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彼の名前を覚えている

秋も深まりつつあった高校三年のある日。私はグラウンドのすみで、彼と共に同級生たちがサッカーに興じるのをぼうっと眺めていた。

小・中学校まで通った養護学校から、念願だった普通高校への進学を果たしたが、正直今となっては特にこれといった思い出がない。それなりに友達はできた。一年の時はテスト終わりによくカラオケにも行ったりした。だが二年、三年と進級していくと、一年の時に親しくなった友達とはばらばらになり、もともと社交的ではなかった私は少しずつ孤独になっていた。特に三年の時は進学や就職のことで皆汲々としていたので、なおさらだった。

体育はランニングなどを除いて、すべて見学だった。その日もサッカーの授業だったが、いつも通りグラウンドのすみに車いすを止めてたたずみ、時々ボールが転がってきたらグラウンドにやる気なく投げ返していた。

その日そばにいた彼は、三年の時はじめておなじクラスになった。

心臓に持病があるらしく、激しい運動はできなかったようだ。普段の動作や話し方がどこかもっさりとしていたせいか、クラスのお調子者の男子から「じじい」などとひどいあだ名をつけられてしまっていた。正直聞くたび眉をひそめたが、軟弱な私はなにもできなかった。だが彼は特になにも言わず、あるいは言えず、ただ曖昧な表情を浮かべるだけだった。

彼にはもうひとつ大きな特徴があった。顔の右半分に紫色の痣があったのだ。幼い頃のやけどが原因らしい。それは見るからに痛々しく、ある時、痛くないの、と思わずたずねたことがあるが、全然、もう昔の傷だから、と彼は平然と答えた。

ぬるい風の吹くグラウンドのかたすみで、私たちはサッカーをひたすら眺めた。なんだか眠くなりそうだったので、少し話しかけた。勉強はどう。テストばっかでいやになるな。本当だよね。実は普段から親しいわけではなかったので、話は特にはずまなかった。目の前で彼にひどいあだ名をつけたお調子者がシュートを決めた。両手を挙げて大げさにはしゃいでいた。

進路はどうするの。転がってきたボールを投げ返してから、彼がたずねてきた。うん、一応公務員試験受けようと思ってる。おれ、力仕事とかできないから、そういうのしか選択肢がないしね。まあ安定もしてるだろうし。

答えてから、そういえば彼はどうするつもりなのだろうと思った。公務員試験を目指すグループだけが集まって受けるテストも受けていなかった。民間企業への就職を目指しているのだろうか。考えてみたらはっきりわからない。

○○君は、どうするつもりなの。たずね返すと、うーん、とあまり乗り気でない様子で唇を噛んだ。その後、石材や砂利を扱う家業を手伝うつもりなんだ、親もそれを望んでるし、と、やはり乗り気でなく言い、痣が浮かぶ頬をなでた。

うなずきつつ、ちょっとうらやましかった。じゃあ間違いなく就職試験に落ちるとか、浪人生になるとかはないんだな、と。

でもあまり気が進まないようだ。ほかにやりたいこと、目指したいものがあるのだろうか。

そのことをたずねようとした時、試合が終わった。集合のホイッスルが鳴り、私たちも先生の方へと向かった。結局、彼が本当はなにをやりたいのか、聞けずじまいだった。

季節が過ぎ、冬になった。学校も三年生は自由登校になった。その期間は補修を受けたり、免許取得のため自動車学校に通う生徒が多かった。私も免許を取るつもりで準備していた。

そのまさに自由登校初日の朝、家の電話が鳴った。母が取り、相手と話しはじめた。どうも担任らしい。なんだろうと思っていると突然母が、え!と大きな声を上げた。そこからはあきらかに低くなったトーンの声で話し続けた後、受話器を置いた。

母は真っ青な顔を私に向けた。


○○君、亡くなったって。


私が理解できないまま目を泳がせていると、母は言葉を重ねた。


自殺、だって。


翌日、実家で開かれる葬儀に参列するため、母の車に乗った。彼の家は車でも三十分かかる離れた町にあった。その年は雪が多かった。彼の町に近づくたび、道路や屋根に積もり重なった雪はその厚みを増していった。

駐車場に着き、車を降りるとちょうど数学の先生と会った。本当に思いがけないことで…と先生がうなだれたまま言うと母は、先生、私悔しいず、と、雪道のなか私の車いすを必死に押しながら、重苦しく返事をした。

彼の家は小さめの旅館のような古くも大きな屋敷だった。土間の玄関を入ると、やはり旅館の宴会場のような大広間に通された。広間の奥にはすでに祭壇があり、彼の遺影が置かれていた。彼は笑っていた。そういえば彼の笑顔を実際に見たことはなかった気がした。

普段は走れるような大広間も、親族や先生たち、クラスメイト全員、彼の古い友人たちが集まっているので、かなり窮屈だった。担任に出席番号順に座らされたところで読経がはじまった。よく見ると広間からはみ出て、廊下に正座している男子生徒もいた。

読経が続くなか、焼香の箱がまわってきた。見よう見まねで焼香し、隣にまわした。女子生徒のすすり泣きが聞こえてきた。広間は寒さがしみわたった。畳は凍ったみたいだった。白い息が焼香の煙と共に立ちのぼった。私はからだを細かく震わせ、何度も手をこすり合わせた。

読経が終わり、親族、友人の弔辞が涙ながらに話された。弔電も読まれた。当時の地元代議士からも来ていたのに少し驚いた。

突然の自殺の原因や詳細は、あきらかにされなかった。遺書があったと男子生徒のひとりが友人に話していたが、それも本当だったかどうか。

葬儀が終わり、ざわつきのなか皆帰り支度をはじめた。参列者が立ち並ぶ足元に動けもせず座りながら、人々のすき間から視線をもう一度彼に向けた。彼は笑っていた。痣のある頬も緩めて、本当に楽しそうに。



あれからもう二十年以上たつ。

熱望していた普通高校での日々だったが、記憶に残っているものは、かけらのような断片ばかり。あのお調子者の名前も顔も当然のように忘れた。

だが、覚えていること、忘れられないこともある。

彼の名前は、今でも覚えている。

彼の笑顔も、今だに覚えている。

彼が決して嬉しくはなかったろうあだ名が教室で呼ばれるのを止められなかった、止めようともしなかった自分の弱さと後悔も。

みずから命を絶った理由も、そこにいたるまでの苦悩も、なにひとつわからなかった自分の愚鈍さも。

そして、彼が本当にやりたかったこと、夢はなんだったのかを、永遠に知ることができないことも。

私はこれからも、彼の名前を覚えているだろう。おなじ場所に旅立つその日がきても、きっと忘れないだろう。

あの日のグラウンドに吹いていた、ぬるい秋風の感触と共に。




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