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掌編「カッシアリタ」 イチカさんの幸せ

※勝手ながら投げ銭制を再開させていただきます。以前とおなじく全文読めます。

 あ、来たよ。
 リタが右手にある窓の向こうに首を伸ばし、手を振った。おれもつられてリタの視線を追う。黒いダウンジャケットに白のトレーナー、いい感じに着古したジーンズといった、ラフな姿のナカイさんが歩いてきている。事前に聞いていたように背が高く、浮かべた笑みは一見してひとの良さを感じさせる好青年だった。向こうもおれたちに気づいて、手を振り返す。
 ほら、イチカさん。
 リタはテーブルの向かいの席で、すっかり固まっているイチカさんに呼びかけた。イチカさんはテーブルに乗せていた足を一度降ろすと、おそるおそる振り返った。彼女にも気づいたらしいナカイさんが、いちかさんには両手を振る。また笑顔がぱっと浮かんでいた。
 笑った顔が、本当に大好きなんだって。
 リタが言っていた、イチカさんの言葉が浮かぶ。後ろを向いているけど、彼女も今、ナカイさんに負けないくらいの笑顔を返しているのだろう。両手を振り返せないことなど、意味を持たないくらいに。

 リタが、働きはじめて、三ヶ月がたっていた。
 仕事は順調そうだった。持ち前の明るさはやはり職場では好かれているようだ。毎日、サトウさんは仕事中変な冗談を言ってまわりを笑わせるとか、鈴本さんはお昼のご飯を山みたいにてんこ盛りにするとか、リョウコさんは三時のお茶の時間、コーヒーにミルクポーションを必ずみっつ入れるとか。ささいだが、そんな何気無い話題を聞くのは、アパートの部屋で相変わらず体調の悪さでうだうだと寝そべるしかないおれに、一服の安らぎとなっていた。
 このまま、誰かいいひとに出会えたら。
 リタが聞いたら殴られそうな思いを、ほんの少し抱きながら。

 リタが職場で出会い、最初に仲良くなったのが、イチカさんだった。
 幼い頃の交通事故で両腕がほとんど動かせなくなった。両脚もあまり力が入らず、かろうじて歩行できる程度。軽作業ではなく、経理補助の業務に就いている。
 経理だから、当然パソコンを使うわけだが、彼女は両腕が使えない。ではどうするかというと、机に右脚を乗せ、自由のきく足の指でキーボードを叩くのだ。また食事もおなじようにテーブルに右脚を乗せ、指の間に箸やスプーンを挟んで器用に動かし、食べるのだという。
 リタはその様子に最初は驚き、感心したが、すぐに慣れてしまった。イチカさんの脚で日常を過ごす様子が、実に自然で無理がなかったからだね、とリタは言った。そうなるまでには、辛いこともたくさんあったんだろうけど、とも。
 ほどなく、ふたりは昼食を共にする仲になった。イチカさんの年齢はリタのひとつ上。共通する話題には事欠かなかった。小さい頃観たアニメやドラマの話、お互いに虫が嫌いで、カブトムシやクワガタの裏側の、うにうにと脚が動くのが気持ち悪かったとか、蝶の羽の粉を吸ったら死ぬ、とおなじことを思っていたことを知った時は、お腹が痛くなるほど笑いあった。

 ナカイさんが待ち合わせ場所のホテルのラウンジに入ると、ためらいなくイチカさんの隣に座った。
 どうも、遅れちゃってすみません。いや、結構寒いっすね、今日。なんか熱いの飲みたいな。イチカさんはなに飲んでるの。
 ナカイさんはダウンジャケットを脱いで椅子にかけながら、せわしなくしゃべった。
 ちょっと、その前にちゃんと挨拶しないと。
 イチカさんがたしなめると、ナカイさんは、あ、やば、といった表情を浮かべてから、
 リタさん、こんにちは。旦那さん、はじめまして。ナカイです。いつもリタさんにはお世話になってます。
 ナカイさんはせかせかと挨拶すると、膝に手を置き、テーブルに額がつくくらいに礼をした。なんだか落ち着きない小学生みたいで笑いそうになる。その後、そうか、今日おれはリタの夫なんだっけ、と思い出し、おれはこちらこそいつも妻がお世話に、とたどたどしく返すと、横でリタが笑いをこらえていた。

 ナカイさんは入社二年目の新人支援員。高校卒業後すぐ入社したイチカさんからみたら、まだまだ危なっかしい後輩だった。
 小学生みたいな雰囲気で誰にでも親しく接するナカイさんはなんとも憎めない性格をしていた。皆、真剣に仕事をしている最中、ぽろりと、腹減りましたね、などとこぼすと、イチカさんがまだ十時過ぎでしょ、と、たしなめる。そんなやり取りがよくなされた。そのたび、皆の張りつめていた空気がふっとなごみ、また新たな気分で仕事に取り組めるのだった。
 行き帰りのバスに乗る時は真剣な顔つきでイチカさんの肩を支え、乗車を手伝う。そして無事椅子に乗り、ありがとう、と礼を言うと一転、いえいえ、と頬を緩める。イチカさんの頬は、ほんのわずか赤らむ。
 ナカイさんはバスのなかでも皆の中心だった。冗談や、下手なボケを言ってはイチカさんに突っ込まれる、というパターンが定番。
 笑いに包まれるバスのなか、リタはそんな時のイチカさんの表情に、なぜかいつも胸を締めつけられるような感覚を覚えた、と言っていた。

 もしかして。
 リタのなかである疑問が浮かびつつあったある日の昼休み。イチカさんは湯呑みにさしたストローから食後のお茶を一口飲んだ後、ねえ、とリタに振り向いた。
 リタちゃんて、彼氏と暮らしてるんだよね。
 突然の問いかけに、リタは口に運んでいたお茶をこぼしかけたが、ほどなく落ち着くと、うん、まあ、とうなずいた。
 幸せ?
 うん、幸せ。今がいちばん幸せ。
 これも思いがけない問いだったが、リタは即答した。この世でもっともにごりなく答えられる問いだったから。でも今、どうして胸にかすかな罪悪感がよぎったのだろう。
 もしかして。
 リタは最近浮かんでいたあの疑問を、思いきってぶつけてみた。イチカさんは唇にほのかな苦味のある笑みを浮かべてから、
 ほとんど最初からのひとめぼれ。この年で恥ずかしいんだけどさ。
 そう、なんだ。
 もしかして、が当たっていた。だから思い切って疑問を重ねかけた。
 気持ち、打ち明けないの。
 だが、喉元まで出た問いかけを、リタは飲み込んだ。自然だったイチカさんの脚が、ほんの少し震えたのに気づいたから。それがリタには少しだけ胸に重く、視線をふとはずした。
 リタちゃん、お願いがあるの。
 イチカさんが食事をはじめる前に切り出したのは、それから二日後のことだった。
 詳しい話がされて、リタがまかせて、と請け負った後、イチカさんはありがとう、と礼をしてから、リタをのぞきこんだ。
 こないだも訊いたけど、今、幸せなんだよね。
 うん。幸せ。
 イチカさんは、そっか、とだけ優しくつぶやくと、その日のおかずのしょうが焼きをいつも通り足の指で箸を動かしながら食べ、おいしい、と笑った。

 ラウンジでの食事の後、おれたち一行はナカイさんの提案で、ホテルからすぐ近くにあるカラオケ店に向かった。マスクして、距離を取って歌えば大丈夫ですよ、と、彼はさっさと店に予約を入れた。
 一番広い部屋取れましたよ、と強調しながらも、車いすのひとがいるから、と余計な理由をつけない電話の話しぶりに好感が持てた。
 さあ、最近のストレス、発散しましょう。イチカさん、なんにしますか。
 部屋に着くなり、突然トップバッターをまかせられたイチカさんが迷った末選んだ曲をみて、おれもリタも驚いてしまった。イチカさんの選んだ曲が、ヘヴンズの『それがあなたの幸せとしても』だったからだ。

 あなたが抱えてる明日は辛くはないか
 僕にもがいてる文字にひとつ線を引かせて
 あなたが抱えてる今日は救えやしないか
 それでもその肩に優しさを乗せたなら
 また愛を感じられるだろうか

 ナカイさんに持ってもらったマイクに向かい、イチカさんは歌った。少しかすれた声で、全身を使って出す歌声に、誰もが聞き入っていた。リタなどは思わず、といった感じで深い息を吐いたものだ。
 イチカさんはこの曲だけを歌ってしまうと、あたしは元々聞く派だから、と、何度促しても歌おうとしなかった。だから後は残り三人で騒ぎまくった。ナカイさんがサザンを聞き取れないもごもごな歌詞と声で歌うと、おれは歌詞を全部「な」行にしてCHAGE&ASKAをがなりたて、リタはイチカさんも好きなAimerの曲をひたすら歌った。イチカさんは特に「茜さす」が好きなのだといった。さびしい曲だけど、誰かは誰かのそばにいつも寄り添ってくれることを教えてくれる気がするから、と。

 あっという間に三時間がたった。歌い疲れたおれたちは、近くにあるファミレスに向かった。冷たい風が頬や耳をきん、と冷やす。冬の盛りだ。
 簡単な軽食とドリンクバーを頼むと、おれとリタは顔を見合わせた。
 すみません、おれ、ちょっとトイレ行ってきます。導尿なんでリタにも手伝ってもらわないといけないから、ふたりでゆっくりしゃべっててください。
 そう言い残し、おれとリタは席を離れた。イチカさんの顔がすっと固くなるのが、一瞬見えた。
 どう、なるかな。
 バッグからカテーテルなど導尿の道具を用意しながら、ついつぶやきが漏れる。隣で道具を持ってくれているリタは、うつむいたままなにも言わない。ただ黙って、おれの導尿を手伝っていた。さっきのイチカさんとおなじくらい、頬が固まっている。
 いつもより倍の時間をかけて導尿と片付けを済ませると、おれたちはゆっくりと多目的トイレから出た。同時に男子トイレから出てきた若い男に怪訝な目で見られたが、かまっている気持ちの余裕はなかった。
 席に近づくと、そこにはイチカさんしかいなかった。ひとり座って、アイスティをストローですすっている。席についてから見回しても、ドリンクバーで飲み物を取っている様子もない。
 ナカイさんは?
 帰った。というか、無理矢理帰ってもらった。向こうは家に送るまで帰らないって言い張ってたけどね。
 イチカさんは、もう一度アイスティをひとくち飲んでから、
 幸せって、なかなか遠いもんだね。わかってたけどさ。
 おれはなにも言えず、ただ自分の車いすの膝を眺めるしかなかった。
 あーあ、やっちゃったなあ。来週から気まずいよね。自業自得だからしかたないけど。
 ふぅっと息をついて、イチカさんは背もたれに寄りかかる。なんだか急に疲れたみたいな様子だった。
 その時、隣でリタが車いすのブレーキをはずした。席を離れてイチカさんの方に行き、さっきまでナカイさんが着いていたイチカさんの右隣に座った。テーブルに残った冷めたコーヒーに、ナカイさんが何度もイチカさんを振り返りつつ、それでも帰らざるを得なかった姿の残像が残っている気がした。
 イチカさん、ちょっと足、触ってもいい?
 思いがけないリタの申し出に、イチカさんは戸惑いつつも、別にいいけど、と応じた。リタはテーブルに乗っていたイチカさんの足先に、そっと両手を添えた。
 ああ、やっぱり。こんなに冷たくなってるんだね。
 リタは両手でイチカさんの足を包み込み、ゆっくり、優しく、撫ではじめた。
 前から思ってたの。イチカさん、真冬でも靴下とか履けないでしよ。だからいつも冷たそうだなって。それでもさ、イチカさん、そんなことひと言も愚痴ったことなかったよね。
 リタはイチカさんの足をマッサージしながら、ふと視線を下げた。
 でも、時々言ってもいいんだよ。今日は足、冷たいなって。イチカさんが怪我してから、ずっとがんばってきた足なんだもの。たまにはいたわってあげなきゃ。
 イチカさんは、リタが自分の足が包まれているのを、言葉もなく見つめていた。白かったイチカさんの足は、ほのかにだが赤みをおびてきている。
 ねえ、リタちゃん。
 イチカさんが、静かにリタに問いかけた。
 なに?
 今、幸せ?
 うん、幸せ。
 そっか。
 おれは窓の外に目をやった。はらはらと細かい雪が降り続いていた灰色の雲のすきまから青空がのぞき、そこから淡い光の粒が、街中に舞い降りはじめていた。


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