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小説「あの夜」

 ドアを開けると、赤い車いすが見えた。
 鉄階段の下で千鶴は車いすから上半身を屈め、手を伸ばしていた。背もたれグリップには使い込んだリュックが下げられている。右側のサイドガードに、以前はなかったクローバーのステッカーが貼られていた。
「おはよう」
 車いすに乗って部屋から出てきた私に、千鶴は笑みを向けた。少し低いトーンの穏やかな声色、肩にかかった髪に朝の光が反射している。
 本当に来たんだな。
 胸の内でつぶやいた。だから「おはよっす」と返すのに少し間ができてしまった。
「マダムがいるよ」
 千鶴の足元で一匹のアメリカンショートヘアが、曲げた前脚をクッションにして休んでいた。千鶴は喉をふにふにと撫でている。
 マダムはここ旭町ハイツA号室住人の由紀さんが飼っている猫だ。黒とやや灰色がかった白の毛並みはきれいな縞模様を描き、化粧水を滲み込ませたように艶めいている。
 まだ私と千鶴がこのD号室で共に暮らしていたある朝、二階へ続く錆びた鉄階段の下で寛いでいたマダムと出会った。私たちが越してくる前からお気に入りの場所だったらしい。千鶴が頭や喉を撫でてみても嫌がらず、気持ちよさげに鳴いた。歓迎してくれてるのかな。千鶴は新しい友達ができたかのように笑った。ふたり暮らしをはじめてまだ日が浅く、不安だらけの時期だった。
 千鶴に喉を撫でられていたマダムが閉じていた瞼を開け、にゃ、と短く鳴いた。
 私はドアを閉めて玄関前のスロープを降り、千鶴のそばに車いすを寄せた。スロープは大家の許可を得て、DIYが得意な従兄に作ってもらったものだ。
「おまえの鳴き声聞いたの、ひさしぶりだよ」
 マダムに不満げな口調を作って言った。私が撫でてもこの猫は一切鳴かない。
「わたしを覚えててくれたんだね、ありがと。今度からは直幸にも鳴いてあげて」
 千鶴は車いすのアームレストを両手でつかみ、それを支えにして身を起こした。私もそうだが千鶴も脊髄損傷を負っていて体幹が失われている。なにかに寄りかかったりつかまったりしないと屈んだ身を起こすことも、床に座って座位を保つこともできない。
「ほんとに今さらだけど、この子、なんて名前なんだろうね」
 マダム、と名をつけたのは千鶴だった。
 気位の高そうなたたずまいや、人間でいえば三十代の女盛りよ、と由紀さんから聞いた話から千鶴が勝手に名づけた。
 実際いい暮らしをさせてもらっているようだ。千鶴は一度、由紀さんに誘われ部屋にお邪魔し、コーヒーをご馳走になったことがあった。その時、ふかふかのクッションが敷かれた竹籠があるのを見かけた。ひと缶いくらするかもわからない高級そうなキャットフードの缶もその脇に積まれていた。シャンプーは月に二度通ってるの。由紀さんは自慢げに語ってもいた。千鶴は本来の名前をたずねようとした。だが由紀さんは話題を変えてしまい、名を聞けないままお茶の時間は終わってしまった。それ以来、この猫の優雅さにはマダムという名がふさわしいように感じられ、ずっとこの名で呼び続けた。
 そんな暮らしと風貌をしているのに、マダムは蜘蛛の巣が絡まる錆びた鉄階段の下を寛ぎの場所と定めていた。千鶴が黄色い羽の猫じゃらしを買ってからはそれも気に入り、休日の昼下がり、マダムの遊び相手になることもあった。
 マダムが起き上がった。伸びとあくびをし、前脚で顔を洗うと、私たちからゆっくり去っていった。尻尾がぴんと立っている。これから縄張りの見回りに行くのだろう。きまぐれな女王様は一度出かけるといつ帰ってくるかわからない。
「ばいばい、マダム」
 千鶴はマダムの後ろ姿にささやき、手を振った。髪が風に揺れた。そのなかにひと筋白髪があった。顎が以前より細くなったようにも感じる。
 どうして、ここに。問いかけた時「朝ご飯、もう食べた?」と千鶴が振り向いた。
「いや、まだだけど」
「じゃ、いっしょに食べようか」
 千鶴はグリップに下げていたリュックからコンビニ袋を取り出した。なかにはサンドイッチとパックの野菜ジュースが入っていた。
「お天気だし、公園で食べよ」
 千鶴の言葉に空を仰いだ。五月の青空に綿のような白い雲がふたつ、のんびり浮かんでいた。
 私たちは車いすを並べてアパートの敷地を出、すぐ向かいにある公園に入った。
 アパートとおなじく旭町の名がつけられた小さな公園だ。南側にはイチョウの木々が茂っている。夕方になると学校帰りの男子小学生たちがよくサッカーをしているが、平日の朝である今は誰の姿もない。
 出入口の右手にあるあずまやに入った。袋を取り、サンドイッチと野菜ジュースをテーブルに並べた。ありがとう、と千鶴が礼を言った。風で飛ばされたイチョウの葉が、何枚かテーブルに散っていた。手元にも瑞々しい緑葉がひとひらあった。なんとなく払いのける気になれず、そっとつまんで脇に置いた。
「相変わらず静かだね」
 千鶴がたまごサンドをひと口食べ、つぶやいた。山形駅西口からひっそり伸びた路地奥にあるこのあたりは、ここ十数年ほどの西口再開発から取り残された、古く静かな住宅街だ。細い通りにも公園と同様に人影はなく、雀の鳴き声だけが響いている。
「ここはなにも変わんないよ」
 私はかつサンドを口いっぱいに頬張りながら応じた。
 ふたりで暮らしはじめた最初の朝も、この公園でサンドイッチの朝食を食べた。あの時となにも変わらない。ペンキの剥げたブランコも、木がぼろぼろのシーソーも、握ると手が鉄くさくなる鉄棒も、色あせたパンダとコアラの乗り物も、あの頃のままだ。
 あれ。千鶴がなにかに気づいた。私の右後ろ、ブランコの向こう側に視線を送っている。
「あそこにあった遊具、なくなってるね。なんていうんだっけ。梯子を横にしたみたいな、ぶら下がって遊ぶやつ」
「ああ、雲梯か」
「そうそう。あそこにあったよね。いつなくなったの」
 ブランコの向こう側を振り返った。確かにあの場所にはブランコとおなじく、ペンキの剥げた雲梯があった。古くなったからか、それとも壊れたからなのか、いつの間にか撤去された。つい最近のことだった気もするが、私もよく覚えていない。
「そうそう、あれからサトウさんちも引っ越したんだよ」
 不意に思い出して言うと、千鶴が「そうなの」と目を開いた。
 サトウさん一家は隣室に住んでいた日系ブラジル人家族だ。五十代の夫婦と、二十歳前半の娘三人で暮らしていた。いつも明るく気さくな一家で、父親のパウロさんは会うたび「こんにちは」「ご機嫌いかが」と、手をひょいと上げて挨拶してくるのが常だった。これがラテン気質ってやつか、とよく知りもしないくせに思ったものだ。夏の夕暮れは部屋の前に椅子とテーブルを持ち出し、家族三人で小さなビアガーデンをよく開いていた。その時パウロさんは決まって上半身裸だった。そのビアガーデンには私たちも何度か誘われた。「オブリガード」「オブリガーダ」「エウ・チ・アーモ」と、いくつか言葉も教わった。
 だが去年の夏が終わる頃、サトウさん一家はブラジルへと帰国した。
 さよなら、元気でね。引っ越しの挨拶にひとり訪れたパウロさんが残した言葉はそれだけだった。いつもの明るさも元気もなく、急に老け込んでしまった印象さえ受けた。なにか大きなできごとがあったことはすぐ察せられた。だがそれをたずねることなどできず、お世話になりました、とお辞儀をすることしかできなかった。
「そうなんだ。お隣、静かだなって思ったんだけど。そっか」
 千鶴は小さなため息をついてから、視線を旭町ハイツに向けた。
「壁のひび、増えたね」
「ああ、最近急にな」
 トタン屋根や鉄階段の錆はますますひどくなり、雨どいは途中で穴が開き、千鶴が気づいた通り、外壁のひびも増えた。パウロさんとおなじく、急に年を取った感じだ。
「変わってきてるんだね、少しずつだけど」
 千鶴がつぶやいた。
 会話が途切れた。千鶴は野菜ジュースを少しずつ飲みながら、公園やアパート、あたりの家々、イチョウ、細い路地を、懐かしい幻のように見つめ続けた。私は残ったサンドイッチを口いっぱいに押し込んだ。はじめてこの場所で朝食を食べ、千鶴に笑われた時とおなじように。

 朝食を終えると、私たちは部屋に戻った。
 玄関ドアを開けると六畳ほどの広さの台所が目に入る。ドアすぐ左側にトイレ、突き当りの流し台右側に風呂場がある。脱衣所と洗面所はない。玄関を上がって右手の襖を開けると、六畳と四畳半の居室が連なっている。六畳が居間で四畳半は寝間だ。
 千鶴は台所に据えられた冷蔵庫や洗濯機、食器棚、電子レンジ、ガスコンロ、瞬間湯沸かし器といったものを眺めてから、車いすのブレーキをかけた。その後上半身を曲げて床に右手をつき、それを支えにして尻をシートの前方へ少しずつずらしていった。尻がシートから離れると同時に支えの右腕に力を込めて、静かに床へ降りた。大事な壊れ物をそうっと置くような降り方だ。
「どうかしたの」
 床に座った千鶴が小首をかしげた。彼女の降りる様子を、私は後ろから無意識に見つめてしまっていた。
「いや、別に」
 千鶴の車いすの隣に自分のそれを停めた。上半身を曲げて両手を床につくと、体全体を投げ出すようにして床に降りた。千鶴に比べると荒っぽい降り方だ。
「休んでて。おれ、ちょっとトイレ。それとも先行くか」
「ううん、後でいいよ」
 千鶴はもう一度台所を見渡してから、両脚を揃えて前に伸ばした。その姿勢のまま尻と両腕を交互に前へとずらし、居間へと入っていく。私は千鶴の背中を見送ってから、両腕を両脚のように動かし、動かない下半身をひきずりながらトイレへと這っていった。
 顔の高さにある便器にしがみつき、両腕でよじのぼるようにして体を引っ張り上げ、便座に座った。ジーンズ、パンツ、失禁防止用につけている紙おむつを膝までおろした。とうの昔に筋肉の削げ落ちた細い両脚を手で広げ、左手で膀胱を押し込んだ。同時に力ない尿が排泄されてきた。
 五歳の時、原因不明の腫瘍が脊髄にできた。その部分の脊髄ごと切除する手術を受けた後、私の下半身からは感覚も動作もすべて失われ、車いすを使う身となった。
 おしっこはこうして出して。うんちもね。
 病院の小児科医から教えられた排泄方法を、二十五歳の今まで忠実に守っている。
「漏れてなかった?」
 トイレから戻ると千鶴に問いかけられた。私は「ああ、大丈夫」とうなずいた。
 千鶴がトイレに向かった。排泄方法はほぼおなじだ。ただ彼女は膀胱を押す時、右手の方を使う。便を出す時は両手だ。
 千鶴は私より一年遅れ、六歳の時に下半身まひの身体障害を負った。横断歩道を渡っていた時、当時学生だった男の運転する軽自動車に轢かれた。脇見だった。
 目撃者の話だと、トランポリンに乗った時のごとく千鶴の小さな体は跳ね飛ばされたらしい。だが本人にその時の記憶はまったくない。意識を取り戻したのは、五時間に及ぶ緊急手術から二日後の深夜だった。ベッドの上でうすく瞼を開けると、カーテンの隙間から駅前のオレンジ色のネオンが瞳に滲んだ。なぜかその光景を鮮明に覚えているという。
 ベッドのそばに母がいた。気がついた、と、柵をつかんで身を乗り出し、千鶴の顔を覗き込んだ。瞳は充血し、濃い隈ができていた。
 母は千鶴が今、ここにいる経緯を簡単に説明した。真剣に聞いたが記憶にないので、他人話のように感じられた。
 話が終わると、母は一度きゅっと目と口を閉じた。唾が飲み込まれる音がした。どうしたんだろう。不思議に思っていると、母は目と口を再び開いた。
 千鶴のあしね、もううごかないの。なにもかんじられないの。
 唾を飲んだのに、母の声はかすれていた。
 布団のなかで腿にふれてみた。あれ。枕の上で首をかしげた。指には腿にふれている感触はあるのに、腿には指にふれられている感触がなかった。あれ。さらに指を奥に伸ばした。膝、脛、尻にふれた。思い切ってパジャマのなかに手を入れ、管が尿道から伸びていた性器にふれた。いずれもおなじだった。感触の一方通行だった。
 その後、脚を上げようとした。膝を曲げようとした。足の指を開こうとした。でも、力は伝わらなかった。どの箇所も動かなかった。シーツが擦れる音さえしなかった。
 おかあさんの、いうとおりだ。
 母の指が千鶴の目元を拭った。オレンジのネオンが水中みたいに揺らいでいた。
「漏れてなかったか」
 トイレから千鶴が戻ると、私は千鶴にされたのとおなじ問いかけをした。
「うん、大丈夫」
 千鶴は答えてテーブルに座ると、なぜかふっと笑った。
「どうした」
「習慣ってすごいなって思ってさ」
 千鶴の言葉に私も苦笑いする。漏れてなかったか。おなかの調子、大丈夫。トイレの時、そんなふうにたずね合うのが、いつからか慣わしになっていた。
 暮らしも落ち着いてきたある休日、ひどい下痢におそわれたことがあった。切れ目なくトイレに入り、下痢止めも飲んだがなかなかおさまらなかった。何度目かもわからないトイレに向かおうと這い進んでいた途中、唸りながらその場で固まった。尻から水気の強い脱糞の音が聞こえたのだ。
 ここできれいにしちゃおうよ。近所のドラッグストアへ別の整腸剤を買いに行こうと身支度していた千鶴が言った。最初ためらった。だがもう身動きのできない状態だったので、言われた通り体の右側を下にして横になった。ズボンとパンツを脱ぎ、紙おむつテープの左側だけを剥がした。おむつのなかは泥状の下痢便で溢れていた。尻肉や睾丸、腿にまで便はこびりついた。強い便臭が居間に充満した。
 右肘をついて上半身を起こし、首を無理に捻って尻を覗きながら、千鶴が持ってきてくれた尻拭きシートやトイレットペーパーをあるだけ使って便を拭った。千鶴も清拭を手伝った。だがそうしているうち、また尻から便が流れ出てきた。ちょうど肛門あたりを拭っていた千鶴の手に便がこびりついた。私は糞、と骨盤を砕けるほどに叩いた。失禁は障害を負って以来、数限りなくしてきた。自分の身が汚れるのに動揺する時期はとうに過ぎている。だがこの時は制御もきかず暴走し、共に暮らす女の手を汚したみずからを憎悪した。腰から下を切り離したい衝動にかられた。
 大丈夫。大丈夫だから。
 千鶴は苛立つ私をなだめ、あらゆる箇所にこびりついた便を拭った。自分の手や指につき、爪にまで食い込んだ便に構う様子はなかった。それを見て私は気を取り直し、尻拭きシートで睾丸の便を拭った。
 三十分以上かけ、後始末を終えた。心身が摩耗した状態で新しい紙おむつをつけた。千鶴はようやく、手にこびりついた私の便を拭った。ビニール袋には便にまみれたおむつ、トイレットペーパー、尻拭きシートがほぼ満杯に詰め込まれた。
 ビニール袋をトイレにある汚物入れバケツに突っ込んで居間に戻ってくると、千鶴が畳の一か所をウェットティッシュで拭っていた。便は畳にまではみ出していた。
 おれがやる。強引に千鶴からウェットティッシュを取り、畳を拭った。だが目地にまで便は入り込み、汚れはなかなか落ちなかった。
 そんなに頑張らなくていいよ。千鶴が言ったがそれでも髪を振り乱し、畳を削るように拭い続けた。そこは千鶴がいつも腰を落ち着け、食事したりテレビを観たり、横になったりする場所だった。
 ウェットティッシュが切れたところで、千鶴が手を私のそれに重ねた。そのあたたかさに力が抜け、拭うのをやめた。
 千鶴はその後も、便の痕が残る場所に構わず座り続けた。座る位置を変えようと何度も申し出た。でもその都度笑って首を振った。
 ここがいちばん落ち着くから。直幸もよく見えるしね。
 それから一か月後の休日、おなじことが千鶴の身に起こった。場所はトイレ前の床で、千鶴は生理中だった。彼女の下半身を汚した便と血液を共に拭った。千鶴は血よりも赤黒く瞳を染めていた。私の手に便と血がこびりついたがもちろん構わなかった。口を閉ざしてしまった千鶴に、大丈夫、と以前かけられたのとおなじ言葉を繰り返した。
 その後少しずつ薄らいでいったが、まだ私の便の痕は畳に残っている。
 今そこに、千鶴がいる。
 両脚を左側に曲げて座り、茶をふうふう冷ましながら飲んでいる。あの頃からなにも変わらない光景だった。

「ハナミズキに、会いに行きたい」
 買い置きのうどんで簡単な昼食を済ませた後、千鶴が言った。私たちは再びアパートを出た。楽しみだな。千鶴の車いすは跳ね上がるようだった。
 千鶴は桜よりもハナミズキを好んだ。花見の喧噪が過ぎた頃、山形にも流れはじめるあたたかな風と共にピンクや白をきらめかせるこの花が好きなのだと、常に語っていた。
 もし家を建てたら、庭にハナミズキを植えたいね。
 いつかの千鶴の言葉が、霧のように浮かぶ。
 アパートから数分ほど車いすを並べていくと、細い路地は左右に分かれていた。私たちは右手の路地に入った。さらに少し進むと、外壁が炭のように黒ずんだ空き家が見えてきた。トタン屋根はあちこち剥がれ、二階の窓ガラスは割れ、蜘蛛の巣だらけの玄関先には宅配牛乳の木箱が転がり、錆びた物干しが立ち尽くしている。家は枯れた樹木のように、朽ちていくのに身をまかせていた。持ち主がいるのかどうか、昔も今もわからない。
 そんな家の庭に、千鶴が「会いたかった」ハナミズキはあった。
「今年も咲いてくれたね」
 街路樹として植えられているそれらよりずっと小ぶりなその木は、今年もやや淡い紅色の花を咲かせていた。
 この街で共に暮らしはじめた頃、千鶴は散歩の途中、偶然このハナミズキを見つけた。壊れかけた空き家の庭で人知れず、でも懸命に花咲かせるこの木をひと目で好きになった。以来花の時に限らず、葉が生い茂る夏、その葉が枯れ落ちていく秋、枝だけとなった冬、折りを見て彼女はこのハナミズキに「会いに」きた。大切な友のもとを訪れるように。
 千鶴はあたりに人がいないのを確かめてから、家の敷地に車いすをこぎ入れた。草が生え、石も転がっている庭を、車いすを揺らしながら進む。私もすぐ後からついていった。木のそばまで着くと、千鶴は胸いっぱいに息を吸い込んだ。花や幹の生気を、その身に取り入れるかのように。
「いい香り」
 千鶴の真似をし、深く息を肺に入れた。しかし、いくら吸い込んでも香りもなにもしなかった。最初からそうだったのか、それともいつの間にか感じ取れなくなったのか、自分でもよくわからない。
「今年も色っぽいよ」
 千鶴はいたずらっぽい笑みを浮かべた。もう一度あたりを見まわしてから車いすにブレーキをかけ、下半身を少しシートから前にずらした。そして上半身を折り曲げて土に手をつくと、えい、とばかりに車いすから木の根元に飛び降りてしまった。
 突然の行動に面食らった。なにしてんだ。目を開いて声を上げたが、千鶴は笑顔のまま少しずつ木の方へ這っていき、身をあずけた。頬も寄せた。投げ出されていた両脚も引き寄せ、膝を立て幹に寄りかからせた。瞼がゆっくり閉じられた。
 千鶴のそばで車いすを停めた。木の間近にいるのに鼻が感じ取れるのは、朽ちていく木材の埃っぽいにおいと、雨どいの錆のにおいだけだった。このにおいはわかるのにな。口のなかでつぶやいた。
 千鶴を見つめた。瞳を閉じたまま、深くゆったりとした呼吸を繰り返している。このまま眠ってしまいそうだ。
「元気でね」
 ささやきに、かすかな潤みがあった。

 冷え込んだ真冬の深夜、私は千鶴の服を剥ぎ取っていた。
 パーカー、Tシャツ、ブラジャー、上半身を包んでいた服を剥ぐと、下半身に手をかけた。水色のジャージズボン、ゴムの緩んだパンツを力まかせに引き抜いた。紙おむつもずりおろした。べりべり、とテープの剥がれる音が、胸に嫌なざらつきを残した。その間ノートパソコンの画面から漏れる光が、視界の隅に映り続けていた。
 千鶴の全裸に豆電球の光が鈍く滲んだ。オレンジ色のからだに、美しさと醜さを同時に感じた。
 私も服を脱ごうとした時、千鶴が不意に身を起こした。
 細いからだが覆いかぶさってきた。私がしたように、千鶴に服を剥がされた。最後に残った紙おむつはわしづかみで引きちぎられた。力なく垂れ下がった陰茎を見た瞬間、千鶴の瞳から子どものように涙が溢れた。むき出されたまま、今まで目にしたことのなかったその表情を見つめた。なにかを千鶴がささやいた。だが嗚咽がそれを消した。
 私と千鶴は、互いを苛み合った。
 今までのようにいたわり合い、優しく慰め合い、傷を癒し合うような抱擁や愛撫とはまるでかけ離れていた。酷く、醜く、汚く、ひたすら惨めな行為だった。上半身が動くたび、幼子がからくり人形を適当に動かしたみたいに、ふたりの動かない脚が絡まり合った。
 千鶴は泣きながら、私を犯しながら、最初のささやきを繰り返していた。やはり聞き取れなかった。強い痛みを感じた。千鶴が肩に噛みついていた。髪をつかんで離し、頬を打った。千鶴も打ち返した。またささやきが漏れた。さっきからなに言ってんだ。問いかけは喉から出てこなかった。
 蠢いているうち、ふたつのからだがそばのテーブルにぶつかった。書籍や多数の紙切れ、ボールペン、マーカー、付箋といったものが、私たちに振りかかってきた。
 障がい者の性のしくみ。障がい者とセックス。脊髄損傷者の妊娠について。不妊治療。体外受精。書籍の表紙や紙切れには、そんな言葉や単語がいくつも連なっていた。専門の検査や治療を実施している病院や機関らしきリストもあった。それらにはボールペンやマーカーで何本も線が引かれ、さまざまな色の付箋も貼りつけられていた。テーブルの端からノートパソコンのマウスがこぼれ、ぶらぶらと揺れていた。
 おれよりがきが大事なのか。
 くぐもった、自分のものとは思えない声が漏れた。急に全身から力という力が抜け、千鶴のそばに倒れ伏した。喘いでいると、千鶴から脊髄がきしむほどに抱きしめられた。私もおなじように抱きしめた。冬の冷気で凍ったからだを抱き合っていると、またささやきが聞こえた。どうして聞き取れない。噛みしめた頬の裏が傷つき、血の味がした。

「直幸」
 千鶴の声が、遠くから聞こえた。
 重く瞼を開けると、千鶴が心配げに私の肩に手を置き、顔を覗いていた。
 千鶴の指が私の頬を静かに拭った。風邪をひいたように喉が痛い。胸に手をやると、心臓がどぐどぐと波打っている。
「悪い夢、みたの」
 いや、とかぶりを振り、寄りかかっていたクッションから身を起こした。テーブルにはビールや焼酎のボトル、レモン炭酸水、ウーロン茶、チーズ、ポテトチップス、サラミといった簡素な酒肴が並んでいる。ふと眠気を感じて横になってからの意識がない。
「おれ、いつから寝てた」
「焼酎二杯目を半分飲んだところかな。弱くなったね」
 千鶴に注がれたウーロン茶を胃に流した。喉がじりじりと焼ける。確かに酒は弱くなった。缶ビール一本で床に倒れ、そのまま朝を迎えたこともあった。
 ねえ、と千鶴がそっと唇を開いた。
「隣、座らせて」
 首を横に振りかけた。だが千鶴は構わず隣にくると土壁に背をあずけ、両膝を抱え込んだ。彼女の右腕が私の左腕にふれた。こわばりがほんのわずか伝わった。
「どうして、会いに来た」
 ずっと抱いていた疑問をようやく口にした。千鶴は答えなかった。壁から背中を離しかけると、千鶴に腕をつかまれた。そこにいて。ひそやかな声が耳を震わせた。
 一年前、千鶴がこの部屋を去って以来失われていた懐かしい静寂に包まれた。かすかに尿のにおいがする。自分のものなのか、千鶴のものなのか。どちらでもよかった。紙おむつに漏れた尿も便も、私たちにはあたりまえのものだったから。
 私たちは、おなじだった。
 脊髄損傷で下半身が動かず、感覚が失われている。車いすに乗っている。褥そう防止用のクッションも、紙おむつのサイズもおなじだ。時々気づかぬうち足の爪を剥がして靴下に血が滲む。尻に褥そうの手術痕が残り、そこだけ皮膚が白っぽくなっている。排泄管理には気をつけているが、それでも時々失禁する。私は千鶴の便を拭い、千鶴も私の下痢を拭った。
 あなたとわたしは、おなじだね。
 千鶴と私は微笑み合った。
 私たちは、いつも共にいた。
 養護学校で、小学部から高等部までずっとクラスメイトだった。小学部の時は先生に見つからないよう、こっそりと本や漫画の貸し借りをした。中学部では共にバスケットボールクラブに所属した。高等部では図書館で就職試験の問題集を解き合った。
 ずっと、ふたりきりでいよう。
 高等部卒業が間近に迫ったある日、長年抱き続けていた想いを告げた。千鶴は涙と微笑みと共にうなずいてくれた。
 卒業し、ふたり共それぞれの就職先で働きはじめると、すぐ同棲を決意した。どちらの両親からも大反対された。迷いなく私たちは家を出た。特に私は勘当同然だった。
 不動産屋を訪ねまわった。予想はしていたが未成年の、それも車いす利用者の私たちに部屋を貸してくれる大家などおいそれとは見つからなかった。その間、千鶴は健常者の友人宅に居候させてもらった。私は職場の上司に嘘とごまかしを並べたて、資料室を借りて寝泊まりした。床に薄いマットを敷いただけだったので、満足な睡眠をとれる夜は少なかった。就寝前、千鶴と携帯電話で交わすメールだけが慰めだった。互いの心配に大丈夫を重ね合った。千鶴が友人家族と打ち解けられず物置同然の部屋に押し込まれていたこと、食事はコンビニで買って済ませていたこと、トイレが使いづらかったため排泄を控えていたら膀胱炎になり、市販薬だけで強引に治したことは後になってから知らされた。そんな暮らしを半年続けた末、私たちは旭町ハイツに流れ着いた。
 同棲から四年後に「三月十一日」がおとずれた。ふたりとも職場から二時間車いすをこぎ続け、アパートに帰り着いた。再会できた時、千鶴は私に泣きながら抱きついてきた。その後向かったコンビニは人で溢れ、食品棚はほぼ空になっていた。かろうじて手に入ったのはウグイスパンとフルーツサンドだけだった。電気の途絶えた部屋に夜がくると、懐中電灯をテーブルに立てて灯りとした。卓上コンロの炎に手をかざし、一枚の毛布にくるまって寒さをしのいだ。コンロで沸かした湯でひとつ残っていたカップ麺を作り、フルーツサンドと共に分け合って食べた。絶え間なくおとずれる余震と、ラジオから流れるすさまじい津波の被害情報におののきながら長い夜を過ごした。水道は生きていたので、トイレが普段通りできたことだけは本当に救いだった。朝になるとウグイスパンを半分ずつかじった。夕方、電気が復旧すると真っ先にヒーターを点け、凍えたからだをあたためた。
 私たちは、ふたりきりで生きていた。
「千鶴。もう、帰れ」
 焼酎の残りをあおった。千鶴は答えなかった。彼女は今、最初の時とは別の友人のアパートに身を寄せている。
 重く息を吐いて携帯電話を取り、今週はじめに着信していた一通のメールを開いた。

 千鶴です。おひさしぶりです。お変わりなく過ごされていたでしょうか。
 この度、ひとりで暮らすことにしました。引っ越し先は鶴岡です。友香里から転職先を紹介してもらい、なんとかわたしでも住めそうなアパートも見つけられました。あなたといつか眺めた湯野浜海岸の近くで、波の音が聞こえます。そこで心機一転頑張ります。
 もう、山形には戻りません。
 あなたも、どうかお元気で。
 最後に、お願いがあります。
 もう一度だけ、会ってくれませんか。

 メールを閉じ、携帯の電話帳を開いた。もう帰さないといけない。タクシー会社の番号を探していると「あの夜の」と千鶴がささやいた。そのささやきに手が固まった。
「あの夜の夢、みたんでしょ」
「ちがう」首を振った。
「ちがわない」千鶴も首を振った。
「泣いてたじゃない、眠りながら。あの夜みたいに」
 喉の奥からうめきが漏れた。
「直幸、あの夜泣いてたの。お互いぐちゃぐちゃにし合う間、ずっと泣いてた。わたしのからだじゅうに、あなたの涙がこぼれてたの」
 あの夜の断片たちが浮かぶ。断片は千鶴の涙で溢れている。自分の涙はない。
 でも、おれはあの夜、泣いていた。
 気づくと、私は千鶴の手を握っていた。千鶴も私の手を握り返した。
「ごめんなさい」
 千鶴のささやきが潤んだ。
 その時すべてを悟った。あの夜、千鶴は「ごめんなさい」とささやき続けていたことを。あの夜、私に届かなかった言葉を伝えに今日、会いにきたことを。
 あなたを苦しめていたのは、わたし。知ってたの。あなたが時々、布団のなかでパジャマも下着もおむつも全部脱いで、ちぎれるくらいにつかんでたの。勃て、勃てよ、って。わたし、とめられなかった。望んでしまったから。ひとつになりたかったから。赤ちゃん、欲しかったから。
 私も知っていた。「三月十一日」をふたりで生き抜いてから、千鶴が脊髄損傷者の性や不妊治療について、ひそかに調べはじめたことを。普段資料は押し入れの奥にしまい、深夜に取り出してはわずかな灯りの下で読み続けた。千鶴のなかであの日からなにが変わり、芽生えたのか、今も私にはわからない。
 やがて千鶴は資料を広げて私に相談を持ちかけた。苦しい呼吸のなかで答えた。
 ふたりきりじゃ、だめなのか。
 千鶴は一瞬唇を噛んでから、そうだよね、とうなずき資料をかたづけた。だがその後も深夜の作業をやめなかった。ページを繰る音がかすかにするたび、その願いを叶えてあげたいとみずからを苛むたび、重い孤独が膿のごとく胸底にたまり、腐敗していった。
 おれよりがきが大事なのか。
「おれたち、おなじじゃなかったな」
 私の声が、土壁に吸い込まれた。

 翌朝、帰り支度を終えた千鶴を見送った。よく晴れた朝だった。
「さようなら。ありがとう」
 うなずくと、赤い車いすはゆっくりと視界から消えていった。
 どこからかマダムが歩いてきた。いつも通り鉄階段の下でしゃがみ込むと、にゃ、と鳴いた。お、鳴いてくれたな。部屋に一度戻り、猫じゃらしを持ってきてしばらく遊んだ。猫じゃらしの黄色い羽はだいぶぼろぼろになっていた。新しいのを買わないといけない。
 ハナミズキに、会いに行こうか。
 伸びをしながらふと思った。遊びに飽き、眠りはじめていたマダムがまたひと声鳴き、歩き出した。途中、こちらを振り返った。
「いっしょに行ってくれるのか」
 私は車いすをこぎ出した。
 見上げた青空には綿のような白い雲がひとつ流れていた。力強く空を這うさまは、みずからの意志で動いているかのようだった。


                              了

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