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掌編「カッシアリタ」 死の淵

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 今、あたしは男の首を締めつけている。
 裸の男に馬乗りになり、両手を首にかけている。指がぎりぎりと頸動脈に食い込む。男の喉からきしついた声が漏れている。苦し気だが、抗う様子は一切ない。両腕はだらりと床に伸びたまま。身じろぎしてあたしを振り落とそうともしない。
 どうして、あたしは。
 やはり裸のあたしの全身に冷たい汗が浮かんだ。このまま続けていたら、本当に男は死んでしまうかもしれないのに。
 いやだ。
 あたしは耐えきれず、首を締める手のちからを緩めた。もう、やめよう。言いかけたとき、床に落ちていた男の手が伸び、あたしの手首を握った。続けてくれ。男の唇がそう動いた。リタ。おれは死の淵までいかないと、おまえと。
 あたしは目をきつく閉じ、男の首をまた締めはじめた。指先で毛細血管がちぎれたような感触がした。それでもちからを込めた。閉じた瞳から涙とも汗ともいえないものがにじむ。もしかしたら血かもしれない。
 どうして、あたしたちは。
 蒸し暑い部屋の窓に開けたわずかなすき間から、人工的な脂のにおいがまざった風が入り、裸のあたしたちのからだをぬるくなでつけていった。

 ただいま。その日の夕方帰ってくるなり、男は車いすから転げ落ちるみたいに床にどさりと身を降ろした。もらってきた紙袋を捨てるみたいに置き、着ていた黒いスーツ、シャツを脱ぎ捨て、黒ネクタイをちぎるように首から抜き取って放る。Tシャツと下着姿のままで冷蔵庫を開け、なかにあった缶ビールを取り出すと、やけ気味にあおる。あたしはそんな様子を無言で見つめながら、スーツを集めハンガーにかけ、シャツを洗濯かごに入れた。床に倒れた紙袋を開くと、香典返しのお茶の箱と挨拶のはがきが入っていた。定型の文面のなかにまぎれた享年の数字に唇をかみしめる。二十七。あたしたちとおない年。
 男と養護学校以来の友人が死んだ、と男に連絡がきたのは、三日前のことだった。
 あまり親しい知り合いのない、というよりそういったものをみずから絶っているふしのある男だが、その友人とだけは、定期的にやり取りをしていた。下半身完全まひの車いす乗りという、まったくおなじ障がい持ちということもあってか、小学二年のとき会うとすぐ親しくなったらしい。学校を出てからも互いに気まぐれで電話をし、メールを交わしていた。あたしと暮らしていることも男は友人に打ち明けていた。それからほどなく友人からビアグラスが届けられた。仲良く酔っぱらえよ。添えられた手紙にはそんな言葉が書かれていた。あたしは男と時間を共にすることを許されたような、ふたりで堂々と太陽の下を歩いていいと言われたような、そんな心持ちになり、不意に涙ぐみそうになったのを覚えている。
 死んだときあいつ、どんな顔してたんだろうなあ。
 男は室内用車いすに背をあずけ言った。骨と皮だけの両脚が床に投げ出されている。飲んだビールが苦そうだった。
 あたしはなにも返せなかった。男の友人はみずから命を絶っていた。大量の睡眠薬を一気に飲み下したあと、ドアノブにくくりつけたロープに首をかけ、座っていた椅子から飛び降りたのだ。そんな凄惨な死を選んだひとの顔なんて、とても想像できない。
 男は冷蔵庫からビールをもう一本取り出し、あたしに手渡してきた。
 飲んでくれるか。あいつも地獄で飲んでるだろうから、いっしょに。
 あたしはうなずいた。プルタブを開け、ふた口。苦い。でももうひと口。男もおなじ苦味を噛みしめているのだから、あたしもそうしたい。でも。
 どうして友だちは、地獄にいるの?

 夜になり、風呂場でシャワーを浴びて部屋に戻った瞬間、あたしは思わず、え、と声を上げた。
 男が服も下着も、失禁防止用のおむつも脱ぎ捨て、床に大の字になっていた。その目はうつろに開かれ、ぼんやり天井を見つめている。
 どうしたの。
 昔、あいつとよく話してたことがあってな、それ思い出してた。
 なにを。
 おれたち、セックスってできるんだろうかって。
 あたしはきゅっと喉がしめつけられ、声が出なかった。緑色の前髪からシャワーの水滴が床にぽつりと落ちた。
 あいつ、昔から給料や障害年金入るたびデリヘル頼んでたんだ。おれ、言ったんだよ。いくらそんなことしたって、おれたちには無理だ、むなしいだけだって。でもやめらんなくてな。借金まで作っちまって、家族にだいぶ迷惑かけたらしい。葬式でも、両親も姉貴も誰ひとり泣いてなかったよ。
 男のそばにそっと這い寄る。天井を見つめる瞳はわずかに潤んでいた。いたたまれなさが胸に満ち、男の手を取る。血の気のうすい甲を頬に寄せる。いつものぬくもりがなく、両手であたためるようにくるんだ。なぜか額の痣がずきずき痛みはじめた。
 なあ、リタ。
 男の顔があたしに向いた。なにかをたずねたそうな視線。いやな予感がして、あたしは目をふせる。
 セックスって、どんな感じなんだ?
 やめて。あたしは胸の内で声を上げる。
 男のあそこがなかに挿れられるのは、どんな感触だった?
 やめて。声が悲鳴になる。だが男の唇は壊れたみたいに動き続ける。
 おまえは知ってるんだろ? さぞかし気持ちいいんだろうな。話してくれないか、あいつに。地獄で聞いてるはずだから。頼むよ、どんな。
 話の途中で、あたしは男の頬を打った。部屋中に音が響いた。唇を噛みしめながら手の平を見つめる。額の痣の痛みがじりじりと全身に広かっていく。
 気持ちよくなんか、なかったよ。
 あたしは老婆みたいなしわがれた声をしぼり出した。
 何人とも抱き合ったよ。さんざんもてあそばれたしもてあそんだし、ばかみたいにくわえもしたし、痛いくらい奥まで受け入れた。そんな夜、数えきれないほどあったよ。
 男の姿が、遠くなっていく。
 むなしいばっかりだったよ。なんでかわかる? 愛がなかったからだよ。
 男の頬が、じわりと赤くなっていた。痣の痛みも、また。
 あたしも相手も、いとおしさもなにもないまま、ただ汚し合ってた。ものすごくむなしかった。誰かに抱かれるごとにからっぽになるのがわかったよ。最後はどんなことされても、抵抗もしなかった。もうなにもかもがどうでもよかったの。
 息がかすれる。すっと頬を涙が流れた。できたら明かさないままでいたかった。男があたしの過去をうすうす察しているとは思っていた。いつかしっかり話さないと、とも。でも、こんなかたちで話すことになるなんて。
 リタ。
 男が、あたしの名を呼んだ。あたしが自分でつけた名。前の名を道端に捨ててからつけた名。
 ごめん。
 頬に男の指先が触れた。あたしの体温がにじんだからか、ほんのりあたたかい。
 あいつも、あいつだけのリタに会えてたら、死ぬことなんてなかったのにな。
 不意に男の腕が伸びてきて、あたしは男の胸に抱きすくめられた。あたしも男の背中に手をまわす。
 リタ、好きだ。
 はじめて言われた。あたしも、好き。声は声にならなかったが、男には届いていた。あたしは気づくと服や下着や紙おむつをはぎとり、男ときつく重なっていた。

 夜が深くなり、互いの体温や呼吸がまざりあい、部屋に満ちた。そんな薄暗がりのなか、あたしは男の首を絞めていた。
 なあリタ、こんな話知ってるか。
 息を荒らしながら、男が話しはじめた。
 あいつが昔言ってたんだけど、死刑囚の男が刑を受けた後の死体を調べると、性器がぎりぎりに固く大きくなってるらしいんだ。それだけじゃないぞ、履いてた下着もずたずたに濡れてるんだ。小便じゃなくて、あれでだぞ。
 あたしは男の胸から顔を上げた。なにが言いたいの。
 それがずっと頭にあるんだ。それって、人間が死の淵に立ち会ったとき、最期に望むのは性だってことだろ。ならおれたちみたいな奴も、そこまで達したら、もしかしたら。
 また、いやな予感がした。額の痣が痛みだす。
 頼む、リタ。
 いや。
 お願いだ。
 いやだって。
 こないだラブホに行ったとき、おまえ、泣きながらおれに奇跡を起こそうとしてくれたよな。おれとひとつになろうと必死でさ。
 言葉がつまる。顔をふせた。少しの沈黙のあと、男に両手首をつかまれた。導かれた先は、男の首すじだった。
 男は、泣いていた。子どもみたいにぐずり、涙や鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして。
 頼む、リタ。おれは、おまえと。
 あたしは男に馬乗りになった。男の首にあてがわれた両手がぶるぶる震える。男は泣いている。頼む。かすれ声。
 あたしは、手にちからを込めた。
 顔を汗と涙と血が流れた。男のきしついた声が口から漏れ、床に落ちる。ちからが抜ける。そのたび男は首を振る。そっと顔を後ろに向ける。
 男は、静かなままだった。
 ああ。喉の奥で叫んだ。神様、あたしたちは死の淵まで堕ちてもひとつになれないのですか。こんなに苦しんでも、もがいても、泣き叫んでも、たった一度だけのつながりさえ叶えてはくれないのですか。
 そのとき、なにか聞こえた。幻聴のような、男の声だった。
 神様。
 あたしは、手を離した。
 男が激しく咳き込む。あたしは男にすがりついた。
 もう、やめよう。
 神様は、いない。そんなの、どこにもいない。
 ここにいるのは、あんたとあたしだけ。
 あたしは、それだけでいい、それがいい。
 だから、もう。
 男の頬を涙がひとすじ流れた。
 リタ。リタ。
 繰り返しあたしの名を呼ぶ。なにかにすがるみたいに。
 男はあたしを内臓がつぶれるほど抱きしめた。あたしも男を骨が砕けるほど抱きしめた。
 あたしたちは泣きながら、脂のにおいがする風が流れ込む部屋のなか、いつまでも抱き合った。
 男の唇が、あたしの額の痣に触れた。
 

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