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小説「あなたがここにいてほしい」

 これ、乗ってみてもいいすか?
 それがはじめて、あなたがわたしにかけてきた言葉でした。
 わたしはその時、車いすから背もたれを倒した椅子に移り、うとうととまどろんでいました。職場の昼休み、軽い昼食をすませると、そうしてからだを休めるのが常でした。別に車いすのまま机に突っ伏してもいいのですが、一日のどこかで、五歳の頃から二十年以上乗り続けているタイヤと肘掛け付きの乗り物から解放されたい時間が欲しかったのです。
 瞼を開けると、あなたは空の車いすのそばに膝をつき、興味深げに眺めていました。あなたは職場の営業部でわたしの二年後輩。仕事柄日中はほぼ外回りでした。だからおなじ職場とはいっても、中でデザインの作業をしているわたしとはあまり会うことはありません。この時はたまたま区切りがついて戻れたようでした。
 別に、いいけど。
 突然のことに面食らいつつも、わたしは応じました。
 そうすか、じゃ、おじゃまします。
 あなたは立ち上がると、ネクタイを背中にひょいとまわし、お尻を車いすのシートに向けました。入んないんじゃないの。わたしがあくびまじりに言うと、あなたは、いや絶対乗れますよ、と、やけに自信に満ちた顔つきでつぶやきました。
 その言葉通り、あなたのからだはぴったりわたしの車いすにおさまりました。わたしはつい椅子から身をおこしました。わたしのからだに合わせて作った車いすのはずなのに。なんだか不思議なものを見る思いでした。
 乗れましたよ。
 あなたはリムに手を添えながら、顔をくしゃくしゃにして笑いました。そして車いすを前、後、右、左、と、おぼつかない動きで動かしはじめました。
 なんだか赤ちゃんのよちよち歩きみたいっすね。
 あなたはそう言って、また顔をくしゃくしゃにして笑いました。それを見たら、わたしもつい微笑んでしまいました。あなたはそうしてひとのやわらかくあたたかいところに、すうっとなじむのが得意なひとだったな、と今になっても思います。
 その日を境に、あなたは外回りから帰ってこれた時、みんな外にご飯を食べに行って誰もいない編集室にやってきては、わたしの車いすに乗るようになりました。そこであなたが食べるお昼は決まって、コンビニのしゃけとおかかのおにぎりでした。それで足りるの、とたずねると、米にかなうエネルギーはありませんから、と笑いました。わたしもあなたのよちよち歩きがするそばで、お昼を食べたり、まどろんだりするのが習慣になりました。

 はじめてふたりきりで飲みに出かけたのは、それからほどなくでした。
 あなたがあまりお酒に強くないことをそこで知りました。なにせビール二杯でふらふらになり、船をこぎはじめたのですから。自分で誘っておいてなによ。メニュー表で頭をはたいたら、寝てないっすよ、やけに真剣にばればれのうそをついたので、思わず笑ってしまいました。あなたはわたしからメニュー表を取ると、もっと頼みましょうよ、と言いました。大丈夫なの、とたずねると、おれは食う方に専念しますから、と塩やきそばを注文しました。わたしのレモンハイもいっしょに。
 やきそばがくると、あなたは勢いよくやきそばをすすりはじめました。腹減ってたからいつもより酔ったんだな、と言い訳みたいに言うのがなんだかおかしくて、わたしはレモンハイをちびちび飲みながら、その高校生みたいな食べっぷりを笑みながら見つめていました。
 あなたが満腹になったのを機に、わたしたちは店を出ました。あなたは楽しかったっすねえ、なんて言いながら歩いてましたが、やっぱりなんとなく危なっかしい足取りでした。見かねたわたしはここにつかまって、と車いすの背もたれグリップを後ろ手に叩きました。大丈夫っすよ、なんて言ったそばからガードレールにぶつかりました。あなたはやっぱりお借りします、と照れくさそうに笑いながらグリップをつかみました。
 あ、すごい楽っす。
 あなたは本気で驚いたようでした。
 一回五百円だからね。
 ええ、もう少し安くなりませんか、おかみさん。
 だめ、それじゃうちも商売あがったりだから。
 そんなばかばかしいやり取りをして笑い合っていると、あなたの腕がわたしの肩にほんのわずか触れました。
 やがて、駅前のバス停あたりまで着きました。ここから最終のバスに乗ると、あなたは帰れるはずでした。
 ですが、あなたはそのバス停を通り過ぎ、歩き続けました。
 あれ、バス、乗るんじゃないの。
 なに言ってんすか、家まで送りますよ。
 わたしは大丈夫だよ。タクシーで帰るから。
 送らせて、もらえないですか。
 あなたは言いました。もう酔いの醒めた声で。
 春の入口の夜風が、ふっと吹いていきました。

 地元で花城公園と呼ばれる、昔の城跡に作られた公園で、わたしたちは花見をしました。
 石垣や堀端、遊歩道で散り始めた桜並木の下を、わたしたちはゆっくりと歩きました。いつもは明るくおしゃべりなあなたでしたが、この時はあまり話さず、桜に見入っていました。それでもあなたは、わたしの車いすに合わせて歩くのを忘れていませんでした。
 公園の奥、ひとの流れも桜の木も少なくなったあたりに着くと、あなたはつぶやきました。
 がきの頃、母親とここで花見をするのが恒例だったんです。入口の屋台でたこ焼きとかアイスとか買って、それを食べながら花を見てました。この桜の木の下っす。
 あなたは一本の桜の木を指差し、その根元の芝生に腰かけました。並木から仲間外れにされたみたいに、ぽつりと生えている桜でした。高さも枝ぶりもなんだか弱々しいけど、それでも懸命を尽くして花を咲かせていました。
 じゃあ、今年もまたいっしょに見に来るんだね。
 なにげなくわたしが言うと、あなたはわずかに首を振りました。
 いや、もう母と来ることはないっす。中学の時、死んだんで。
 わたしはうつむき、言いました。
 ごめんなさい。
 あ、いや、おれこそすんません。変なこと言っちゃいましたね。
 お母さんはどうして、とたずねかけ、慌てて言葉を飲み込みました。根元の芝生に座って桜を見上げるあなたの顔は、とてもおだやかでした。
 いっしょに、見てくれませんか。
 あなたが言うと、わたしはうなずきました。あなたは立ち上がり、桜の根元までわたしの車いすを押してくれました。甘いにおいが、鼻をかすめました。
 ねえ。
 はい。
 この木のそばに、もっと寄ってもいい?
 わたしが言うと、あなたは、はい、とうなずきました。そしてわたしが車いすから降りて、桜の根元に座るのを手伝ってくれました。
 わたしたちは、桜の根元に寝そべりました。わたしたちを包みこむみたいに、ふわりふわりと花びらが舞い降りてきました。ふと横を向くと、あなたと目が合いました。いつもの、顔をくしゃくしゃにした笑い顔。わたしもそれに負けないような笑顔を返しました。

 その年の夏は、特に暑い夏になりました。夏休みどこに行こうか、なんて相談をしていた矢先に、わたしは体調を崩して入院してしまいました。やや重い脱水症状になってしまったのです。以前もこうして短い入院をしたことは何度かありました。
 夏休み、あなたは毎日、面会時間いっぱいを使ってお見舞いに来てくれました。急な仕事が入って遅くなっても面会時間ぎりぎりに走り込んできて、いやあ暑いっすねえ、なんて言いながら、冷蔵庫で冷やしていたミネラルウォーターを飲んだりしていました。冷蔵庫にはさまざまな飲み物や、内緒で食べてください、とこっそり奥に隠してあるプリンで溢れていました。すべてあなたが買ってきてくれたものでした。
 その日も面会時間と同時にあなたは、おはようございます、とベッドを囲っていたカーテンを開けました。
 具合、どうすか。
 うん、だいぶよくなってきた。点滴も一日一回になったしね。
 よかった、と、あなたはベッドのそばにぶら下がる生理食塩水の点滴を見上げました。
 今日も暑いの。
 暑いっすよお。もう頭焼けそうです。
 あなたはいたずらっぽく、ほら焦げてるでしょ、なんて自分の髪の毛をひっぱりました。少し鼻の頭が日に焼けていました。
 せっかくの休みなんだから、友達とどっかに遊びに行ったらいいのに。
 毎日たずねてくるあなたに、わたしは毎日口にする言葉をこの日も言いました。
 せっかくの休みだから来るんですよ。仕事場じゃ、昼休みしかいっしょにいられないじゃないすか。
 あなたはいつものように買ってきたお茶を、わたしに手渡してくれました。冷たいお茶を飲みながら、わたしは窓の外に目をやりました。本当ならふたりで波の音を聞きながら、海のにおいのする風を浴びていたのかな。そんなことをふと思いました。
 こんなからだだけど、わたしは海が好きでした。幼稚園の時、両親に連れられてはじめて海水浴に行きました。両親と並んで踏みしめた足を、波が撫でていきました。父からは海に入ろう、と誘われましたが、ちょっと怖くて海に浸かることはありませんでした。でも足が波に触れたあの感触を、今はもう決して感じることのできないあの感触を、ずっと忘れられずにいました。たぶん一生、忘れることはないでしょう。海の塩辛さを知らないままで終わってしまった後悔も。
 そんなことをぽろりとこぼすと、あなたは言いました。
 じゃあ、今度いっしょに海に入りましょう。
 ええ。
 おれと海に浸かりましょう。おれもいっしょに砂浜、這っていきますから。おなじ浮き輪に入って、ぷかぷか浮きましょうよ。そうしたら海の味、わかりますから。
 いっしょに這っていくの。わたしはいいけど、あなたが恥ずかしいでしょ、そんなの。
 なにも恥ずかしくなんかないすよ。楽しいじゃないすか、ふたりして海亀になりましょうよ。
 思いがけず真剣な表情で言うあなたがそばにいました。ふたりで海亀、か。産まれたての海亀の赤ちゃんが砂をかきながら海へと旅立つ場面を想像しました。そのなかに、わたしたちもいられたら。
 楽しいね。
 楽しいっすよね。
 その日も、夕暮れまであなたはわたしのそばにいてくれました。

 とっておきの場所があるんです。そう言ってあなたが車で連れていってくれたのは、隣県にある小高い山でした。頂上までのつづら折りの山道を登っていった先で車を降りると、わたしは思わず目を見開きました。まわりの山々の紅葉と緑のグラデーションが、世界のすべてみたいな光景が広がっていました。ゆっくり見渡して顔を上げると、小さく赤い紅葉の葉が、車いすの膝に落ちてきました。
 きれい、ね。
 でしょ。こんなにきれいだけど意外と知られてないんです、ここ。まあ、なにもないからですけどね。
 確かにあまり広くない頂上の広場には、小さなあずまやがあるだけ。そこにも初老の夫婦が一組、ボトルのお茶を飲んでいるだけでした。
 ベンチの上をテーブルがわりにして、弁当を食べました。途中で買っていけばいいですよ、というあなたを押し切り、朝早くから作ってきたものでした。卵焼き。唐揚げ。ボイルウインナー。ブロッコリーとトマトのサラダ。そして大きめに握ったおにぎり。あなたがいつも食べる、しゃけとおかかをたっぷりと包みこみました。
 ごねんね、えらそうに言っといて、こんなのしかできなくて。
 いやいや、最高っすよ。すげえうまそう。いただきます。
 あなたは律儀に手を合わせてから、おにぎりに手を伸ばし、かぶりつきました。
 あ、おかかだ。うまいっす。
 あなたは頬をりすみたいにふくらませました。わたしはつい笑ってしまいました。ちゃんと両手で持って食べているのがなんだかおかしくて。うまいっす、と言ってくれた言葉が胸いっぱいに満ちて。
 紅葉と食事を充分堪能した後、地元の風景を生涯描き続けたという画家の作品を集めた小さな美術館に寄りました。故郷への愛情が一筆一筆に感じられる絵のなかに、今わたしたちが見てきた紅葉を描いた絵もありました。実際の風景にやや霞がかかったみたいなその絵は、どこか夢のような、まぼろしのような。
 あまりこの絵は見ていたくない。
 わたしは自分でもわからないそんな感覚にとらわれ、その絵から車いすを遠ざけました。あなたの視線が背中にあたるのを感じながら。
 夕方近く、あなたが予約してくれていた旅館にチェックインしました。その部屋には、わたしでも入れる内風呂がありました。
 ありがとうね。
 わたしがお礼を言うと、あなたは、なにがですか、と本当にわからないといった感じで首をかしげました。
 ありがたくその内風呂であたたまった後、旅館内のお食事処で夕食を食べ、旅館のひとにすすめられた地元のお酒を分け合って飲みました。うまいっすね、これ、とあなたはもう一本追加で頼みました。大丈夫なの。大丈夫っすよ。でもやっぱりあなたはあっさり酔い、その後冷やかしたおみやげコーナーでは、わたしの車いすを杖がわりにして歩いていました。
 部屋に戻り、掛布団の上に寝そべって、酔い醒ましの冷たいお茶を飲むあなたとテレビを眺めているうち、夜は更けていきました。
 そろそろ、寝ようか。
 そうっすね、
 あなたが部屋の灯りを落として常夜灯だけをつけると、わたしたちは布団に入りました。どこかでそうなるだろうと思っていたように、なかなか寝つけませんでした。一方、あなたは酔いが醒めきれなかったのか、すぐ寝息をたてはじめました。
 どれくらい時間がたったでしょうか。隣から聞こえていた寝息が、いつの間にか聞こえなくなっていました。わたしがあなたの方に寝返りを打つと、あなたはわたしの方に寝返りを打っていました。
 そばにいても、いいですか。
 あなたは、聞き取れないくらいの声でささやきました。わたしはあなたの目を見つめて、小さくうなずきました。
 わたしの布団に入ってきたあなたは、わたしの着ていた浴衣をやはりそっと脱がしていきました。下着の下にあてがっている、失禁防止用の紙おむつも。もうその頃、わたしはからだのことを大方打ち明けていました。五歳の頃、脊髄を手術した後遺症で下半身に動作や感覚はまったくないこと。歩くこと、立つこと、指を動かすことすらできないこと。排泄もわからないから、紙おむつをしていること。時々は漏れてしまうこともあること。
 あなたは、そっとわたしに重なってきました。
 肌の上をゆっくりなぞっていくあなたの指や舌を感じながら、わたしは自分の震える吐息を聞いていました。あなたの背中に腕をまわすと、火を飲み込んだみたいに熱くなっていました。やがてあなたの指はわたしの背中に残る手術痕に触れました。慌てたように指を離したあなたに、大丈夫、もう痛くないから、とささやきました。でも、あなたはそれ以上触れようとはしませんでした。
 あなたが、わたしのなかに沈んでいくのがわかりました。わたし自身の感覚ではなく、あなたの息で。あなたが漏らした息は、やはり火のように熱いものでした。でも。
 ああ、やっぱり。
 わたしはあなたにわからないように、ひとり下唇を噛みました。背中にまわした両腕にちからを込めました。
 お願い。お願い、します。
 わたしは瞼を閉じ、胸の内で願い続けました。誰になにをお願いをしているのだろう。なにを祈っているんだろう。でも、ただそれだけを、願わずにはいられませんでした。
 不意に、頬に冷たいものを感じました。閉じていた瞼を開きました。
 あなたは、泣いていました。
 わたしのなかに沈みながら、わたしに重なりながら、泣いていました。涙がしとしとと、頬や額に落ちてきました。
 わたしの目頭が熱くなってきました。
 あなたと共に泣きました。頬を流れ落ちる涙が、あなたから降ってくる涙が、わたしの顔を濡らしていきました。
 泣きながら、きつくわたしを抱きしめながら、あなたは震える声で言いました。
 おれと、いっしょに、いてください。
 子どもが母親になにかをねだるような声。幼き日のあなたは桜の咲き誇るあの公園で、こんな声でたこ焼きやジュースをねだったのだろうか。そんなことを思いました。
 はい。
 わたしは、涙と汗で濡れたあなたの頬を包みこみました。
 わたしと、いっしょに、いてください。
 それからも、わたしたちは抱き合い続けました。溢れる涙を拭わぬまま、ただひたすらに肌を合わせました。再び閉じたわたしの瞼の裏に浮かんだのは、日中見たあざやかな紅葉でした。でも実際のものではありません。その後寄った美術館にあった、霞がかかったような絵の方の紅葉でした。
 夢のような、まぼろしのようなその絵の紅葉を浮かべながら、わたしは泣きながらあなたにすがっていました。

 雪がちらつきはじめた頃、新しくアパートを借り、そこで共に暮らしはじめました。
 あなたの父親は歓迎してくれましたが、わたしの両親が思いがけず反対したので、わたしは家出したようなかたちになりました。許しを得たら出そう、というあなたの申し出に従い、婚姻届は大切にしまっておくことにしました。
 共働きなので、家事はできるだけいっしょに行いました。食事、掃除、洗濯。週末、スーパーへ一週間分の買い物をした後、たまたま見つけた古い喫茶店でナポリタンと珈琲を味わい、夜はDVDを観ながら少しお酒を飲むのがささやかな楽しみになりました。
 わたしたちなりに、つつましいながらも暮らしを作っていたと思います。
 わたしが流しで洗い物をしている間、あなたは洗濯物をたたんでたんすにしまいました。きれいにたたんだね、と誉めると、相変わらずあのくしゃくしゃの笑顔をあなたは浮かべました。
 夏にまたわたしが入院した時も、あなたは最初の頃とかわらず、一日付き添ってくれました。無理しなくていいよ、と言うと、おれがさびしいんすよ、と泣きそうな声で返して、プリンを食べていました。
 日曜の昼下がり、あなたが集めていたCDを共に聴くことがありました。
 そのなかにPInk Floydというバンドの「Wish you were here」という曲がありました。日本語タイトルは「あなたがここにいてほしい」。悲し気に弾かれるギターからはじまる曲でした。

 あなたがここにいてくれたらと
 思わずにはいられない

 あなたがここにいてくれたらよかったのに

 その曲を聴いてから、肌を合わせる夜になると、脳の奥でその曲が流れるようになりました。
 そして、やはりわたしたちは泣くのです。はじめて抱きしめ合ったあの夜と、まったく変わることなく。あなたは涙をしとしとと降らせ、わたしはそれを顔に受けながら、みずからも涙で頬を濡らしながら、あなたを抱きしめました。
 お願い、お願いします。
 あなたがここにいてほしい。
 わたしの願いは、祈りは、きっと誰にも、どこにも届いていない。
 それでも、わたしは、そう願わずにはいられなかったのです。

 あなたとの暮らしは四年半で、終わりを迎えました。
 これといった理由なんて、ありませんでした。ずっと仲はよかったとも思います。でも少しずつ、互いの笑顔と声が部屋からは消えていきました。まるであの日見た、霞のかかった紅葉の絵のように。どんなにきれいでまぶしい紅葉もいつかは枯れ落ち、寒そうな枝だけになるように。
 わたしたちが肌を合わせる時に溢れる涙も、最後の最後まで止めることはできませんでした。
 いろいろと話し合った末、部屋にはわたしが暮らし続けることになり、あなたは別の会社へと転職もしました。あなたの荷物が片付いた部屋は、わたしひとりではもったいないくらいに広くなりました。
 ごめんなさい。
 あなたがこの部屋を去る時、残した言葉は、ただそのひと言でした。
 ごめんなさい。
 車いすの肘掛けをつかみながら、わたしはおなじ言葉をあなたの背中に繰り返しました。でも、それが届いていたかどうか、今でもわからないままです。
 あなたが去った後ほどなく、桜が満開になりました。
 わたしはひとり、花城公園に行きました。あなたが教えてくれた桜の木は、この年もひっそりと花を咲かせていました。あたりには誰もいませんでした。もちろん、あなたも。
 わたしは車いすから降り、根元に寝そべりました。花と草のにおいを、思い切りからだに吸い込みました。するとあの時とおなじように、花びらが舞い降りてきました。あなたの流し続けた涙みたいで、喉の奥が痛くなりました。
 これからも、いっしょにいてくれますか。
 わたしのすべてを今包んでくれている桜に、わたしはお願いをしました。花びらが一枚、ゆらゆらわたしの頬に落ちてきました。陽のひかりを浴びたその花びらは、ほんのり頬をあたためてくれました。

    了


  


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