あの日のこと 3.11

先日また体調を悪くし、仕事を休んだ。

電話なのにへこへこ頭を下げて休みの連絡を入れたあと、ひたすら床に臥せる。こんな時、ふっと眠りに落ちれればいいのだが、しびれているような感覚、動悸、息切れが絶え間ないため、なかなかそうはいかない。寝返りを何度も打ちながら、ひたすらからだが落ち着くのを待つしかない。

ふと窓に顔が向くと、やわらかい日差しに目を細めた。かすかにあたたかい。まだまだ朝晩の冷える東北だが、暦は三月だし、確かに春は近づいているのだな、と、ぼんやりした頭で思う。

三月、という言葉に、「あの日」のことが不意に思い起こされた。二〇〇一年三月十一日。

その日は午後から仕事を早退し、父が脳神経内科へ診察とMRIの予約に行くのに、母と共に付き添っていた。三十分ほどで医院を出て、車を走らせはじめた。ほどなく、微妙に車体が揺れはじめたのに気づいた。風かなにかかと思っていると、そばにあった薬局の薬剤師の女性四人が駐車場で、ひどくうろたえた表情で肩を抱き合っていた。

なにしてるんだろう?車内で母と私が首をかしげていると、父が叫んだ。

地震だ!

え、とまわりを見渡し、息が一瞬止まった。電柱がありえないほどにぐらぐら揺れていたのだ。車体の揺れもはげしくなっていた。明らかに風ではなかった。路肩に車を停めた。カーナビのテレビをつけると、東北で震度七(八だったかもしれない。このあたり記憶が曖昧だ)の地震が起きた臨時ニュースが、がなりたてるみたいに流れていた。

その後、信号の止まった国道を恐る恐る走らせ、実家に帰った。電気はとまり、暖房のない居間で縮みあがりながら、相方が実家に来るのを待った。伊恵にいても落ち着かず、相方がやって来るはずの通りに出た。混雑を極めた道路をひたすら見つめた。一時間近くたち、相方の車が見えた。彼女の無事な顔を見た時、全身のちからが抜けた。

その夜はガスコンロで沸かしたお湯でカップラーメンとスープをふやかして夕食とし、もそもそと食べた。ありったけのふとんをかぶって、居間に雑魚寝した。ろうそくとラジオをつけっぱなしにした。暗い、ということと音がないことに、言い知れない恐怖があったのだ。だが津波で東北太平洋側の市町村が壊滅状態、というニュースが流れるたび、寒さで縮んだ身をさらにこわばらせた。

夜が明けてからも、余震と寒さでからだを固まらせ続けた。食料や飲料品を求めようと近所のコンビニに行くと、せまい廊下がごったがえしていた。棚に品物はぽつぽつしかなかったが、奪い合うような混乱はなかった。客は整然と列に並び、レジ担当の女性ふたりは淡々と会計をしていた。買い物を終えて外に出ると、電柱にのぼり復旧工事を行っている作業員の男性が見えた。このような非常時にもまわりのために働いているひとがいる。このことになぜか胸が熱くなった。

電気が復旧したのは夕方前だった。温風を吹き出す電気ストーブの前に手をかざした時、なんとか生き残れた、とこころから息をついた。山をはさんだ太平洋側のひとたちが受けている苦難を想像もせずに……。この時の経験は「休日」という、私がnoteをはじめた時に掲載した小説に少し書いた。

日差しを受けながら思った。もし今の、体調のすっかり衰えた自分があの時間にいたら、果たしてどうなっていたか、と。

あの時よりはるかに薬が増えた。自己導尿も課せられた。電気のよみがえった夕方近くまで、今のこのからだが持ちこたえられたのか。想像したらあの時のように身が震えた。

いわゆる被災地、といわれる場所には一度も行ったことはない。おなじ東北で、車を走らせれば近いところで二時間もかからないところに住んでいるにも関わらず、だ。

きっかけがある。震災直後の混乱からやや落ち着きを取り戻した頃、ある地域の避難所となっていた小学校を取材した特番が放映された。

その避難所は、各家庭の居場所や食事の配給、清掃、見回りなどの規律や各々の役割がきっちりと決められていた。役割分担や連絡等を記した紙も、廊下に整然と貼られていた。

ある時、避難している女性が「今日の私の役割なの」と、小学校の玄関掃除に励んでいる様子が映し出された。津波は学校の玄関先まで及んだらしく、床や壁、下駄箱が黒っぽく汚れていた。女性は時々カメラに明るい笑みを向けながら、ほうきとちりとりを手に玄関を掃いていた。

そんな時、すっとカメラのレンズが玄関の外に向いた。一台のバスが停まり、そこから乗客が降りてきた。被災地を巡るツアーというか研修に来たひとたちだった。そういうものが少しずつはじまっていた時期でもあった。

ガイドらしき男性が客に説明をはじめた。声は聞こえないが、手を高くあげる仕草から、あのあたりまで津波は押し寄せた、といった話をしているのが察せられた。客は熱心にうなずき、学校を真剣な眼差しで眺めていた。

カメラの視線が玄関内に戻った。女性がまた映し出された。女性は掃除を続けていた。だが外に目を向ける様子は一切なかった。先ほどまでの明るさもなくなり、固い表情で床を掃き続けていた。

この映像をみて以来、私は被災地に行くのはやめよう、と思った。というより行けなくなった、という方が近い。

おなじ東北に住むのなら、一度は目に刻むべきだ、と、被災地におもむいた知人から言われたことがある。実際、そうすべきかと行き先を調べたりしたことも。だがそのたびに、津波で汚れた学校の床を掃除するあの女性の姿が頭に浮かんだ。するとなぜか調べものをする手がとまった。もし現地であの女性のような人に出会ったら、自分はどう接したらいいのか。迷いは深まるばかり。結局、そんな状態で九年がたった。私が被災した方々にできたことは、いくばくかの募金をしたくらいだった。

もちろん被災地をおとずれたひとたちを非難しているわけでは一切ない。むしろ敬意を抱いている。ともすれば他人事、でおわることを我が身のこととして目に耳にしたのだから。それができない私がむしろ虚弱なんだろう、とも思う。

あの震災から九年。もう九年なのか、まだ九年なのか。ひとりひとり色が異なるのは言うまでもない。私はどうだろう。どちらかといえば後者に近いかもしれない。やや途切れがちではあるが、あの時の記憶は奥深いところに、鮮明に残っている。風化、とよく言われるが、私に限っていえば生きている限り、あの日の記憶が薄れていくことはないように感じる。その思いはずっと握りしめていきたい、とも。

自分はよろよろとだが、あの日を乗り越えた。生き残った。亡くなった方々の分まで、などと言える立場ではない。そんなおこがましい思いを持てる資格もない。だが生きているからには、生きるためにすべきことをしなければならない。ちっぽけな自分にできることなど、それしかない。

そんな思いをつらつらとめぐらせていると、またやわらかい日差しが窓から差し込んだ。私はよいしょ、とまだ重い身を起こした。そろそろ自己導尿をしなければならない時間だった。今、しなければならないことは、まずはなによりそれだった。



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