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いのちのかけらの使い方

※この記事は投げ銭制です。全文読めます。

「人間なんて、生涯かけて人ひとり救えるかどうかくらいの、ほんの小さな存在なのだ」

高校を卒業し、仕事をはじめた頃に読んだこの言葉が、今も胸の奥に刻まれている。

実は誰が言った言葉かわからない。正確な言い回しもこれでよかったか、ちょっとあやしい。もちろんネット検索すればすぐわかるのかもしれないが、あえてそれはしなかったし、これからもするつもりはない。言葉は自分のなかにしっかり根をおろしている。それで充分だから。

今年の春先、職場の雇用形態の変更に伴い、新しい保険証をもらった。

住所を記入しようと裏返した時、そこにあったある記述に目がとまった。

臓器移植に関する項目だった。


1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれかでも、移植の為に臓器を提供します。

2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。

3.私は、臓器を提供しません。

《1又は2を選んだ方で、提供したくない臓器があれば、×をつけてください。》

【心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球】


もういつ死んでもいいや、と思っているところが、正直ある。

実際そうなってもおかしくない。毎週のように病院通いで点滴だし、救急車にだって何度か乗った。血圧は高いし、一日七も薬を飲まなきゃいけないし、強い倦怠感は常にまとわりつくし、変な動悸もしばしばある。一回二十分もかかる自己導尿を一日繰り返すのもしんどい。たかが小便に二十分って、なんなんだ。飯も食えなくなるほど薬を飲み下すって、なんなんだ。

こんな毎日が、生きている限り続いていく。

疲れた、と思う。本当に。

こんなだから冒頭の言葉のように、人ひとり救うことすらもってのほかだ。むしろどれだけ多くのひとたちに寄りかかっているか。小さな存在以下の、細胞レベルの存在。

本当にもう、どうでもいい。なにもかも放り捨てて、自分でもよくわからないうちに逝ってしまえたらどんなにか楽だろう。毎日どこかの一瞬、そんな考えがかならずよぎる。

そんな自分になにかできるとしたら。

死後に遺されたからだで使える臓器があれば、それを必要としているひとたちに分け与えることしかない。腎臓と心臓は無理かもしれないが、それ以外はたぶん大丈夫だ。

あまりにからだがぼろぼろ過ぎて使いものにならず、臓器提供もできないなら、献体という手もある。

解剖学の実習用教材として大学病院に遺体を提供するのだ。このことを教えてくれたのは高校の現代社会の教師だった。もう定年を過ぎ、臨時として勤務していたその男性教師は、「死んだらいくらでも好きなように切り刻んでもらいたい」と言っていた。その言葉はなぜか胸にすとん、と落ちるものがあった。高校生でまだ目立った病気はなかったけれど、どこか今の自分になる予感があったのだろうか。

これから多くのいのちを救うだろう医学生たちの学びの一助になれるなら、私もその教師が言ったように、いくらでも好きなように切り刻んでもらいたい。障がい持ちのうえ、これだけいろんな臓器に異常をきたしたからだだ。実習材料としてはなかなか貴重なのではないか。

そんなことを思いつつ、臓器移植項目の1に丸印をつけようとボールペンを手にする。

でも、なぜかそこから手が動かなくなる。

実を言うとこれまでも、保険証を見るたびおなじことを繰り返している。死んだ後のからだなんてどうでもいいはずなのに。それでようやく、こんな自分でも人ひとりを救えるかもしれないのに。

頭のなかに、少ないけれど浮かぶひとたちの姿が浮かぶ。そのひとたちの声も。そのひとたちの笑みも。そのひとたちの涙も。

そして、声が聴こえる。

なにもかも放り捨てて、自分でもよくわからないうちに逝ってしまえたら。そんな粗末な生き方をしたいのちのかけらを、誰かに分け与えようというのか、と。

粗末に生きた末に死のうと、いつ死んでもいいとやけくそな思いで生きて死のうと、遺された自分の肺や膵臓や眼球が、誰かのいのちをつなぐのには変わりない。そのひとやそのひとの大切なひとたちは手を取り合って喜ぶだろう。見知らぬ自分に対して「本当にありがとうございます」と涙を流し、こころの底から感謝をしてくれるかもしれない。

でも、実はその相手は「いつ死んでもいいや」という堕ち切った思いで生き、死んだ人間だった。

そんな人間が、きっと未来はあると信じ、必死で生き続けたひとたちの感謝を、受けとめる権利なんてあるのか。

もし魂なんてものがこの世に残って、そのひとやそのひとの大切なひとたちの嬉し涙を見たとしたら。ああ、ようやくおれもひとりを救うことができた、なんて共に喜ぶことができるのか。

いのちのかけらは、きっとそういうものじゃない。

だから簡単に丸印をつけられない。だから今日も薬を飲む。血圧を測る。自己導尿をする。病院に忘れず通い、点滴を受ける。いつ死んでもいい、という思いを抱えつつ、それでもからだをいたわる自己矛盾とたたかう。

そうして生きた、いのちのかけらなら。

ようやく保険証の裏に、丸印をつけられるのではないか。

ようやくいのちのかけらを望むひとたちに、分け与えられる資格を得られるのではないか。

頭の言葉と共に忘れられない短歌がある。

前の主治医が幼い頃、近所に車いすに乗っていたおじいさんがいた。そのひとが詠んだ短歌が、毎日新聞の歌壇で特選に選ばれたという。今から半世紀以上前のことらしい。


  角膜をやがて贈らん日のあれば

     美しきものに吾が眼肥やさん


真にいのちを生きたひとの、重くも美しい歌である。





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