザは「エチカ」の冒頭で「自由」を次のように定義します。
まず前段によれば「必然性」に従うことが自由だということです。ここで言われる「必然性」とは先ほど述べたように、身体や精神といった条件や制約です。
ゆえに人は生まれながらにして「自由」であるわけではありません。身体や精神を上手く使いこなせないからです。けれども、やがて人は試行錯誤を重ねて、身体や精神といった条件や制約を上手く生かす術を学んでいくことで、少しずつ「自由」になっていきます。
次に後段によれば「自由」の反対は「強制」であるということです。「強制」とは、その人に与えられた条件が無視されて外部の「原因」により何かを無理矢理押し付けられている状態をいいます。
裏返せば「自由」とは自らが「原因」となることをいいます。ここでいう「原因」とは「結果」の中で自らの「力」を「表現」するものをいいます。このように自らの行為において自らの「力」を「表現」している状態をスピノザは「能動」と呼びます。これに対して、逆に自らの行為において外部の「力」をより多く「表現」している状態が「受動」です。すなわち「自由=能動」であるということです。
もっとも我々の行為はいつも多くの「原因」に規定されています。実際のところ、人は常に外部からの影響と刺激の中にあり、身体各器官は我々の意志とは関係なく複雑なメカニズムで自動的に動いています。つまり完全な「自由=能動」はあり得ません。
もっとも完全な「自由=能動」にはなれなくとも、自らの「力」の「表現」の度合いを高めることで「受動」の部分を減らして「能動」の部分を増やすことができます。すなわち「自由=能動」の度合いを少しずつ高めていくことはできるわけです。
* 自由意志など存在しない
このようにスピノザは「自由」を「あるかないか」ではなく「どのくらいあるか」という「度合い」で捉えています。要するに何が言いたいのかというと、スピノザのいう「自由」とは、いわゆる「自発性」のことではないということです。
「自発性」とは外部の何者からの影響も命令も受けずに、自分が純粋な出発点となって何事かをなすことをいいます。このような意味での「自発性」が「自由意志」と呼ばれているものです。
スピノザは「自由意志」を否定します。確かに人は自らの中に「意志」らしきものがある事を感じていますし、スピノザもその事実は否定しません。けれどもその「意志」だけで自らの行為を制御しているわけではありません。なぜなら、いかなる行為にも「原因」があるからです。我々の行為は我々の「意志」が一元的に決定しているわけではなく、様々な要因の絡み合いの中で中で多元的に決定されているわけです。
しかしながら、その一方でスピノザは「意志」の存在を「意識」することは否定しません。スピノザは「意識」を「観念の観念」と呼びます。「観念の観念」とはややこしい言い回しですが、要するに「意識=観念の観念」とは精神の中に現れる何らかの「観念」に対して、反省的作用を加えることで生じるいわば「メタレベルの観念」です。
先述したように我々の行為は様々な要因によって多元的に決定されるのでした。そして「意識」もまた、その要因の一つになります。人間の精神の特徴は「意識」を高度に発達させ、それによって自らの行為を反省的に捉えるところにあります。それゆえ「意識」は行為の多元的要因の一つとして行為に影響を与えることができます。
*「自由意志」の時代におけるエチカ
そして、このような「意志」ではなく「意識」を重視するスピノザの思考は現代においては第三世代の認知行動療法として注目を集めるアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)と極めて親和的であるといえるでしょう。
ACTではさまざまな心理的・行動的な問題を「体験の回避」の問題として一元的に捉えます。我々はしばしば、何かしらの苦しみから逃れるための「体験の回避」を繰り返して結果として余計に苦しくなるという悪循環に陥ってしまうわけです。こうした現実は純然たる「自由意志」など無い事を端的に示しています。
この点、ACTの臨床では、こうした「体験の回避」を解除するため自身の心の状態や体の感覚に「意識」を向けていく「マインドフルネスアプローチ」が重視されます。すなわち、さまざまな「今このとき」に意識を向けることで、まさしく「自由=能動」の度合いを少しずつ高めていくという営為です。
そして、こうしたマインドフルネスアプローチを起点として、ACTでは「体験の回避」から「価値ある行動」への転換を促していきます。「意識」は万能ではないですが無力ではありません。「今このとき」に「意識」を向けて「自由」の度合いを高め、自分にとって最も「価値ある行動」に踏み出していくということ。おそらくは、こうしたプロセスの中にこそ「自由意志」の時代におけるエチカがあるのではないでしょうか。
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