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セックスって、なんですか。

「なあ。おれたちって、あれ、できんのかな」

隣で西山くんがささやいた。なんの前置きもなく。
西山くんは彼とおなじ完全下半身まひの身体障害を負い、車いすに乗っていた。

養護学校の体育館で授業中だった。クラスメイトはバレーボールを使った野球で盛り上がっていた。Aチーム対Bチームの試合は三対二。彼らの所属するAチームがリードしていて、今もワンアウト二、三塁のチャンスだった。
「うん……。あ、三振か」
彼は前を見たまま答えた。打席に入っている三島くんが空振りした。そのはずみで脇にはさんでいたアルミ製の松葉杖がはずれ、あやうく転びそうになった。
「あの雑誌、今度西山くんが借りるんだよね」
西山くんは、なにも言わずうなずいた。そっと横顔をのぞきみる。紅潮していると思った頬はむしろ青白く、不安げにかたかった。
おなじ不安を彼もまた抱えていた。

おれって、あれ、できんのか。

養護学校中学部二年の頃、校内にその手の雑誌やビデオが出まわるようになっていた。
心身にハンディがあるといっても、このくらいの年齢になると性に対する興味は当然出てくる。というより男子なんてそのことしか頭にない。これは健常者となんにも変わらない。
山内くんの兄貴から借りた。川本くんの親戚が持ってきた。鈴木くんが万引きしてきた……。出どころなんてあやふやなもの。でもそんなのはどうでもいい。とにかく現物があればいいのだ。それらのブツは教室の隅や廊下の突き当たりや体育館の倉庫でローテーションされていった。

西山くんが言っていた雑誌も、ほどなく彼にまわってきた。一週間くらい前に西山くんが先にみていた。その感想を彼はたずねなかったし、彼も言わなかった。連載漫画の続きがどうたらとか、そんな会話しかしなかった。

夜中、彼は布団のなかでかばんの奥に押し込めていたその雑誌を取り出し、開いた。頭がくらくらした。からだが熱くなった。
おれたちって、あれ、できんのかな。
西山くんの言葉を思い起こしながらページをめくった。


次の日、私はすぐ雑誌を次に待っていた小形くんに渡した。もういいのか。小形くんは目をまるくした。右脚が義足だったが、それ以外はごく普通のからだだった。ああ、いいよ、と彼は雑誌を押しつけた。頭の芯がずきずきしていた。



二十代半ばで彼は、後に共に生きることになる女性と出会った。

職場の同僚で、おない年の女性だった。健常者だった。
誰とでも打ち解けられる、明るいひとだった。
でも何度か話して親しくなるうち、本当は少し無理してそうしている、と打ち明けられた。なんだかほっとしたような口調で。
デートを重ねた後、三連休を利用して一泊旅行に出かけた。彼女は温泉が好きだったから、海の見える旅館にした。
道中、いろんなところをまわりながら、彼は重だるい動悸を抑えられなかった。
ずっと、ひそかな希望を抱えていた。
実際の異性とからだを重ねれば、もしかしたら。
旅館につき、夜を迎えた。

希望はすぐに打ち砕かれた。

それでも、彼女は彼と共に生きていきたい、と言ってくれた。大丈夫、きっとわたしたちはうまくやっていける、と。
二年後、結婚式をあげた。両家の親戚や職場の同僚、友人たちから盛大な祝福を受けた。駅裏の古いアパートで暮らしをはじめた。

それからも、いろいろとふたりで工夫を重ねてみた。それなりに満たされたような思いになることもあった。でも火のまわりが悪い焚き火みたいなものだった。こっそりとネットで「大人 おもちゃ」と検索したこともある。どぎつい画像に、いやそういうことじゃないだろ、と、彼はパソコンを閉じた。


パズルのかけらがぼろりと抜け落ちている。方程式の数式が途中からわからない。そんな感覚を拭い去ることができないまま、年月はすぎていった。

互いが満たされるのは、それだけがすべてじゃない、とひとは言う。

手をつなぎ、ふれあうだけでもいい。
きつく抱きしめあうだけでもいい。
隣で共に眠るだけで、それだけでもいい。

頭では理解できる。

でも、と、その後、彼の脳裡に影がよぎる。

それって、最終的に結ばれるあの行為ができたうえの、その感覚を知ったうえでの、言葉じゃないのか。

ふたりが重なり合い、相手のことが泣きたくなるくらいに愛おしくなる感覚を覚えたから、言える言葉じゃないのか、と。

彼はその感覚を知らない。一生知ることができない。

だからそれらの言葉に、うなずきたくてもうなずけない。のみくだすことができない。

ひとりで生きていくべきだったんじゃないか。

彼のその思いは、暮らしはじめた当初からずっと離れなかった。

彼女は一時期、子どもを強く望んだ。彼も自分たちのあいだに愛する子どもがいる光景を想像すると、顔がほころんだ。ふたりでいろいろ調べた。本を買い漁り、ネットをめぐり、実際に医師に相談をしてみた。が、結局望みはかなえられなかった。

相手がおれじゃなかったら。

暗く沈むパートナーの姿をみるたび、そんなつぶやきが彼の胸にこぼれた。

彼は先日、通院先の休憩室で昼食を摂っていた。結婚二年目から彼は腎臓を患い、定期診察と服薬が欠かせない身になっていた。

休憩室のすぐ目の前は産婦人科で、その待合室に一組の夫婦がいた。妻はスマートフォンの画面をにらむように見つめていた。だがふと疲れたように、長椅子に身を横たえた。すると隣にいた夫が上着を脱ぎ、彼女にかけてあげた。そんなふたりを彼は、パンを食べる手を止めて見つめ続けた。自分たちがあそこに通うことはついになかったな、と。

いつからか、彼はある決意を秘めるようになった。

もし彼女に別に好きな相手ができたら、自分は身を引こう。そのひとと幸せになってくれ、と。

その方が彼女は幸せになれる。自分とは望めなかったあの感覚も、きっと感じられる。ぎりぎりだけど、子どもだってできるかもしれない。生きるうえでもっともといっていい大切なものを、ようやく手にできる。

自分などほおっておいていい。ずっと我慢を強いた。涙ぐませた。苛立たせた。自分たちはいちばん肝心なものを抜きおとしたまま、過ごしてきた。そんなの、夫婦なんていえるのか。いえないだろう。

だから、もしその時がきたら、行ってほしい。ひととして大切な感覚を、そのひとと共有してほしい…

そんなみずからの想いを、彼は見つめる。ふと自嘲的な笑いがもれる。もうひとりの自分の声がしたのだ。

きれいごとだな。相手を思ってるみたいに言うけど、本当はもう、逃げたいだけだろ。

ひとと重なってもなにも為せない、なにも感じられないのが、ほとほといやになってるだけだろ。

それならいっそ、ひとりきりになり、老木のごとく枯れ、倒れてしまいたいだけなんだろ。

その方が、楽、だもんな。

西山くんとは高校卒業以来、会っていない。

隣県で仕事をしていることはわかるが、知っているのはそれだけだ。噂で彼女ができた、と聞いたこともあったが、定かではない。

おれたちって、あれ、できるのかな。

体育館での問いかけは、まだ覚えている。バレーボール野球は、そのまま逃げ切って勝ったことも。

再会できたら、たずねてみたい。

好きなひとは、できたのか。

そのひとと、暮らしてるのか。

あれは、できたのか。 どうなんだ。

今、幸せ、か。

おれか?

おれは…

「なに、どうしたの」

彼の隣で、テレビをみていた彼女が驚いた声でたずねてきた。

「え?」

「なんで、泣いてるの」

彼は頬に手をやった。冷たい涙に指がぬれた。

               了




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