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小説「わたしのともだち」6(全6話)

 体育館が騒がしくなっているのに気づき、由紀は顔を上げた。
 いつの間にか友香里の他に女の子たちが五人、集まってきていた。由紀とおなじように車いすに乗っている女の子もいた。ベリーショートの髪型がよく似合っている。背もたれは赤いチェック柄で、両側のサイドガードにはコカ・コーラやペプシ、ルート66、ニューヨーク・ヤンキース、ロサンゼルス・レイカーズなどのステッカーがたくさん貼られていた。
 友香里たちは三人ずつに分かれ、ミニゲームをはじめた。友香里とおなじく、パスもシュートもいまいちな子が多かった。
「こっちこっちー」
「パス、パス」
「なにやってんだよお」
「ナイシュー」
「へったくそー」
 ボールが弾む音と共に様々なはしゃぎ声が体育館に響き渡る。いつも一緒にいるグループなのだろう、仲の良さが伝わってくる。
「友香里ちゃん、なかなかうまくなんないなあ。バスケ、あんなに好きなのにな」
 千鶴は前がぎりぎり見える程度に頭を上げ、ゲームの様子を見ていた。
 確かに皆の中でも、友香里はひときわ下手くそだった。パスは全然通らないし、ドリブルは毬つきに毛の生えたような感じだし、あれだけ練習していたのにシュートもちっとも入らない。
「友香里ちゃん、もしかしたらスポーツ万能になってたのかな」
 ゲームを眺めながら、千鶴はひとり言のようにつぶやいた。
「学校の成績がすごくよくて、大学に進学してたかな。彼氏とかできて、映画観たり、遊園地行ったり、美味しいもの食べに行ったりしてたかな。それとももう結婚して、お母さんになってたかな。普通の幸せ、つかんでたのかな……」
 ぽつりぽつりとこぼれる千鶴の言葉。由紀はなにも言えなかった。
 少しの間の後、由紀は小声でたずねた。
「本当にお別れ、言わなくていいの」
 千鶴はわずかなためらいの後、うなずいた。ここに来る前千鶴は、今日はいつも通り会い、話し、遊んで、いつも通り帰るつもり、と語っていた。
 車いすの女の子が、友香里にパスした。かなり緩めのチェストパスだった。彼女がメンバーの中で一番運動神経がいいのは、さっきから見ていて気がついていた。車いすを素早く切り返しながらのドリブルも上手だし、シュートもほとんど決めている。車いすバスケのチームに入ってもやっていけそうだ。
 しかし友香里はその緩いパスも受け止めきれずに手から弾き、後ろにそらしてしまった。
「ちゃんと取ってよー」
「ごめーん」
 転がっていくボールを、友香里は狭い歩幅でぱたぱたと追いかけていった。由紀はそんな友香里を見つめ続けた。胸に揺れるピンクのお守りも。
「あのお守りって……」
「うん」
「もしかして、千鶴ちゃんがあげた?」
 千鶴は小さくうなずいた。
「毎年初詣の時にもらってきて、あげてるの」
「大事にしてるんだね。ネックレスにしてはちょっと変だけど」
「わたしもバッグとかにつけた方が可愛いよって言うんだけど、これでいいんだって」
「そっか」
 友香里が転がったボールを拾い、ちょこちょこした走り方でコートに戻ってきた。そしてボールを車いすの女の子にパスした。今度はうまくパスが通った。
「お、ナイスパス。……ねえ、千鶴ちゃん」
 由紀は車いすの女の子の見事なドリブルを眺めた後、千鶴に振り返り、声を低くして言った。
「友香里ちゃんがハンディ負ったの、千鶴ちゃんのせいかなんて、わたしには全然わかんない。医者でもなんでもないし。友香里ちゃんが幸せなのか、そうでないかも、わかんない。ごめん」
 千鶴がかすかにかぶりを振った。
 歓声が聞こえた。コートでは車いすの女の子が見事なシュートを決め、友香里たちとハイタッチを交わしていた。由紀はコートから千鶴に視線を戻した。千鶴の肩がかすかに揺れていた。瞳も床に落ちていた。ちくりと胸が痛んだ。
「ひとつ、訊いてもいい?」
「うん」
「千鶴ちゃん、なんでずっと友香里ちゃんに会いに来てるの」
「なんでって……」
「懺悔とか罪滅ぼしとか、そういう感じ?」
 千鶴は床から顔を上げ、今度は髪が乱れるほど強くかぶりを振った。
「だよね」
 由紀は笑顔を千鶴に向けた。
 コートから、ボールの弾む音がやんだ。バスケのミニゲームが終わったようだ。皆、疲れた様子だった。友香里が「喉かわいたー」と言いながらこちらにやってきて、残っていたペットボトルのお茶を一気に飲み干してしまった。千鶴はそんな彼女の様子を黙ったまま見つめていた。他の皆も、喉かわいたね、なんか買ってこようか、でもあたし今お金持ってないよ、などと話し合っている。
 よし、と由紀は車いすのポケットから財布を出すと、中から五百円玉を二枚取り出し、車いすの女の子に差し出した。
「皆で好きなの買ってきていいよ。足りなかったら言ってね」
「え、でも……」
 車いすの女の子は戸惑った表情を浮かべたが、由紀は「いいからいいから」と、彼女の手の平に小銭を乗せた。すると「ありがとうございます」と、女の子は由紀の方が恐縮するくらいに深々とお辞儀をし、他の子を引き連れて体育館を出て行った。そんな友人たちを見て、友香里はちょっと物足りなさそうに空になったボトルをもてあそんだ。
「飲み足りないよね。買ってきていいよ」
「えー、いいのー。ありがとー」
 友香里は友人たちの後を追っていった。千鶴がその背中を見送っていた。その瞳が潤みかけているのに、由紀は気づいた。
「あのね、千鶴ちゃん」
 由紀はコートの真ん中に転がっているバスケのボールを見つめながら、静かに話しはじめた。
「さっきちょっと話したでしょ、ここでいつも一緒だったって車いすの男の子のこと」
 千鶴は思い出したようにうなずいた。
「わたし、ほんとはね、好きだったの。彼のこと」
「そうなの?」
「うん、片思いだったけどね。告白とかするつもりもなかったし」
「どうして? 山登りとか誘ってくれてたんでしょ? 向こうももしかしたら……」
「彼ね、いつも言ってたの。おれ、健常者の女のひとと恋人同士になりたいんだ。そういうひとと付き合って幸せになる。絶対に見つけるんだ、そういう普通のひと、って」
 潤みかけていた千鶴の瞳が見開かれ、自分の横顔を見つめたのを、由紀は視界の隅で感じた。
「普通って、幸せって、なんだろうね」
 由紀はボールを見つめながらつぶやいた。彼はバスケットボールが得意だったことも思い出していた。友香里が苦手なスリーポイントシュートも次々と決めていたことを。そのたびに「ナイシュー」と声をかけていた自分のことも。
「千鶴ちゃん」
「なに?」
「友香里ちゃんが戻ってきたら、彼女にちょっとお願いごとするけど、いい?」
「お願いごと?」
「うん」
「もちろんいいけど、お願いごとって……」
 千鶴が訊きかけた時、友香里たちが賑やかにしゃべりながら体育館に戻ってきた。皆、それぞれが好きな飲み物を手にしていた。もうすでにコーラを豪快に喉に流し込んでいる子もいた。
「ありがとうございました」
 車いすの女の子は、また例の丁寧なお辞儀の後、両手でお釣りを由紀に手渡した。
「どういたしまして」
 由紀も彼女に倣ってお辞儀し、お釣りを受け取った後「ねえ、友香里ちゃん」と、最初とおなじお茶を飲んでいる友香里に声をかけた。
「友香里ちゃん、お願いがあるんだけど」
「お願い? なあに?」
「わたし、友香里ちゃんとともだちになってもいいかな?」
 由紀と友香里の様子を見ていた千鶴が、息を飲む気配がした。
「今日だけじゃなくて、また会いに来たいんだ。友香里ちゃんだけじゃなくて、皆ともともだちになりたいの。皆のバスケ見てたら、わたしもすごくやりたくなってさ。だから、わたしも皆のともだちに混ぜてくんないかなあ」
 由紀は額のあたりで両手を合わせ、お願い、といった感じで友香里たちに頼んだ。皆はどうしよう、といった感じで顔を見合わせていたが、友香里はやがて笑顔を由紀に向けた。
「いいよー」
「ほんと?」
「うん。じゃあ、今日からともだちねー」
 するとそれが口火になったのか、やがて他の子たちも「いいよ」「よろしくね」と由紀を歓迎してくれた。車いすの女の子は「よろしくお願いします」とやはり丁寧に、照れくさげに、でもちょっと嬉しそうにお辞儀をしてくれた。
「やった。ありがとう。これからよろしくね」
 由紀は、合わせていた手を神社での柏手みたいに二度鳴らしてから、友香里たちにお礼を言った。
「じゃあ、バスケしよう?」
 お茶をぐいっと飲んでから、早速友香里が由紀を誘った。他の皆も由紀を誘うような表情になっていた。
「やるやる。でも、ちょっと先にやってて。すぐ行くから」
「わかったー。千鶴ちゃんもやろうねー」
 友香里たちはコートへと戻っていった。由紀と千鶴は再びふたりきりになった。千鶴はそれまでの由紀と友香里たちのやり取りを、黙ったままずっと見つめていた。
「どうして……」
 千鶴の問いかけに、由紀は鼻の頭をかいてから、ゆっくりと彼女を振り返った。
「今日が千鶴ちゃんと友香里ちゃんのお別れの日なら、わたしはともだち初日。まあ、そんな感じかな」
 由紀は少し表情を改め、言葉を継いだ。
「お守り、来年からわたしが代わりに友香里ちゃんにあげるよ。約束する。……あと、いつでもここにいるから。友香里ちゃんも、皆も、あとついでにわたしも。いつだって、いるからね」
「……」
 千鶴は唇を噛みしめるとうつむき、両手で顔を覆った。
「ねえ、まだあ?」
 友香里が待ち切れない様子で由紀たちに呼びかけた時、両手で顔を覆っている千鶴に気づいた。友香里は驚いたようにコートから早足でこちらに来ると、千鶴の隣に腰を下ろした。他の皆もボールを放り出し、彼女の後をついてきた。だん、だん、とボールの弾む音が体育館に響いた。
「どうしたのー、千鶴ちゃん。どっか痛くしたの?」
 心配げに千鶴を覗き込む友香里に、由紀は言った。
「うん。ちょっと、ずっと痛かったみたい」
「どこがー?」
「ここらへん」
 由紀は人差し指で自分の胸のあたりを突っついた。
「そうなのー? 千鶴ちゃん」
 大好きなともだちに声をかける友香里に、由紀は続けた。
「あのね、またお願いしてもいい?」
「なあに?」
「千鶴ちゃんのこと、ぎゅってしてやってくれるかな?」
 千鶴の肩が、ぴくりと揺れた。
「ぎゅっ?」
「うん、こんな感じ」
 由紀は両腕を前に伸ばし、やわらかいものを包むような仕草をしてみせた。
 友香里はそれを見て、わかったーとうなずくと、由紀がやった通りに両腕を千鶴に伸ばし、引き寄せ、抱きしめた。千鶴の体が、ぽす、といった感じで、友香里の中に包み込まれた。
「こーお?」
「うん、オッケーオッケー。悪いけど、しばらくそうしてやってくれない?」
「わかったー」
 友香里が答えると同時に、千鶴の嗚咽が聞こえてきた。友香里の胸にすがりつき、う、う、と。胸に深く重く、長い間沈み込んでいた澱が、少しずつせり上がってくるような、そんな声だった。
 友香里のともだちが、ふたりを取り囲んでいた。中には千鶴の顔を下から覗き込もうとしている子もいた。
「ごめん、予定変更してもいい? ちょっとふたりだけにしてあげようよ。そうだ、食堂でゲームでもやらない? 確かあそこ、プレステかなんかあるよね。わたしもすぐ後から行くから。ほんと、ごめんね」
 なるべく穏やかな声で、由紀はできたばかりのともだちに頼み込んだ。ともだちは顔を見合わせたが、ほどなく頼んだ通り体育館を後にしてくれた。車いすの女の子は仲間はずれにされたみたいで、ちょっとさびしそうだったが。
「大丈夫かな、千鶴ちゃん」
 千鶴の様子が心配になってきたらしく、友香里は由紀にたずねてきた。
「じゃあ、もうちょっとだけ強く、ぎゅってしてみて」
 友香里はすぐその通りにしてくれた。千鶴の手が、友香里の腕を強くつかんだ。
「これで、いい?」
「うん、そうだね」
 由紀はうなずいてみせた。本当にそれでいいのか、由紀にもわからなかったけれど。
 さて、わたしも消えなきゃな。
 由紀は残っていたお茶を飲み干すと、車いすのブレーキをはずした。そしてリムを握って動かしかけた。
 その時、く、と車いすが停められる感触がした。
 振り返ると、千鶴の手が車いすの背もたれについたグリップをつかんでいた。その手の甲は涙で濡れていた。
「ここに、いてって」
 友香里が千鶴を抱きしめながら言った。
 由紀は少し迷った後、
「いても、いいの?」
 と、友香里にたずねた。友香里はうん、と大きくうなずいた。
 由紀は車いすを元の位置に戻し、ブレーキをもう一度かけた。
 静まり返った体育館に、友香里に抱きしめられた千鶴の嗚咽だけが響き続けた。その間、千鶴の手が由紀の車いすのグリップから離れることはなかった。
                                    了

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