一月一日の手紙

 ナースステーションのカウンターに、小さな門松が飾られていた。
 その隣には木彫りのねずみの置物がちょこんと置かれている。胡麻粒みたいな小さな目を開き、後ろ脚だけで立ち上がり、とがった鼻でえさをねだっているかのような愛らしい姿につい歩みを止めた。ナースステーションに誰もいないのを確かめると、こっそりスマートフォンを胸ポケットから出し、画像におさめる。
 いい感じに撮れたのに満足し、スマートフォンをポケットに戻すと病棟の廊下を歩き出した。すぐ顔馴染みの藤原看護師に会った。
「あけましておめでとうございます」
「あ、佐山さん、あけましておめでとうございます。お疲れ様です」
 藤原看護師は立ち止まり、ていねいにお辞儀した。手に血圧計を持っている。
「雪、降ってましたか」
「出る時少し降ってましたが、今はやんでます」
「ああ、よかった。今年は雪が少なくて助かりますね。スキー場は大変でしょうけどね」
「ええ、本当に」
 そんな会話をかわすと藤原看護師は、では、と一礼し去っていった。小柄な背中がナースステーションに消えていくのを見送り、私もまた歩き出した。もうすぐ還暦で今年の春おばあちゃんになるみたい、と千鶴が先日語っていたのを思い出した。だが背筋は孫が生まれるとは思えないほどぴんと伸びている。

 五〇三号室のドアに入り、四人部屋の左奥を区切るカーテンをそっと開ける。妻の千鶴はベッドに座り、左の窓からの陽光を浴びながら文庫本を読んでいた。私の姿を認めると本を閉じ、やわらかい笑みを浮かべた。
「おはよう」
「おはよう。点滴中だったか」
 ベッドそばに立つ点滴棒を見上げた。五百ミリの生理食塩水が下げられ、チューブと針を通して千鶴の体内に少しずつ流れている。点滴はこれが一回目、夕方にもう一度受けなければならない。
「調子は?」
「うん、まあまあかな。夕べこっそり紅白遅くまでみちゃったから、ちょっと眠いけど」
 苦笑いに苦笑いを返しながら、壁際にたたまれていた千鶴の車いすをひろげ、そこに腰をおろす。備え付けの丸いすより、こちらの方が心地いいから。

 千鶴がめまいやひどい倦怠感を訴えたのは、去年の仕事納めの日だった。急いでかかりつけであるこの病院の救急外来に駆け込み、検査を受けると、重度の貧血と低ナトリウム症と診断された。処置室で輸血を受けた後、すぐ入院となった。一日二回の点滴治療により症状はやわらいでいて、もう二、三日で退院はできそうだ。
 だが元来腎血管狭窄という病状を抱えている。ずっと現状維持を保ってきたが去年から急に尿素窒素、クレアチニンといった腎機能を示す数値の悪化が目立つようになっていた。春先、秋口とすでに二回、今回とおなじような症状で入院している。年明け外来の検査結果では違う検査を考えなければならない、と主治医に告げられている。
「おれも紅白みてたよ、半分寝ながらだけど」
「欅坂、すごかったね。あとミーシャもかっこよかったな。がんばって起きてたかいあったよ」
「あ、そのへんは寝てたかも。覚えてないや」
「そっか。でも入院患者の方が夜更かししてたってのもまずいよね」
「ま、いいんじゃないの」
 そんな会話をしながら、そっとカーテンを開ける。他の患者の気配がなく、病室はひっそりしている。
「お向かいさんはさっきお見舞いのひとと出てって、あとは外泊してるみたい。お正月だもんね」
 少し声を低くして千鶴は言った。
 その後は買ってきた焼きプリンをふたりで食べたり、ニューイヤー駅伝をみたりした。なにげない会話が合間にはさまる。出がけに初詣帰りのお隣の斎藤さん一家に会い娘さんがお札とみかんを持っていた、病院のお昼は雑煮が出て美味しかった、元同僚の綾子ちゃんからきた年賀状に去年秋うまれた女の子の写真が載っていた……。さきほどナースステーションで撮ったねずみの置物の画像をみせると千鶴が「かわいい」とはしゃいだので、すぐ彼女のスマートフォンに転送した。「しばらくこれ待ち受け画面にしておこっと」
 しばらくすると看護師ふたりがバイタルチェックにやってきた。血圧、体内酸素量、体温が一度に調べられる。千鶴は血圧計の数値に目をやっている。私もベッド脇から血圧計の値を遠目で確かめる。血圧の値は千鶴がずっと気にしていることだ。計測終了の音が鳴った。やや高めの数値。千鶴がああ、という感じで唇を噛んだ。
 看護師たちが去ると「やっぱり血圧、高いなあ」と千鶴が首をひねった。腎機能悪化に合わせるように血圧測定の値も上がっていた。主治医からはあまり深刻に考えなくていい、と言われているのだが、どうしても気になるようだ。
「まあ、血圧はあんまり気にするな」
「わかってるんだけどね」
 去年ほぼ毎日繰り返してきたやり取りを、新年早々繰り返した。
 点滴が終わったのを機に、買い置きのインスタントコーヒーを淹れた。私はブラックで、千鶴はミルクと砂糖をたっぷり溶かして飲んだ。千鶴も普段はブラックだが、入院するとなぜか甘いコーヒーが飲みたくなるらしい。
 ゆっくりと飲み終え、またテレビを眺めていたら、いつの間にか布団につっぷして眠っていた。はっと目が覚めると、千鶴はまた本を開いていた。
「ごめん、寝ちまった」
「もっと寝てていいのに。疲れてるでしょ」
 いたわるような口調の千鶴に、目をこすりつつ首を振る。せっかくの時間を無駄にしてしまった、と、胸の内で舌打ちした。

 早い夕暮れがおとずれ、もうすぐ夕食という時間になり、帰ることにした。ロッカーからビニール袋に入った洗濯物を取り出し、リュックに入れる。帰ったらすぐに洗濯しよう。
「明日はもっとはやく来るから」
「無理しなくていいよ」
 千鶴が心配そうに口を開いた。
「せっかくのお休みなのに、毎日ここ来てたらからだ休まらないでしょ」
「そんなことないよ。全然疲れてなんかない」
 リュックを背負いながら、少し唇をすぼめた。
「はやく、帰ってきてくれな」
 千鶴が弱々しい笑みを浮かべ、左手を差し出した。点滴針が刺され、夕方分の薬液が流れ込んでいる左手を。ベッドそばにしゃがみ込むと、その手の平が頬にふれた。かすかな消毒液のにおい。かさついた皮膚。奥からにじむぬくもり。
「ありがとう」
 千鶴の声が、手の平を通じて聞こえた。

 アパートに帰り着くと、すぐ病院から持ち帰った千鶴のシャツや下着を洗濯機に入れた。六畳の居間に入り、灯りをつけた。乗り主のいない室内用車いすが、所在なげにたたずんでいる。
 ヒーターをつけるとコートも脱がず、戸棚の一番下の引き出しを開けた。奥に手を入れた。
 取り出したのは、古い携帯電話だった。
 昔、使っていたものだ。かなり傷ついている。画面保護のシートも四方がはがれかかっている。
 電源ボタンを長押ししていると、少し間があって起動した。機種変更して通話もメールもできないが、他の機能はまだ生きている。定期的に電源を入れ、充電をしたりと、メンテナンスもしている。
 今となっては重く感じるボタンをかちかちと押し、メールボックスを開く。受信メールのなかからひとつのメールをを開いた。送り主は千鶴、件名はない。受信日時は七年前の一月一日。

 直幸へ。
 ずっと思っていたことがあります。
 本当はしっかりと話さなきゃいけないことだけど、うまく言えそうにないから、まずメールで伝えさせてください。ごめんなさい。
 わたしは、直幸の、こどもをうみたいです。
 前ちょっと冗談ぽく話したことあったの覚えてる? 直幸は心配してたね。無理しちゃだめだ、おれはふたりで幸せなんだから大丈夫だよって。
 わかってます。病気も障害もあるこのからだじゃむずかしいってことくらい。
 年齢的も厳しいよね。もう三十五だし。
 でもね、わたし、やっぱりこどもがほしい。
 こんなわたしと生きていきたいっていってくれた直幸に、こどもを抱かせてあげたい。
 あなたが愛おしいと想ってくれる、わたしたちのこどもを、抱かせてあげたいんです。
 あのね、このメール書いてたら、なんだか涙が流れてきました。変だね。

 ……七年前の元旦、ちょっと買い物に行ってくる、と言って出かけた千鶴から送られてきたメールだった。
 返信できないままでいると、千鶴が帰ってきた。無言だった。私もなにも言えなかった。ただ千鶴の車いすの膝に手を置いていた。千鶴もその手に自分のそれを重ねていた。

 あれから七年。わたしたちは、ずっとふたりだ。

 古い携帯電話の画面をずっと見つめる。一月一日がくるたび千鶴からのこのメール、いや手紙を読み返す。理由はわからない。意味があるのかもわからない。ただ読み返す。とっくに使えなくなった携帯電話の命を、この時のために伸ばし続けている。
 脊髄損傷を患い、下半身まひの身体障害を負い、車いすに乗っていた千鶴と結婚して十七年がたった。プロポーズは最初断られた。でも自分でも驚くくらいにあきらめられなかった。彼女と生きる未来しかみえなかった。三度目のプロポーズでようやく千鶴は首をたてに振ってくれた。彼女の車いすの膝にすがりついて泣いた。
 携帯電話の手紙を見つめる。病院で千鶴がふれてくれた頬に手をやる。息が苦しくなる。十七年たった今でも、私は千鶴の膝で泣いた時のままだ。
 手紙の返事はいまだに書けていない。いつか書かなければ、と思いつつ時間が過ぎた。千鶴は勇気を振り絞ってくれたのに。もう文面は決まっているのに。伝えたいことはただひと言なのに。
 洗濯機の終了音が鳴った。ヒーターの音が耳に響く。時刻は七時になろうとしていた。もう千鶴は夕食を済ませてゆっくり休んでいるだろう。点滴は無事終わっただろうか。
 カレンダーを見る。七年。勇気を振り絞るにはじゅうぶんな時間だ。
 携帯電話の電源を落とし、戸棚にしまった。あぐらをかいて座り直し、スマートフォンを取り出す。メールを開き、書き出した。
 千鶴が帰ってきたら。
 その言葉を繰り返し胸のなかでつぶやきながら、書き終えたメールを下書き保存した。

                             了




 

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