* 西田幾多郎と『善の研究』日本を代表する哲学者、西田幾多郎(1870年〜1945年)の前半生は意外と波乱に満ちたものとなっています。金沢の旧制四高をその校風に反発して中退した西田は、1894年に東京帝国大学の選科生(現代でいうところの聴講生)を修了後、しばらく地方の尋常中学や旧制高校の講師職を転々として、ようやく機縁を得て四高教授となりますが、その間、実生活において妻との離別、自身の病、娘の夭逝といった数々の受難が降り掛かります。そして1910年、40歳の時に京都帝国大学助
* 世界と自由をつなぐものとしての「判断力=センス」近代哲学を確立した18世紀の哲学者イマヌエル・カントは『純粋理性批判』において普遍的な自然法則に基づく世界のあり方を論じたのちに『実践理性批判』で普遍的な道徳法則に基づく自由のあり方を論じ、さらに『判断力批判』においてこうした世界と自由はどのように結びつくかを論じました。 ここでいう「判断力」とは個別的なものを普遍的なものと結びつけることをいいます。そして「あの花は向日葵である」というように普遍的なものが与えられている場合
* 西田哲学の根本課題日本を代表する哲学者、西田幾多郎は『善の研究』(1911)においてこの世界を構成する実在として主観と客観の二分法という反省が加えられる以前の主客未分の状態である「純粋経験」を位置付けました。その後西田は「純粋経験」を捉え返す「自覚」を経て、その基盤となる「場所」の根源としての「絶対無」へと到達します。さらにここから晩年の西田は「絶対無」を破断的に内在させた「個物」の「行為的直観」が織りなす「絶対矛盾的自己同一」としての世界を描き出すことになります。 こ
* 生命一般の根拠生命の実体や生命の起源についての研究は現代における先端科学の中心的課題の一つであることは言うまでもなく、この先いつか生命の構造が余すところなく解明される日が来るかもしれません。もっとも、そのような科学的視野に中にある「生命」とはどこまでいっても「生命物質の生命活動」のことです。たとえ物質の生命活動が解明できたからといって、それはあくまで生きている物質に特有の構造が明らかになっただけのことであって、生命それ自身の本態が暴露されたことにはなりません。 生命それ
* 日本哲学のはじまりと『善の研究』日本における哲学の歴史は一般的にはPhilosophyを「哲学」という日本語に訳したことでも知られる西周が行った哲学講義によって始まったとされています。江戸幕府の洋学研究機関であった蕃書調所(のちの東京大学)の教授手伝並であった西は1862年(文久2年)に軍艦発注のために派遣された幕府の使節に随行し、オランダで法学や経済学と共に哲学を学び、明治維新後「育英舎」という私塾を開き1870年(明治3年)から「百学連環」という題目で哲学を含む学問全
* 啓蒙とカント哲学「啓蒙」とは「蒙を啓く」という言葉通り、ものごとを見極めることなく宗教や習俗に従うままの人間のあり方に対して光をもたらすことをいい、物事をこの光の中で見定めることによって人間を迷妄から解き放ち、人間社会を理の通ったものにしようとする思想運動です。すなわち「啓蒙」とはそれまで人間や社会を支配していた考え方や価値観を疑い、そこから自由になることを目指します。 こうした「啓蒙」の思想を代表する18世紀の哲学者がイマヌエル・カントです。彼は1784年に書いた論文
* 世界・思考・言語20世紀最大の哲学者のうちの1人に数えられるルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインの前期を代表する著作『論理哲学論考』は7つの主要テーゼによって階層化された526個の命題群で構成されています。この7つの主要テーゼのうち1と2は「世界」を扱い、3と4では「思考」を扱い、5と6では「言語」を扱います。そしてこの「世界」と「思考」と「言語」という3つの領野は緊密に結びついています。 すなわち「世界」と「言語」の2つの領野が「思考」という領野によって結びついており
*『存在と時間』という未完のプロジェクト20世紀最大の哲学者の1人に数えられるマルティン・ハイデガーの主著『存在と時間』は刊行後、国内外に大きな反響を呼び起こしました。しかし同書はもともと上下巻に分けて刊行されるはずでしたが、実際に刊行されたのは上巻のみとなっており、結果、同書が本来の目標として掲げていた「存在の意味」の解明も実際には果たせないままで終わっています。 周知の通りハイデガー哲学の根本課題は「存在の問い」にあります。この「存在の問い」には第一に「存在」の根源的な
* 哲学の使命とは「会話」を守ること?西洋哲学の起源は古代ギリシャに遡ります。プラトンやアリストテレスといった哲学者は「普遍とは何か」について考えました。この「普遍とは何か」という問いは中世のキリスト教神学に影響を与え「神(普遍)は実在するか」について考えるスコラ哲学が興りました。ところが近世において神よりも人間への関心が増してくると哲学の主題にも変化が起きます。ルネ・デカルトはそれまでの哲学のように「普遍とは何か」を問うのではなく「われわれはどうすれば普遍的なものを客観的に
* 訂正可能性--『存在論的、郵便的』の核心部現代を代表する批評家/哲学者である東浩紀氏が1998年に世に放ったデビュー作『存在論的、郵便的』はフランスの哲学者ジャック・デリダが1970年代に書いた奇妙なテクスト群に光を当てた画期的なデリダ論として知られています。同書はデリダの代名詞であるところの「脱構築」をあるシステムの二項対立を無効化する側面(ゲーテル的脱構築)と、その結果として生じる剰余を扱う側面(デリダ的脱構築)に分けた上で、後者を精神分析的な転移のメカニズムによって
* ルソーの社会契約と一般意志フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーが1762年に公刊した主著『社会契約論』は「一般意志」の理念を提出し、フランス革命に決定的な影響を与えた政治思想の古典として一般には理解されています。しかしこの著作は実際はかなり謎めいた側面を持っています。 ルソーの思想は一般には個人の自由、感情の無制約は発露を称揚するものとして知られています。例えば『人間不平等起源論』では自然状態にいる「野生の人」の自由と幸福を謳い上げる所から始まり『エミール』では子
* シンギュラリティと人工知能民主主義2010年代の流行語の一つに「シンギュラリティ(特異点)」という言葉があります。ここでいう「シンギュラリティ」とは人工知能が人間の知能を超える転換点を指しています。この「シンギュラリティ」という言葉が注目されるようになった契機としてアメリカの未来学者レイ・カーツワイルが2005年に出版した『シンギュラリティは近い』という著作が挙げられます。そこでカーツワイルは2045年には人工知能が人間の知性を超えると予言しています。こうして2010年代
* 動員の革命とポピュリズム「動員の革命」という言葉に象徴されるように2010年代とはSNSを活用した「運動」の時代でもありました。2010年から2011年にかけて起きたいわゆる「アラブの春」と呼ばれるアラブ世界における大規模反政府デモにおいてはSNSが大きな役割を果たしました。また2014年に起きた台湾の「ひまわり運動」や香港の「雨傘運動」といった学生運動もSNS抜きには語れません。そして日本においてもSNSは2011年の東日本大震災と福島第一原発事故を契機として急速に普及
* ブッダの発見した四つの真理我々の日常はしばし何かへの執着とか何かへのイライラとか何かへの不安などといった諸々の感情に支配されることが多いでしょう。こうした我々が生涯で体験する様々な憂苦懊悩を古代インドの賢者ブッダは「八つの苦しみ」として定義しました。 ここでいう「八つの苦しみ」とはすなわち「生老病死」の四つの「苦しみ」に「愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)」「怨憎会苦(嫌いな人に出会ってしまう苦しみ)」「求不得苦(求める物が手に入らない苦しみ)」「五蘊盛苦(欲望が燃え盛
*「走る」ことと「書く」こと今年6年ぶりの長編小説『街とその不確かな壁』を上梓した村上春樹氏は熱心な市民ランナーとしても知られています。時に1980年代初頭、当時30代前半だった村上氏はそれまで経営していたジャズ喫茶「ピーター・キャット」を他人に譲り渡して専業作家となり、初の長編小説となる『羊をめぐる冒険』を書き上げた後に体調管理と禁煙を兼ねて「走る」ことを始め、以来、今日に至るまで世界各地で行われるフルマラソンやトライアスロンの大会に出場し続けています。氏はかつて『走ること
* 本能と欲動 人間はある意味で「過剰」を抱えた生き物であるといえます。他の動物と異なり未完成な状態で生まれてくる人間の子どもは神経系的にまだまとまった存在ではないため、生まれてしばらくの間の子どもは過剰な刺激の嵐に晒され、世界はカオスの場として現れます。そして、このような過剰な認知エネルギーをなんとか制限し、整流していくというのが人間の発達過程ということになります。 この点、精神分析の世界ではこのような過剰な認知エネルギーを「欲動」と呼びます。人間の根底にはその一方で哺