見出し画像

アポロン的なものとデュオニュソス的なもの

*「哲学」とはなんだったのか

古代ギリシアにおいてソクラテスによって創始された「哲学」は長らく、世界に秩序を見出そうとする知的営為とされてきました。ソクラテスが当時の常識的世界観である万物の本性を「自然(フュシス)」に求める古代存在論をアイロニーによって駆逐したのち、彼の弟子であるプラトンは従来の古代存在論に代わる新たな存在論として「自然」の中に秩序を導入する「イデア的存在論」を立ち上げました。

ここでいう「イデア」とは、言うなれば「たましいの眼」によってのみ洞察可能な事物の本来的で純粋な「すがたかたち」を意味します。この点、プラトンは全ての事物にイデアを認め、さらには物の性質や関係に関しても「正しさのイデア」とか「美しさのイデア」といったものを考えました。

そしてプラトンはこの現実世界を超えたところにあるイデアだけで構成される「イデア界」を想定し、現実世界における全ての事物はこのイデア界から借用してきた「形相(エイドス)」と自然界の「質料(ヒュレー)」との合成物であり、その存在を左右するのはあくまで「形相」であり「質料」ではないと考えました。

もっとも本来無構造な質料がイデア由来の形相によって構造化されるというプラトンの存在論は建物や道具などの制作物の存在構造は上手く説明できますが、もともとそれ自体が形相なのか質料なのかよくわからない自然物の存在構造には馴染みにくい難点があります。そこでプラトンの弟子であるアリストテレスは制作物にしか適用できない「形相」と「質料」というプラトンの存在論のカテゴリーを修正して、自然的存在者にも適用できるものにしようと試みます。

この点、プラトンは「形相」と「質料」の関係を切り離していましたが、アリストテレスは「質料」はそれぞれなんらかの「形相」を可能性として含んでいる「可能態(デュナーミス)」であると考え、そしてその可能性が現実化された状態を「現実態(エネルゲイア)」と呼びます。つまりアリストテレスは「質料-形相」という図式を「可能態-現実態」という図式に組み替えて、自然物であれ制作物であれ全ての存在者は「可能態」から「現実態」へ向かう運動のうちにあるとして、その運動が目指している究極の目的(テロス)を「純粋形相」と呼びます。

そして、このようなアリストテレスが確立した思考様式は「第一哲学」と名付けられ、後世において「形而上学」と呼ばれることになります。すなわち「自然」の外部に「超自然的原理=形而上学的原理」を設定し、これを参照しながら「形而下」としての「自然」を理解しようとする思考様式です。

こうしてソクラテス、プラトン、アリストテレスというギリシア古典時代における3人の思想家の下で「形而上学=哲学」という思考様式が鳴動を始めます。そしてその「超自然的原理=形而上学的原理」は、その時々の時代ごとに「イデア」「純粋形相」「神」「理性」「絶対精神」などと、その呼び名を変えてゆくことになりますが、この思考パターンそのものは、その後多少の修正を受けながらも一貫して受け継がれ、近代ヨーロッパ文化形成の基本的構造を描いていくことになります。

* アポロン的なものとデュオニュソス的なもの

ところが近代ヨーロッパ文化が成熟期を迎えた19世紀になると、これまでの世界を秩序づけるものとされた「形而上学=哲学」を乗り越えようとする新たな潮流が生じてきました。すなわち「秩序」から外れた非秩序的なカオスに光を当てていくという潮流です。そして、こうした潮流を代表する思想家の一人に「神は死んだ」の警句で知られるフリードリヒ・ニーチェがあげられます。

気鋭の古典文献学者として24歳の若さでバーゼル大学教授に就任したニーチェは「悲劇の誕生(1872)」という最初の著作において古代ギリシアの「悲劇」を問い直す上で「アポロン的なもの」と「デュオニュソス的なもの」という図式を提示します。

ギリシア神話におけるアポロン神は光明と芸術を司る理知に溢れた預言の神であり、情念を芸術に形象化する力を象徴します。これに対してデュオニュソス神は酒の神であり、祝祭における我を忘れた狂騒や陶酔を象徴します。すなわち、古代ギリシアにおいて秩序を志向するものが「アポロン的なもの」であり、他方、秩序の中にカオスを賦活するものが「デュオニュソス的なもの」です。

ニーチェは「悲劇の誕生」において、従来「アポロン的なもの」として理解されることが多かったギリシア芸術の見方に「デュオニュソス的なもの」という新しい要素を投げ入れます。そして、ギリシア芸術とはこの二つのダイナミックな絡み合いとして動いていると主張して、その象徴的な例としてアイスキュロスの悲劇「プロメテウス」を取り上げます。

* ギリシア悲劇における人間観

アイスキュロスの世界観には一方で秩序を志向するアポロン的傾向があります。しかしニーチェによれば彼に描かれたプロメテウスはそれに収まらない独自の性格を持っています。

プロメテウスは神々の世界から火を盗み、そのことで人間の世界に文明をもたらすとともに、大きな争いをも生じさせることになる人物です。しかしアイスキュロスはプロメテウスのこの行為を人間の欲望の本性に由来する「能動的な罪」として是認し、またそこから生じた人間の矛盾や苦しみをも是認します。そこにアイスキュロスの悲劇の独自性があり、いわばアポロン的な英知と理性としての人間像を超える要素があるとニーチェはいいます。

つまりニーチェはここでアイスキュロスを借りて、文明は人間世界に新しい大きな矛盾や苦しみをもたらしたのかもしれないが、そのことを否定すべきではなく、むしろ肯定すべきだという考え方を明確に打ち出しているわけです。

こうしたことからニーチェは、ギリシャ悲劇における「悲劇」という概念の核心には、人間はその欲望する本性によってさまざまな矛盾を生み出してしまう存在だが、それにもかかわらず、この矛盾を引き受けつつも、なお生きようと欲する存在であるという人間観があると主張しました。

* ダブルシステムの思考

この「悲劇の誕生」という著作は実質的には、当時ニーチェが信奉していたショーペンハウアーの哲学を下絵に「アポロン的/デュオニュソス的」という図式を立ち上げて、ここからやはり当時ニーチェが入れ上げていたワーグナーの音楽の革新性を称揚するという代物であり、当時は学問的厳密性を欠くものとして古典文献学界の不興を大いに買うことになりました。けれどもこの「アポロン的/デュオニュソス的」という図式を出発点として「超人」「力への意志」「永遠回帰」といった今日よく知られるニーチェの思想が形成されていくことになります。

この点「アポロン的/デュオニュソス的」という図式は哲学史的に遡れば、例のアリストテレスにおける「形相」と「質料」の対立に行き着きます。アリストテレスの下ではあくまで「形相」の側から「質料」が秩序づけられることになります。ところがニーチェは「形相(アポロン的なもの)」から秩序づけられるはずの「質料(デュオニュソス的なもの)」の側に内在するカオスにこそクリエィティブな価値を見出すわけです。

そして、このニーチェの提示した図式は今日のいわゆる現代思想を規定するパースペクティブの源泉のひとつでもあります。我々が生きる現代社会においては、様々な領域で「きちんとする」ないし「ちゃんとしなければならない」という「秩序化」が進む一方で、こうした秩序に収まらない例外性や複雑性を孕むような問題は切り捨てられ、世界の細かな凹凸がブルドーザーでならされてしまうような「単純化」が進んでいます。

こうした現代社会における「秩序化=単純化」という「アポロン的なもの」といえる傾向に対して、現代思想は秩序から逸脱するもの、すなわち「デュオニュソス的なもの」に注目します。その背景には例えば「コンプライアンス」とか「安心・安全」などといったきれいな言葉で過剰に「秩序化=単純化」された社会とは果たして本当にユートピアなのか、それはある種のディストピアと紙一重ではないかという問題意識があります。

もちろんこれはアナーキーな世界を称揚するものでもありません。あらゆる出来事は「アポロン的なもの」と「デュオニュソス的なもの」が拮抗する中で成り立っています。要するに、世界をより高い解像度で捉える上では、一方で秩序を作る「アポロン的なもの」に立つ思想はそれはそれで必要だけれども、他方で秩序から逃れる「デュオニュソス的なもの」に立つ思想も必要であるという「ダブルシステム」の思考が重要になるといえるでしょう。そして、今日においてニーチェの思想もまた、このような「ダブルシステム」の思考から読み直すことができるように思えます。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?