【小説】いつか扉が閉まる時 3年生・秋から冬にかけて(3)
一瞬息が止まる。
増野先生が何もしなくて荒れてしまった図書館を、藤井先生がいた当時に戻そうと頑張ったことはあるが、それを誰かに話した覚えはない。
なぜ久保はそんなことを高木先生に言ったのか。
目頭が熱くなるのを感じ、私はそっと深呼吸をする。
「だからお前にも図書館のことを聞いてみるといいとさ。全体を俯瞰した意見を言ってくれるだろうって」
そんな思惑でここに呼ばれたのか。
私は居住まいを正す。
「全体を俯瞰なんて、できるかわかりませんがお話します。藤井先生はカウンターのパソコンに日誌を残しています。そこに色々書いてあるのを偶然読みました」
高木先生は口を挟まず私を見ている。
「司書が兼務だと、図書館の質の高さは保てないと嘆かれていました。
そして私は藤井先生当時の図書館が色々な意味で利用しやすくて好きでした。
だから増野先生が仕事がわからないからと、ちゃんとしてくれないのが悲しかった。
結城先生の時によく閉館になっていたのが残念でした。
森本先生の時は藤井先生がいた頃を思い出せて嬉しくて。
でも多良先生になってから兼務が大変そうで…」
多良先生はきっと精一杯してくれている。
でも。
「一利用者としての意見ですが、開館時間中は司書の先生に図書館にずっといてほしい。そして先生が図書館を良くするために頑張ってくださったら私は嬉しいです」
「そうか」
高木先生は何度もうなずいてくれる。
「でも他の人にも聞いてみてください。私は図書館が好きだからこんな意見になると思うので」
「もちろん他の連中にも聞いてみるよ。塾に行ってる奴ばかりじゃないから、自宅学習期間にも登校する3年は多いだろうしな。橋本は塾には行ってないのか?」
「行ったことがありますが、合わなくて。私は自分のペースで勉強したいんです」
「そう言えば、お母さんが学校の先生だったな。家で勉強見てもらえるのか」
私は笑ってちょっとからかうように言ってみる。
「先生はお子さんの勉強を見てあげてるんですか?」
「耳が痛いなー。確かに自分の子供は後回しになりがちだよ。起きてる時間はあんまり家にいないしな。
とにかくわかった。今日は話を聞かせてもらってありがとな」
「こちらこそ。図書館のことを考えてくださって、ありがとうございます」
「どちらかと言うと学年の生徒のためだけどな。生徒が少しでもストレスなく学校生活を過ごせるよう手を尽くすことが、橋本や図書館のためにもなれば一石二鳥だ」
―今の俺がなりたい俺になることが、その子のためになるといいと思って―
急に久保の言葉が思い出された。
あの時は意味がわからなかったが、久保がなりたい自分になれたら、好きな子を幸せにできると思うということだろうか。
高木先生が生徒のために動くことが、図書館にもプラスになるように。
私は久保と話をしたくなった。
カウンター当番がなくなってからは、廊下ですれ違ったついでに軽く話をするくらいだ。
久保から携帯にメッセージが入ることもない。もちろん私から連絡することも。
それにやっぱりお互い受験生だから、邪魔してはいけないと思ってしまう。
いつか廊下で偶然会ったら、たまにはアイスでも食べに行かない?って誘ってみようか…でももう寒いな。
2学期末テストの数日前。
私は共通テストで数学も受ける。だから理解できないものは今のうちに潰しておきたいのだが、昨日授業でやった問題がわからない。家で参考書やネットで検索してみたものの、説明が今ひとつピンと来ない。
数学担当の先生に教わろうと放課後、職員室を訪ねると「会議が終わるまで待ってて」と言われたので、私は職員室前の長机で数式を前に腕組みをしていた。
苦手科目に力を入れるより得意科目を伸ばした方が良いのでは、という悪魔のささやきが聞こえる。
そしてこんな時に現れるのだ。本校のジゴロが。
「紗枝さん、学校で自習なんて珍しいね」
「先生を待ってるの。久保はどうしたの?」
「提出物を今から出しに行くとこ。…もしかして先生に数学を教わろうとしてる?」
久保は私の数学のノートと参考書を覗き込んでいた。
「まあね。…提出物出してきなよ」
「まだいいよ、それよりどれ?」
「久保の先生は『まだいい』とか思ってないと思う。普通、提出物は授業中に出すでしょ」
「…わかった。じゃ出してくる」と久保は職員室をノックした。
私は先日の高木先生とのやり取りを思い出した。
私が藤井先生の遺志を継ごうとしていた、と久保が言ったこと。
どうしてそう思ったのか聞きたい気もする。
久保が戻ってきて、隣の椅子に座った。
「よかったらわからないところ、見ようか」
「ありがとう、でも大丈夫。先生に頼んでるから」
「奥の部屋で会議してたのがちらっと見えたけど、長引きそうだよ」
そうなの?
「じゃ、明日にするよ」と立ち上がりかけた私に、久保は「俺のこと、避けてる?」と見上げた。
私はびっくりした。
「そんなことないよ、悪いなって思って。お互い受験生だし」
「だから助け合おうって気持ちになってるんだけど?それに、人に教えると俺自身の勉強になるんだ」
ここで断るのは却って感じが悪いかな、と甘えることにした。
私は解説にある「計算途中の式と式の間」が飛躍している気がして、どうして次の式がこうなるかわからなかった部分を見せた。
久保は自分のルーズリーフに式を書き始めた。
そして途中経過を丁寧にわかりやすく教えてくれた。
気付いたら30分ほど時間が過ぎていた。
「後は大丈夫?他にもわからないとこ、ない?」
「先生に聞きたかったところは全部わかった気がする。…ありがとう」
結局先生は来なかったので、今日はとても助かった。
「良かった。じゃ、帰ろうか」と久保はリュックを背負った。
私も立ち上がって、何となく一緒に昇降口に向かった。
周りに誰もいなかったので、私は久保に話しかける。
「この間、高木先生に図書館がこのままでいいのかって聞かれたんだけど」
「ああ、うん」
「それで久保が高木先生に、私が藤井先生の遺志を継ごうとしていたって言ってたって聞いて」
「うん」
「その、何で」
私は立ち止まった。
久保は少しだけ先に歩いていて、付いて来ない私を振り返る。
「どうして、そんな風に思ったの」
久保が戻ってきて私の前に立った。
「私は誰にも言ってなかったのに」声が震えた。
久保は少し困ったようにへらっと笑う。
「見てたら、そうかなって」
そして慌てたように付け加える。
「ちょっと紗枝さん、ここで泣かないで。俺が泣かしてるみたいじゃん…それとも俺の胸で泣く?」
最後はからかい口調だった。
「…絶対泣かない」と私は力強く宣言して、深呼吸をしてから歩き出す。
そのまま無言で昇降口で靴を履き替えて、駐輪場に行く久保に付いていった。
(続く)