掌編「カッシアリタ」 逃げて
本当に久しぶりだねえ。
車いすの膝の上にお盆を乗せながら、マキははしゃいだ声を上げた。
だな。突然悪かったね。
ううん、来てくれて嬉しいよ。ありがとうね、わざわざお土産まで。
マキはお盆からお茶と、おれの買ってきた栗ようかんをテーブルに置いた。安物のせいかようかんは思ったより小さく貧弱で、おれはひそかに肩をすぼめた。こじんまりとしてるけど、きれいに掃除、整理がされたバリアフリーのリビングには似つかわしくなかった。白いカーテンが揺れる窓際には写真立てがあり、枠のなかではマキと彼女の夫が桜の下で並び、笑っていた。
お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください。
先日、マキから新居への引っ越しを知らせるはがきが届いた。
もちろん、そんなのは定型文だ。文面を真に受けたらかえって迷惑に決まっている。だが今、ちょうど病院の帰りで、マキの新居はそこから近くのところだったから、この際だから、と思い切ってみたのだ。
ちなみにそのすぐ後、リタにその旨を連絡した。普段はすぐ返信してくるのに、今回は既読スルー。引っ越し届がきてから、リタはなんだか機嫌が悪くなっている。黒くしていた髪も、目がちかちかするような紫色に染めていた。まあ、いいか、とラインを閉じた。
さて、とおれは気を取り直し、これからのことを思案した。まずは電話か。引っ越し届の文面を真に受け、本当にマキの家にいきなり乗り込み、こんにちは、などとやらかすわけにもいかない。スマートフォンに登録していた、はがきにあった固定電話の番号にかけた。数回の呼び出しの後、電話に出たのはマキ本人だった。
わあ、久しぶり。
特別支援学校時代と変わらない、はずむような声が流れてきた。
今、病院の帰りで近くにいるんだけど、と言い訳がましく言ったがマキは困惑する様子もなく、来て来て、待ってるよ、遠慮しないで、今ひとりだから。となんのためらいもなく、やや急かした感じで応じてきた。急いで病院の売店で売っていた菓子を求めてから、タクシーではがきにあった住所を、ひとのよさそうな男性ドライバーに告げて向かった。着いた先にはマキの夫が建てた真新しい家があった。淡いクリーム色の外壁が愛らしい。スロープのついた玄関にはたくさんの花の鉢植えが並んでいた。名前がわかるのなんてひとつもなかったが。
元気だった? なんかやせたみたい。
香りのいい紅茶を一口飲んでから、マキはおれの顔を覗き込んだ。おれは一瞬胸を鳴らしてから、
そうか? ちょっとからだ悪くしたからかな。
え、どこ?
腎臓、少しやっちまってな。今、病院通いしてる。
そうなんだ。
自分ごとのように声を落とすマキに、まあなんとかやってるから大丈夫、と慌てて言う。こういうところもちっとも変わらない。授業が終わると誰もやりたがらない黒板を消したり、体調を崩したクラスメイトがいると率先して保健室に連れていったり、引っ込み思案で誰とも仲良くできずにいたアケミに積極的に話しかけていたりしていた姿が思い出された。おれも何度、ルーズリーフやシャーペンの替え芯をもらったことか。
そっちは、どう? 旦那さんとは仲良くやってる?
ポットから紅茶のお代わりをおれのカップに注いでいたマキの手と頬が、一瞬だけ揺れた気がした。だがすぐ元に戻ると、
うん、よくしてもらってるよ。
と、笑顔を浮かべた。やや固いように見えたのは気のせいだろう。
あなたも彼女と暮らしてるんでしょ? どんな子なの?
素っ裸で部屋に大の字になっている、紫頭のリタが思い浮かび、あー、と間抜けな声を出してから、まあ、面白い奴だよ、と首筋をなでつつ答えた。マキはじゃあよかった、と、ほっとしたような顔になる。
こないだ、マナミも来たんだ、元気だったよ。そんな話題から、いつしかおれたちは学校時代の話で盛り上がりはじめた。カズヤ、アキ、トシユキ、チエミ、エリ、ナナ、ヨシト。懐かしい名前とできごとがわき水みたいに互いからあふれてきた。
忘れていたようで覚えているもんだ、と自分に驚いていると、マキが手元に置いていたスマートフォンが鳴った。ラインらしい。それまではしゃいでいたマキの表情が、さっきみたいに一瞬だけ固まる。
ちょっと、ごめんね。
マキはスマートフォンを取ると、かなりせかせかと返事を打った。眉をしかめている。なにかトラブルでもあったのだろうか。だが返信をおえると、マキの表情はすぐに明るくなり、で、どこまで話したっけ、と身をまた乗り出した。
そうして話していると、十分くらいたつとまたラインがきて、マキはまたきつい顔つきで返信する。そしてまた昔話に戻る。そうしているとまたラインが。そんなことが何度か繰り返された。
旦那さん? 大丈夫、なんかあったの。
うん、大丈夫。いつも仕事の合間に大丈夫かって連絡してくるの。心配性なのよ。わたし、こんなだからかな。
自分の車いすのタイヤを軽く叩きながら、マキは笑んだ。なにか、いろんな感情が絡まり合っているような、妙な笑みだった。
そっか。大事にされてんだな。
その言葉にマキは返事をせず、額にかかった髪をかきあげた。なにげなく見ていたおれは目をしかめた。ブラウスの袖からのぞいた両手首に、かなり濃い紫色の痣が浮かんでいたからだ。
それに気づいたらしいマキは、かなり慌てた様子で袖を引っ張った。そして、ちょっと肌寒いね、と、空の椅子にかけてあったカーディガンを羽織った。視線が思いがけず重なる。やわらかい日差しが差し込んでいるのに、空気がきしり、とひびをたてたような音を立てた。
ごめん、ちょっとトイレ、借りていいかな。
つくろうみたいに言うと、マキもやはりつくろうみたいに、そこ出て廊下の右側にあるから、広く作ってもらったから使えると思うけど、と固い笑みを作った。
トイレは言われたところにあった。スライドドアを開けると確かにかなり広い。ショッピングモールにあってもおかしくなさそうなくらいだ。
おれはゆるゆると便器に座った。本当は自己導尿をしなければならないが、まあ今回はいいだろう。昔の通り、手で腹を押して用を足した。
手を洗っていると、自然と気になっていた、すぐ左手の床に敷かれたマットレスに目がいき、首をかしげた。なんでこんなところにマットレスがあるのだろう。
マキもおれとおなじで排泄の感覚がないはずだから、例えば下痢をして服を汚したとき、清拭をしたり着替えをしたりするためのものだろうか。でもそれなら、便器のすぐ横に敷いた方が使いやすいはずだ。なのにどうして、こんなに便器から遠ざけているんだろう。ここを使うとしたら、わざわざ排泄物で汚れた下半身を引きずっていかねばならない。そうしたら当然、床が汚れてしまう。
まあ、なんか訳があるんだろう、と視線をはずしかけたが、ふと気づき、目をしかめた。
マットレスの端近くに、血の痕がついていたのだ。
なにか怪我をしたのだろうか。生理時のものだろうか。それならまだいいのだが。
気になりつつ、リビングに戻った。マキはちょうどスマートフォンをテーブルに置いたところだった。トイレ、大丈夫だった? うん、広くて快適だったよ。たずねるのもためらわれ、おれはうなずきつつ席に戻った。
それからもしばらく、昔話で盛り上がったところで、おれは帰ることにした。
いつでも来て。今度は彼女と一緒で。
玄関先でマキが名残惜しげに言った。
ありがとな。また来るよ。じゃ。
スロープを降りかけたとき、おれはふと振り返った。
なあ。
ん?
マキ、大丈夫か?
鉢植えに手を添えていたマキの動きが止まった。表情がさっき、夫からラインがきたときみたいに固まる。一瞬がいくつか層になったあと、また表情を崩した。
もちろん、大丈夫だよ。ありがとね。
マキの顔をもう一度見つめたあと、おれは家を後にした。
夕暮れ、アパートに戻ると、リタが部屋に大の字になっていた。
さすがに服は着たままだが、テーブルには金麦と柿の種という、おっさんそのものの酒とつまみが乗っていた。
じゃまくさいな、もっとそっちで寝てくれよ。
あんたがすみっこに座ってればいいでしょ。
紫の髪を無造作にかきまわしながら、リタは言い捨てた。おれはふう、とため息をつきながら、リタの脚を押しのけてた隙間にあぐらをかいた。
で、どうだったのよ。昔の女との再会は。
そんなんじゃねえっつうの。元気だったよ。家も立派だったしな。今度はおまえも一緒に来てって言ってたぞ。
そんな野暮なこと、するわけないでしょ。
まだふくれてやがる。またため息をつきかけたところで、
でも、ちょっと、おかしかったんだよな。
おれが首をかしげた。リタが、なに、と面倒げに言う。
おれは、マキの夫の頻繁なライン、両手首の痣、そしてトイレにあった不自然なマットレスや血の痕のことを話した。途中からリタはむくりと起き上がり、かなり厳しい顔つきで話を聞いていた。
で、あんた、なにか訊いてきたの?
警察が詰問するみたいな口調でリタがたずねてきた。おれが首を振ると、ばかかあんたは、と、思わずびくりとするような声を上げた。
ねえ、彼女の番号わかるの? 固定じゃなくて携帯の方。
ああ、聞いてきたけど。
すぐかけて。出たらあたしにかわって。
なんでそんな。
いいからはやく。
リタがまた声を上げた。おれは気圧され、慌ててマキのスマートフォンにかけた。マキはすぐに出た。
もしもし? どうかした?
あ、さっきはどうもな。えっと、ちょっとかわるな。
え? という声のするスマートフォンをリタに渡す。リタはひったくるみたいにそれを受けとると、通話をスピーカーにして、間髪入れず叫ぶように話しはじめた。
もしもし。あたし、こいつの女だけど。これからあたし、勝手にしゃべるわよ。勘違いだったり、ほっといて、と思ったなら聞き流して電話切って。そうじゃなかったらちゃんと聞いて。
な、なに。マキの唖然とした様子が伝わった。
あんた、今すぐそこから逃げて。
リタの言葉に、マキとおれが固まった。
その家、あんたの牢屋みたいなもんなんでしょ? なんの罪もないのにぶちこまれたみたいな。
リタは一体、なにを訳のわからないこと言ってんだ。思いつつも、リタの緊迫感になにも声をかけられない。それはどうやらマキもおなじようだ。
そのままいたら、あんた、ぼろぼろに壊されるよ。ひとじゃなくなるほどにね。わかるのよ。あたしも昔、おなじ目にあったから。本当に殺されるかと思った。あんたも、そうなんでしょ?
マキが息を飲む気配がした。さっきみたいに空気がきしり、とひびをたてた。
だから逃げて。すぐには無理なら、ばれないように少しずつ準備してからでもいい。それも無理なら誰かに助けを求めて。そういう団体でもいいし、なんならこいつにでもいいから。とにかく。
リタが、スマートフォンを握りしめた。
逃げなさい。そこはあんたの生きる場所じゃないんだから。
リタがちから尽きたみたいに言葉を閉じた。おれもマキも、無言のままだった。マキは疲れきったみたいに気配すら薄くなっている。
じゃ、切るよ。生きて。ね。
しばらくの沈黙のあと、リタは電話を切った。喉がかわいたのか金麦を手に取り、残りを流し込む。
リタ。
壁にぐったりと寄りかかったリタは、なにも答えなかった。おれもそれ以上は言葉が出ず、冷蔵庫から金麦を出し、飲んだ。思わぬ苦味に肩がぶるっと震えた。
いつの間にか、部屋には黒々とした夜のはじまりが入り込んでいた。
マキから電話がきたのは、それから数日後の深夜だった。
助けて。
窓からは、まぶしいくらいの満月のひかりが差し込んでいた。
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