エディプスからサントームへ

* 実存主義から構造主義へ

1960年代、フランス現代思想のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷しました。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は「実存は本質に先立つ」というキャッチコピーのもと、人は独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定しました。ところがクロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事でした。

レヴィ=ストロースの緻密な論証に対してサルトルは有効な反論を提出できず、たちまち構造主義は時代のモードへと躍り出ました。このような中、構造主義の立場から独創的な精神分析理論を立ち上げたのがジャック・ラカンです。

* 構造と主体の理論

ラカンが構築した理論の特徴は、基本的には構造主義の立場に依拠しつつも、その枠組みの中で「構造」と「主体」の統合を試みた点にあります。

この点、サルトルのいう主体とは「意識の主体」です。ここでいう「意識の主体」とは、自由意志による投企を通じて、自らを意識的に更新していく存在をいいます。

これに対して、ラカンのいう主体とは「無意識の主体」です。ここでいう「無意識の主体」とは、その語りの中における--例えば「言い間違い」などといった--自由意志によらない裂け目を通じて、自らを無意識的に拍動させる存在をいいます。

このような観点からラカンは精神分析の始祖であるジークムント・フロイトが提唱した「エディプス・コンプレックス」を再解釈して「〈父の名〉」や「対象 a 」といった概念を創り出し「構造」と「主体」を統合的に捉える理論を完成させました。すなわち、ラカンによれば「主体」とは「構造」によって産出される存在であると同時に「構造の外部」を絶えず希求する存在でもあるということです。こうしてラカンは構造主義における一つの到達点を示しました。

* ポスト・構造主義の登場

ところが1970年代になると、こうした構造主義およびラカンの理論を乗り越えようとする動きが台頭化します。その急先鋒となったのがジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリです。彼らが1972年に発表した共著「アンチ・オイエディプス--資本主義と分裂症」は、1968年5月のフランスで起きたいわゆる「5月革命」と呼ばれる学生運動/労働運動を駆動させた多方向へ炸裂する欲望を究明し、1970年代の大陸哲学における最大の旋風の一つを巻き起こしました。

そして同書において精神分析は人の中に蠢く多様多彩な欲望を「エディプス・コンプレックス」なる家父長的規範へと回収する装置としてラディカルに批判されることになります。

こうしたドゥルーズたちの立場からすれば、もはやラカンの理論など古色蒼然たる父権主義的言説としか言いようがないわけです。今や目指すべきは構造の解明でも安定でもなく、それ自体の変革あるいは破壊でなければならない。こうして70年代におけるフランス現代思想のトレンドは「構造主義」から「ポスト・構造主義」へと遷移しました。

* 見逃されてきたラカンの「核心点」

以上の経緯から今日においてラカンはポスト・構造主義により乗り越えられたものとみなされるのが一般的な理解です。けれども果たして本当にラカンは既に過去の遺物に過ぎないのでしょうか?

この点、精神病理学者、松本卓也氏によれば、ラカンの理論と実践、およびドゥルーズ&ガタリとの対立において、これまで見逃されていたある「核心点」があるという。そしてその「核心点」の理解無くして、いわゆるフランス現代思想におけるラカンの位置付けを理解することもラカンに向けられた批判を理解することも不可能であるとまで断言します。

では、その「核心点」とは何か?氏はこれを「神経症と精神病の鑑別診断」だといいます。

* 神経症と精神病

「神経症」とは生理学的には説明することのできない様々な神経系の疾患を幅広く指します。そして「精神病」とは、幻覚や妄想といった悟性の障害や、精神機能の衰退を含む重篤な精神障害をいいます。

精神分析の臨床においては、ある分析主体の心的構造が神経症構造なのか精神病構造なのかは極めて重要な問題です。両者においては分析の導入から介入の仕方まで全てのやり方が異なってくるからです。

通常、分析家は分析主体の自由連想を解釈して転移を引き起こすことで症状に介入します。ところが精神病構造を持つ主体の場合、この転移が発生しない上に、最悪の場合は状態がさらに悪化して本格的な精神病を発病させてしまう危険があります。

そのため自由連想開始以前の予備面接段階において当該分析主体が神経症か精神病かのどちらの構造を持つかを鑑別する必要があるということです。

松本氏によれば、ラカンの提唱した様々な概念は、突き詰めればこのような「神経症と精神病の鑑別診断」という臨床的な要請によるものであるといいます。そしてドゥルーズ&ガタリが標的としたのもまさにこの「神経症と精神病の鑑別診断」に他ならないということです。

* エディプスからサントームへ

こうした「神経症と精神病の鑑別診断」という視点からラカン理論を読みなした時、そこには構造主義者ラカンとは違う別のラカンを見いだすことができます。

この点、1950年代から1960年代のラカン理論においては神経症と精神病は対立的に把握されていました。ここではエディプス・コンプレックスという構造が両者を切り分ける指標として機能していました。

これに対して1970年代のラカン理論においては神経症と精神病は統一的に把握されることになります。これに伴いエディプス・コンプレックスはサントームという概念によって相対化されてしまいます。

サントームとは、その人だけが持つ「特異性としての症状」のことです。こうして精神分析は人それぞれが持つ「特異性としての症状」と「同一化する/上手くやる」ための実践として再発明される事になります。

* 「うまくやる」ということ

規範的幸福のロールモデルが喪われ、幸福の規制緩和が拡大する現代社会において、誰もが自らの特異性と「うまくやる」という問題は避けて通れないでしょう。

人はそれぞれ、その人だけの特異性をもった存在として、一般性の中で折り合いをつけながら生きている。こうした特異性と一般性の巡り合わせが良ければ、それは個性として承認され、その巡り合わせが悪ければ単なる社会不適合者として排除される。

この差はおそらく、ほんの紙一重なんだと思います。正義が勝つとは限らない。努力が報われるとは限らない。未来が素晴らしいとは限らない。所詮、世界は「巡り合わせ」という名の誤配に規定されたガチャに過ぎないのかもしれません。

けれども、こうした紙一重の現実に、恨み辛みを無闇に述べ立てるよりも、そのガチャを回す機会を1回でも多く増やす努力をする方が遥かに生産的で、希望のある人生ではないでしょうか。「うまくやる」とはまさにそういった努力に他ならないわけです。



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