リョウとチヅルのはなし

 リョウはたぶん、ばかなのだと思う。

 この日、帰ってくるとすぐ、「いく」と、リョウから業務連絡みたいなラインがきた。は、と思った。いや、ちょっと待って、今日? 今から? 戸惑っているうち、十分後にリョウはわたしのアパートにやってきた。きったない作業着のままで。手にコンビニ袋を下げて。こいつはさんざんオフセット印刷の機械を一日中動かし、インクや油をばんばん浴びてくるのに、着がえもせずやって来るのだ。わたしはとりあえずの疑問を引っ込め、「ういっす」とやってきたリョウに眉をひそめる。

「だから会社で着替えてきてよ。ロッカーあるでしよ」

「めんどくさいよ」

 そう言ってリョウはどっかと椅子に腰を下ろす。がさがさとコンビニ袋を開ける。なかにはカルボナーラと焼肉弁当、それに肉まんふたつ。わたしはため息をつきながらも、身を沈めていた室内用車いすをテーブルにつける。ためらいなくカルボナーラに手を伸ばす。夕食はなにも用意していなかった。リョウからラインがきた時点で、する気もなくなった。こいつが買ってくるのがわかったから。

「あのさ」

「なに」

「今日、なんできたの。家にいなきゃだめでしょ」

 今日はユキちゃんの誕生日だ。リョウのひとり娘の。スマートフォンの待ち受けにもしている、かわいいひとり娘の。今年小学二年生。

「誕生日パーティとかあるんじゃないの」

「ああ、あるよ。友達とかそのお母さんとか呼んでやるみたい。折り紙で飾りつけとかしてたよ。はさみの使い方うまくなったんだよな」

「それなら、あんたも出ないと。なんでここにいるの」

「なんでって、金曜じゃん」

 けろりとリョウが言う。

 二年前に出会って以来、リョウは金曜夜から土曜朝にかけてこのアパートにきて、一晩をわたしと過ごすのが習慣になった。でもそれだけの理由で、理由にもならない理由で、この男は娘の誕生日を放り出し、十も年上の、下半身まひの障害もちの女のもとにやってきたのだ。

 やはりこいつは、ばかだ。

 コンビニ夕飯を食べると、わたしは流しで洗い物をはじめた。その間、リョウは洋服だんすの引き出しを開け、わさわさと着替えを出す。まず私のパジャマと下着。ついで自分のジャージとシャツとパンツ。勝手にユニクロで買ってきて、勝手にたんすにしまいこんだ。わたしの下着を入れていた引き出しに無理矢理。

 洗い物が終わると、私は車いすから降り、浴室に這っていった。脱衣場で服を脱いでいると、リョウが入ってくる。もう汚れた作業着もシャツもパンツも脱いでいる。手にはふたり分の着替えが入った、ダイソーで買ったプラスチックのかご。

 わたしが服を脱ぎおえると、リョウはしゃがみこんだ。そして裸のわたしをお姫様抱っこで抱えあげる。かぼそいからだのくせに、こいつはわりと力がある。今も重いそぶりひとつみせず、あくびなんかしている。筋肉がとうにそげおちた、枯れ枝みたいなわたしの脚が、ぶらぶらと揺れる。

 がらりとドアをあけると、リョウは風呂のじゃばらふたを器用につまさきで海苔巻きにすると、お湯のなかにいきなりわたしを入れた。

「ちょっと、先にシャワー浴びさせてよ」

「なんで」

「お湯、汚れちゃうでしょ。いいの」

「つうか、別にきたなくないよ」

 お湯のなかにある補助椅子に、わたしの尻が沈む。リョウはまたあくびしつつシャワーを浴びる。むわりと湯気が顔にまとわりつく。リョウが洗いおわると場所交代となる。せかせかとシャンプーし、からだを洗う。リョウはわたしの後のお湯につかりながら、あいみょんの「マリーゴールド」をうたう。相変わらずへたくそに。

 わたしは少し湯船に背を向けてからだに泡をたてる。

 風呂上がり、ふたりでビールを飲む。さきいかやら亀田柿の種やら、さけてるチーズをつまみに。ビールがおわるとわたしはペットボトルの安ワイン、リョウは先週買ってきてここに置きっぱなしにしていたいいちこを、聞いたこともないメーカーのレモンウォーターでわって飲む。会話はほとんどない。ひたすらだまって飲む。リョウはスマートフォンの麻雀ゲームに興じている。タモリ倶楽部がはじまる。オープニング、水着のおねえさんの尻が映る。このなかにひとり男のがまじってるんだと、いらぬ都市伝説をリョウからきいて以来、それらしきのをさがしているがわからない。

 タモリ倶楽部がおわる。わたしはまたお姫様抱っこでベッドに連れていかれる。リョウがジャージを脱ぐ。作業着を脱ぐみたいに。わたしも脱ぐ。朝の着替え時みたいに。用意ができると、ふたりで毛布をかぶる。

 しばらくすると、枕元にあったリョウのスマートフォンが鳴る。からだをはなし、リョウが手に取る。

「お、チヅルさん、みてよ」

 スマートフォンをみる。三角帽子をかぶったユキちゃんが、たくさんのプレゼントと友達に囲まれ、にこにこ笑顔を浮かべている。これを撮ったのは、当然リョウの奥さんだ。おないどしで、高校の時からの付き合いらしい。

「かわいいね」

「な」

 父親の顔でにやつく。毎週末の夜、家を留守にするわけをこいつは家族にどう説明しているのか、どうやって納得させているのか。この謎がいまだにわからない。確かなのは、リョウはわたしに説明したことはなく、わたしもきいたこともなければきく気もないという事実。リョウがスマートフォンの画面を落とす。父親の顔が水で流したみたいに消える。

 男が強く重なる。声も出さずに。この男が嫌いだ。十も年上の、障害もちの女になぜ会いにくる。なぜ触れる。愛する妻がいるのに。愛する娘がいるのに。

 わたしの息づかいが聞こえる。この女がほんとうに嫌いだ。なぜ家族のいるこの男の背に腕をまわす。なぜこんな男の温度なくしてはいられなくなった。なぜわかりもしないのに、感じもしていないのに声をあげる。障害もちのくせに。

 夜が沈む。リョウが沈む。わたしも沈む。

 ばかなのは、わたしだ。

                  了 

いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。