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"成長"とはなんぞや

こんにちは。
この時期、就活していると何度も耳にする「成長」というワード。
僕自身、あらゆる場で「成長したい」と繰り返してきました。「成長して、市場価値のある人材になりたい」と。
しかし今日、ある面談を通して気づかされました。その意志の根底には、「何らかの分野で突き抜けないと食いっぱぐれる、AIに仕事を奪われる時代がくる」という巷の言説に影響された、受動的かつ負のモチベーションがあると。
その言説はもちろん至極真っ当ではあるけれど、果たして自分が主体的に考える「なりたい像」とはどんなものなのだろう。もちろん、"成長したい"という思いは変わりません。自分をアップデートする感覚は味わい続けたい。

しかし、"成長"なんて所詮概念であり、もっと言うと自己満足にも近いと思いました。ただし、そこには「自己満足≠悪」という前提があります。むしろ、自己満足は(会社、社会に価値提供できているという条件の下で)人生において大事な要素なのではないでしょうか。
「ああ、充実した人生だったなあ」そう振り返って逝ければ、僕は幸せです。人生なんて他人が点数を付けられるものではないし、最後は自分にしか評価できないのだから。
ただ、将来「満足に自己満足するため」にも、自分なりの"成長"の定義に向き合うことが必要だと思いました。

まず、自分がどのようなときに"成長"できたと感じたか、過去を振り返ってみました。
結論から言うと、「(あくまで僕の場合は)成長は得ようとして得てきたものではない」ということ。

例えば、大1の夏で行ったアイルランド留学。「留学行ったことないし、一回くらい行っとくか」その程度のきっかけでした。
しかし、いざ行ってみるとあら大変。最初は学校でも街でも英語が全然聞き取れないし、ホームステイではシャワーを5分以上浴びると怒られるし。しかし、想像以上の英語力や生活文化のギャップを実感したからこそ、それを埋めるべく必死になりました。結果、現地での語学の授業は皆勤し、ホストファミリーとも多くのコミュニケーションを取り、良い関係を築くことができたのです。
外でも家でも気の休まらない生活は確かに辛かったけども、今から思えば"成長できた"と自己満足できる経験です。

つまり、僕にとっての"成長"とは、決してそれありきで取り組んだから得られたものではなく、「一生懸命になってたら、いつのまにか一山越えていた」というイメージ。
そして、だからこそ自分が一生懸命になれる仕事や会社をもう一度見極める必要があると感じました。
これまで、「成長できる会社はどこかな〜」くらいの見方で就活を進めていたけれど、その考え自体を変えてみようと思います。


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