「死にたいほどの絶望」を語ることをためらうな

誰かに悩みを聞いてもらいたいけれども、悩みを話すということは相手に解決案を出させることを期待しているわけで、逆に「解決案は出さなくてもとりあえず聴いていて欲しい」となると、それはただの愚痴になってしまう。愚痴で他人の時間を奪うことはよくない気もする。よくよく考えるとわりと他人の愚痴を聞いているのは楽しい気もするけれども。
 とはいえ、じゃあ誰に聞かせるとなると難しい。「こいつ、結局愚痴を言いたいだけなのか」と認識されると嫌われてしまう、距離を置かれてしまうかもしれない。できれば悩みを話すような信頼を置く関係の人にそうは思われたくない。

「もうどうせ死ぬしかない」ってあきらめるくらい絶望してもなお、そのことを誰かに話すということをしないのはなぜか?
冒頭のにゃるら氏の言葉にあるように他者への申し訳なさと、どうせ解決しないというあきらめというのが理由ではないだろうか。親や友人といった身近な人にほどその思いは強くなる。だからこそ遠くてお金を介在するようなドライな関係の相手に頼るのが一番良いと私は考えている。
カウンセラーなんてその最たるもので、お金さえ払えばあなたに会って話を聞いてくれる。どんどん好き勝手なこと言って自分の本当の気持ちを話せばいい。なのにそれもできないとなるとそれはあなたの絶望の深さを互いが認識してないという共同責任になる。死にたいほど絶望してるのにまだそれを話せないのはお互い状況を甘く考えているのだ。こんな話聞かされたらきっと迷惑だし嫌われるいう冒頭のにゃるら氏他多くの人が陥る自分勝手な他者への気づかい、それは決めつけだ。今まで散々話してきたけど聞いてくれなかったという経験がそうさせているのかもしれないが、今マジでやばいことはそれそこ全身全霊、命をかけて訴える必要のあることで相手の気持ちを考える余裕なんて全くないはずだ。なのに「迷惑だ」「解決しない」「申し訳ない」なんて勝手な決めつけしてる余裕があるからそれがいわゆる「愚痴」になる。本気の本音をぶちかましてから死ねればいいけどそれもせず中途半端に他者理解だのやさしさを装ってグチグチ言うから他者が「まあ大丈夫だろう」と信じないのだ。

厳しいことを言っているようだが所詮他人は他人だ。あなたが本当に死ぬほど苦しんでるかどうかなんてあなた自身が伝えない限りわかるはずがないのだ。
それでも言えない、身近な人間はやっぱり聞いてくれないとなればやはり「遠くの無関係な人間」に言うのが一番だ。

『レンタル何もしない人』にあれほど依頼人が自分の恥ずかしい本音をさらけ出せるのも、お金を介在させた無関係の他者同士だからだ。だから他人の話を真剣に聞いてくれる。だって関係ないから。カウンセラーだって診察時間が過ぎればただの他人、だがそれでもあなたが絶望を抱えつつも必死に生きていることを知ってくれている人でもある。自分のことを知ってくれている人がいるということが大事なのだ。
もう会わなくなったけどラインだけはつながっている同僚。普段話したことはないけど何となく気になっている相手。そういうことを仕事や生業としている機関。そういう相手をいっぱい作っておくことで何とかつながりができ、死なずに生きるということが可能になる。
「いや、それもやったけどやっぱり聞いてくれないし」と思うならその相手に本気で相談したか思い返してほしい。あなたが抱えている死にたいほどの絶望を全部語れる場と時間を充分に提供しただろうか?その共同作業には「信頼」と「共感」が必要になるし、気づかいや期待なんていう余計なものが入り込む余地なんてない。あるのはただ「私は死ぬほど絶望しています」というあなたの今の気持ちだけだ。
それを吐き出せた時、他者とあなたの関係はその一瞬だけ「世界に2人だけ」になる。

その時あなたはもう独りではなくなる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?