実際にトー横に行って気づいた「大人の役割」

以前の記事で私は「トー横にキッズが自殺したのは周りの大人たちの無関心さにある」というようなことを書いた。

我々大人たちがもっと真剣に当事者たちのことを考えねばと言いながらも、ずっとモヤモヤがあった。

そういう自分は、何をした?

普段のボランティアでつらさを抱えている人の話は聞いている。でもそれは安全な場で遠巻きに無関係な他者が言葉を繰り出しているだけではないのか?と。もちろんそうではないこともわかっていつつも、こうした自問自答を抱えつつ過ごしていた。

実際の現場を知らずに何を偉そうに?

そんなふうな心の声が自分の中に芽生えたらもういてもたってもいられなかった。本日実際にトー横に行ってきた。その時の様子と、そこから生じた「つらさを抱えてた人との向き合い方」を書く。


一言で言えばそこは光り輝く非日常の観光地であった


新宿駅東口に出たのは夜の7時過ぎ。平日の新宿は大勢の人でごった返していた。
若者から中年までを中心とした男女がひしめき合い、その中のかなりの割合(3割?)を観光にきてるらしい外国人が占めていた。

観光地かよ!アキバかよ!

そういう自分も「トー横を一目見てやろう」という観光客の一人である。人並みに押されるままあの有名な歌舞伎町の門をくぐってどんどん奥に進んでいく。
そこに広がっていたのはさながらディズニーランドのようなアミューズメントパークであった。

現実を忘れるオモテの世界


焼肉屋や居酒屋が照らす通りをコンカフェ嬢やホストたちが居並ぶ世界。そんな中をその空気に魅せられたものたちが闊歩する非日常の空間。
きらびやかで、華やかで。とにかく至るところにいるイケメンが渋滞していて「なんか…知らんけど…たぁのしぃ〜っ!」って気分になった。
路面店で垣間見える飲食を楽しむ人たち。客引きとそれを取り巻く人たちが皆で楽しげな空気を作り上げている。場の空気が日常の嫌なことやつらさを覆い隠してくれる。その奥にさらに行けばもっと楽しいことが待っている。そんな期待と高揚感が街全体を支配している。

こんな幸せな居場所、他にあるか?

ただ一ヶ所、東宝ビル手前横の広場、その空間一体は違っていた。
そこに入った瞬間「クサっ!」となった。アンモニア臭と体臭。浮浪者特有の匂いが辺りに漂う。そこには人が寄り付かず4、5人の若者のグループが点々と固まって地べたに座って語らっていた。ここが帰る場のない子たちの溜まり場…よく記事にあるトー横キッズの居場所なのだろうか。時間帯の問題なのか最近の摘発の結果なのか、ここに属する子たちの強い存在感は感じなかった。そこにいる子たちの奥に触れればウラが見えてくるのかもしれないが、周辺のオモテのオーラに気圧されてそれすらも「大事なもの剥奪されたあと」のような名残のような感じだった。

そういった一瞬の影がありつつも適度に歩き回った結果「きらびやかな観光地」という印象がやはり一番だった。これは私が「観光客」という立場で訪れた結果であり、もっと「苦しんでいるあなたたちを救いにきました!」という精神で向かっていったら…多分、煙たがられたと思う。
相手の心のウラを見せてもらう。それにはそれなりの覚悟とそれに合う場所が必要なのだ。

オモテを見守るからこそウラが見えてくる


普段の会話にしろ専門家のカウンセリングにしろ安心・安全が用意されないと人は本音を話せない。明るい世界から日常に戻る時、その帰る先が酷ければ酷いほど光の魅力は肥大し、闇の暗さは深くなる。このコントラストがより一層現実をつらく感じさせる。
このままどうなってもいい。いくところまでいって破滅をむかえたい。そんな気持ちが唯一の希望となることも当然のようにある。

大人たちが本当にやるべきことは居場所を奪うことではなくて守ることではないだろうか?
明るくきらびやかな世界を、行き過ぎないよう存続できるように見守る。
歌舞伎町を歩いていてもそこらじゅうに警官が立って目を光らせていた。彼らがいるからこそ一定の秩序が保たれており多少のハメをはずすことが可能になっているのだ。
「そんな場所に行くのはけしからん!」と居場所を奪い閉じ込めることが大人の役割ではない。つらい日常を打ち破ってくれるような強烈な光を浴び続けたいということはそれだけ深い傷があるということだ。オモテの光を浴びればそれですぐ治るわけではない(そこを狙われて余計に傷を深めることだってあるわけで)。自分が抱えていたウラの傷に向き合い、日常に帰る用意をしなければならない時がくる。
そんな時にすぐに理解し声をかけて話を聞くことができるように大人は「見守る」を続けるのだ。
途中で抑制・説得・否定をしたところでそこから反発して余計に強い光を欲するだけだ。
いざという時のために見守り続けること。相手の抱えているオモテとウラと光と闇に気づき、いつか表れる傷に備えて。
それが大人の役割だ。

今の私


私は今までのnoteで散々「死にたい気持ちは話そう!」って言ってきたけど、それは積極性を持てと当事者に課すことにもなっていたんだと気づいた。「待つ」ということも大事なんだと。
ボランティアで、話を聞いている時に特に大事なのは「沈黙」だと教わった。沈黙はお互いが相手の気持ちを思いやる時間であり自分の中に深く潜る、必要な時間なのだ。
ゆっくりと時間をかけて言葉を紡ぐ。そのタイミングを見計らう。

出てきたその一つ一つを互いに噛みしめる。
ポツリポツリとつぶやくようにして前に進む。
深い傷ほどすぐには治らないから。
一つずつを一緒にやるから可能になる。
そんな「大人たち」が、傷ついた子供たちを支えられるんだ。

今回やや唐突にこういった行動に出たのも私自身がメンタルのケアを必要としていたからだ。
つらい人の話を聞くボランティアをしていると自分の中の“癒し手”が私自身を癒してくれるのがわかる。今はそれすらも足りなくて誰かつらい人の「存在を聞いて」癒し、癒されるという救いを強く求めている状態なんだ。もちろん相手に余計な自分の話はしないんだけれども。

つらさを抱えている人はぜひ覚えておいてほしいのだが「あなたのつらさの語りは誰かの癒しになる」ということだ。これは同情や比較といったことではない。
“ああ、この人も私と同じように苦しんでいる”という連帯の気持ちが孤独を和らげ共感を生む。
それが死にたい気持ちからの“上を向く”という一歩につながる。
だからnoteでも他のSNSでも、自分のつらさは吐き出していい。
それがいつかの誰かの“よりどころ”になっているから。

その場は全力で守られるべきものだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?