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掌編「カッシアリタ」 リタ

 尿漏れシート、敷かないとなあ。
 汗ばんだユニクロのTシャツを脱いでいると、リタがけだるい様子で押し入れを開けた。古雑誌や掃除機、色あせたカラーボックスが雑然と押し込まれている。
 そのなかに、寝たきりの年寄りが使うような、尿漏れシートのパックがある。その脇には、紙おむつのパックも斜めに突っ込まれている。
 リタは尿漏れシートを二枚引き抜き、おれに放り投げた。薄みどり色のそれを広げ、部屋のなかにどっかりと置かれた車いすの上に敷く。その後、また服を脱ぎはじめる。膝がすりきれた古着のジーンズ、ゴムの緩んだボクサーパンツ。そして紙おむつも、テープをはがして取り去る。
 リタも脱いでいる。グレーのタンクトップ、肩紐がねじれたブラジャー、チノパン、糸のほつれたショーツ、そしておれとおなじく紙おむつも、乱暴に千切り取る。ああ、すっきりした。リタが微笑む。少し尿漏れしていて、真ん中あたりが汚れていた。
 おれは全裸になると、尿漏れシートを敷いた車いすに、まひの身体障害をおって、感覚も動作も失われた下半身をひきずり、腕だけでよじのぼる。
 ちんちん、ぷらぷらだよ。だっさ。
 リタは笑ったあと、自分の車いすによじのぼる。やはりまひの身体障害の下半身をひきずりながら。
 おまえだって、あそこ見えてんぞ。だっせ。
 リタの尻は筋肉がそげおち、手のひらにおさまるくらい小さい。だから後ろからでも性器がのぞいてしまうのだ。右の尻肉には褥そうの手術痕が白っぽく、なまなましく残っている。
 うだるほど暑い日、おれたちは部屋のなかで服も何もかも脱ぎ捨てて過ごすのが、いつしか習慣になっていた。すっきりするからやろうよ、とはじめに言い出したのはリタの方だった。
 ほらよ。おれはリサイクルショップで買った小さな冷蔵庫から金麦缶を二本取り出し、一本をリタに渡す。かしゅ、と音をたてプルタブを開け、さっさと飲みはじめる。細い喉がなり、貧弱な乳房の間に流れていく。
 ふぅ、と眉根を寄せた後、リタは最高、と微笑んだ。埃だらけの扇風機がだらだらまわっている。
 おれもリタに並んで座り、金麦を飲む。開け放した古いサッシ窓から、なまぬるい風が垂れ流れてくる。駅前の雑居ビル群のなかにうずもれた、築四十年のアパート。一階の角部屋からは、ヤキトリ屋やおでん屋、スナックやバーの入ったビル、脂っこいにおいが年中ただようラーメン屋、ほぼラブホテルと化しているビジネスホテル、といったものが窓越しに見える。一階だが地面の高さの違いからか、向こうからはおれたちの頭しか見えない。まあ見えても別にいいんだけど、とリタは笑う。
 青空は、蜘蛛の巣みたいに張り巡らされた電線ごしにしか見えない。
 七月はじめの土曜午前十時。朝からみんみん蝉の鳴き声が殺気だっている。ひとのざわめき、運送屋のトラックが荷おろしする音、けたたましいクラクション。
 そんななかに不意に、救急車のサイレンが響き、通りすぎていく。最近毎日のように走っていく。ニュースでも言っていたが、熱中症で運ばれる患者が多いのだろう。
 なあ、エアコン買わねえか。さすがに暑いよ。おれらもいつか倒れちまう。おれは夕べ蚊にさされた鼻の先をかきながら言った。
いらないよ、そんなの。リタはごみでもはらうように手をひらつかせた。このままがいいよ。あたし、あんたとあたしの汗とおしっこのにおいがするこの部屋が好きなんだから。
 リタはばさついた髪をかきあげた。そこには赤い痣が血のように浮かんでいた。右の乳房をぼりぼりかいた。蚊はおれの鼻の後、そこから血を吸ったようだ。

 一年前の真夏の夜。このアパートからすぐのところにある行きつけのスナックで飲んだ。ひそかに好意を寄せているゆきちゃんはその夜も人気でろくに話せなかった。
 不完全燃焼のまま、夜の駅前を車いすでふらふらしていると、歩道のガードレールに車いすを寄せている女に出会った。金麦片手に、きょろきょろと道行く酔客を眺めていた。女は髪を金色にそめていた。だがそれより目についたのは、額に浮かんだ血のような赤い痣だった。
 なんだ、こいつ。気味悪いから素通りしようとした時、ねえおにいさん、と声をかけられた。まわりを見たが誰も立ち止まっていない。
 なんすか。しかたなく応じると、ナンパって、どうしたらしてもらえるんだろうね、とうんざりした様子でため息をついた。今日ずっとここでこうしてるんだけど、誰もひまなの、とか、飲みにいかない、とか誘ってくんないんだよね。こっちは行く気まんまんだし、なんだったらその後だってオッケーなのにさ。
 ああ、なんか面倒くさそうだ。さっさと切り上げよう。そう思ったから、飾りも遠慮もなく返事を放り投げた。
 まあ、だろうな。車いすの女なんて誰もわざわざかまわねえよ。わかんだろ、なんとなく。
 答えながら、かまってもらえなかったゆきちゃんの姿が浮かんでいた。女はふうん、やっぱりそうか、と鼻を鳴らすと金麦を飲み干し、空き缶をしらんぷりして車いすのタイヤ脇に置いた。
 おにいさんもそうだってこと、か。かわいそうだね。
 いっしょにすんな。舌打ちすると女が車いすをすっと寄せてきた。そしていきなりおれの手を取ると、自分のジーンズの股間に触れさせた。なにを。目を見開いてはずそうとしたが、女は力をこめてそれを拒んだ。
 ふくらんでるの、わかる? 今ね、紙おむつにおしっこ漏れてるの。下半身死んだのよ、二年前。男のバイクのけつに乗ったら事故ってね。男は脚折っただけですんだのに、あたしはこんなになっちゃった。それからおしっこもうんちもわかんない。セックスもね。ね、かわいそうでしょ。
 かわいそう、か。おれは女の下半身から手をはずすと、鼻先にもっていった。
 あたし、くさい?
 女がたずねた。今までのけだるさから一転、なにかにすがるような眼差しに変わっていた。
 いや。おれはかぶりを振った。
 おれと、おんなじにおいがする。かわいそうだな、あんたもおれも。
 女の金髪が揺れた。瞳も揺れた。ふっと笑った。
 あんた、名前はなんてんだ?
 あたし? カッシアリタ。
 は、とおれが顔をしかめて首を突き出すと、女はまた笑った。
 カッシアリタ。まあ、リタでいいよ。 

 昼飯は夕べのうちに買ってきておいた、コンビニの冷やし中華にした。お互い全裸で車いすに乗りながら、ずるずると麺をすする。汗が少し引く。風は相変わらずぬるいが、肌に心地いい。
 そういや、あいつからラインきたんだよ。
 リタは冷やし中華をすすりながら言った。あいつというのは、リタの親友のことだ。もっとも、リタはもうそうは思ってないが。
 結婚するんだってよ、秋に。もしできるなら式に来てほしいって。
 リタはスマートフォンをいじると、ラインの画面をおれに突き出した。添付された画像にはあいつと結婚相手の男が笑いながら写っている。この男がバイク事故をおこし、リタをこのからだにした張本人だ。
 事故後、あいつは毎日のようにリタの見舞いに病院におとずれていたのだが、そこでやはり頻繁に見舞いにきていた男と知り合い、いつしかそういうことになったようだ。
 どういう神経してんだろうな。おれにはわからん。
 ねえ。ちなみにもう赤ちゃんお腹にいるんだって。笑わせてくれるよ。
 リタはそれだけを少しさびしげに言うとスマートフォンを放り投げ、冷やし中華の汁を残さず飲み干した。そして冷蔵庫から麦茶を出して、ふちの欠けたグラスに注ぎ、これも一気に飲み干した。やっぱ、冷や中と麦茶は最強だなあ。少しからだが冷えたのか、小さな乳首がわずかにひきしまった。
 昼飯の後、特にすることもないのでDVDを観る。「ジョゼと虎と魚たち」。もうなんど観たかわからない。
 ジョゼはかわいそうだね。リタは観るたびそう言う。どうして。最後はひとりでしっかりと生きていくんだぜ。だからなによ。リタはかぶりを振る。なんであんなに好きあってたのに別れるのさ。恒夫もばかだよ。あんなに泣くくらいなら、死ぬ気でそばにいればいいんだよ。ジョゼが歩けないくらいでなにさ。ジョゼも歩けないくらいでなにさ。ふたりだけで見られる景色を、もっと見られたはずなのに。セックスだってあんなにしてたじゃん。ふたりともばかだ。ほんとに、かわいそうだ。
 リタの手が、おれの動かない膝にそっとそえられた。

 夕暮れが近づいてきた。リタは車いすをおり、畳の上に大の字になった。きて。飲んでいたアイスコーヒーの缶を捨て、リタの隣に並んでねそべる。安普請の天井は木目が気味悪くゆがみ、まるで幽霊のようだ。
 リタが重なる。互いに触れあう。汗ばんだ肌がべたつきあう。リタの胸にふれると、心臓が動く気配がした。
 リタの手が、そばにあった車いすに軽くぶつかった。痛ったいな。邪魔くさげに手で押す。車いすが弧を描き、ふすまにぶつかる。
 あんたはあたしにとりついた背後霊だね。
 そう言うな。いらだつリタをなだめる。仲よくしてやろうや。こいつらにもおれたちのにおいがしみついてんだから。おれらがほっといたらひとりになるだろ。かわいそうだよ。
 リタはわずかに唇をひきしめ、じって見つめてから、車いすを愛撫するみたいに触れた。
 お願い、とリタがつぶやいた。おれはリタの動かない感じない下半身に顔を埋めた。求められるたび、応じるたび。そこになにがあるのかわからない。でも、おれはリタが望むならいくらでもこたえた。
 視線をあげる。リタの瞳から涙が流れていく。
 かわいそうだな。あんたもおれも。
 あの時の言葉がよみがえる。

 なあ。並んで寝そべりながらリタにささやく。なに。おまえ、今でも自分がかわいそうか。リタはかすかに唇を震わせてから、おれを強く抱き寄せた。
 あたしと、おなじにおいがする。
 みんみん蝉の声が遠くなり、かわりにひぐらしの鳴き声がまだなまぬるい風に乗って聞こえている。ひとのざわめき、トラックの荷おろし、けたたましいクラクション。窓の向こうでは電線の張り巡らされた夕焼け空が、雑然とした街をおおいはじめていた。










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