一口エッセイ:カウンセリングしてください
誰かに悩みを聞いてもらいたいけれども、悩みを話すということは相手に解決案を出させることを期待しているわけで、逆に「解決案は出さなくてもとりあえず聴いていて欲しい」となると、それはただの愚痴になってしまう。愚痴で他人の時間を奪うことはよくない気もする。よくよく考えるとわりと他人の愚痴を聞いているのは楽しい気もするけれども。
とはいえ、じゃあ誰に聞かせるとなると難しい。「こいつ、結局愚痴を言いたいだけなのか」と認識されると嫌われてしまう、距離を置かれてしまうかもしれない。できれば悩みを話すような信頼を置く関係の人にそうは思われたくない。ならば自分自身で解消するか解決しなければならないわけで、つまるところストレス発散が必要なのだけれど、そのストレス発散方法で悩んでいるのだった。どうすればストレスのない暮らしに近づけるのだろうか。そんなことはありえないか。
他人と会話がしたいのだろうけど、会話にたどり着くまでが重すぎて苦しい。みんなどのタイミングで誰にどう話を聞いてもらっているのだろうか。カウンセリングなのか。お金を払って傾聴を専門としている人と話すことで、自分は言いたいことを言えるし、相手はお金がもらえるしでwin-winの関係を築くしかないのだろうか。たしかに、コミュニケーションなんて繊細な機微を無料で調整してもらうなんて虫が良すぎる話だな。でも、ビジネスでコミュニケーションしてもらいたくないんだよ。それは贅沢か。
どうすればいいんだ本当に。とりあえず読書をして、映画を観て、気を紛らわせてはいるけれども、読んだ本や観た映画の話をしたい欲求が募るばかりで、けれどもネットの不特定多数には聞かれたくない塩梅で。とにかく誰かにかまって欲しいのかもしれないが、わざわざ何の答えも出せない僕へ連絡をさせるコストを考えると申し訳なく感じる。自分がどこで価値を生み、なにをすれば他人から話しかけてもらえるのか考える必要があるし、きっとそれは正しい手順を踏めば実りのある行為になるのだろうけれど、その正しい手順までの気力が無いから困っているのであって……つまり僕は活力が無いカスなのだなと察してしまうことを避けている。
助けて欲しいけれど、なにがなんなのか自分でも把握していないし、いざ人から何かを誘われると面倒に感じてしまうし、そのくせ誰かと話したい。なにもかもが嫌な気がして、まるで赤子のイヤイヤ期のようだ。赤子はイヤイヤ期を通して自他の境界線を理解して自我を得るらしい。なら、今の僕は自我を見失っているのだろうか。いい歳して。早く死んだ方がいいんじゃないか、そんな人間は。
他人に期待している時点でもう終わっているのに、自ら動ける気持ちしないし、日々なんらかの鬱憤だけは溜まり、仕事の連絡はひっきりなしにくる。なにがこんなにイヤなのだろうか、どこで自分は間違えたのだろうかと、最近ありえたかもしれない岐路について夢想する。しかし、自分がこんな人間性である以上、どうあっても他人に迷惑をかけ続け、多数の人間に嫌われながらみっともなく(みっともないことはかなりイヤで自分なりにカッコつけているつもりではあるけれど)、後ろ指さされながら暮らしていくルートは確定していると気づく。こればかりはどうしようもない。やはり早く死んだ方が世の中のためになるのだが、なんなら死なないだけで社会への復讐になるほどであるなら、むしろ惨めでも生きながらえた方が得でもあるよね。生き死にってそんな損得で考えるものじゃないけれど。
社会への復讐……という執着もそこまでない。なんなら社会は別に僕の存在なんて気にも留めずに回ってきたし、単純に歯車として機能しない僕をシステマチックに弾いただけで、たとえば僕は多種多様なアルバイトで無能な烙印を押されて辞めることを繰り返してきましたが、それもシステム上、当然効率を考えるとそうなるよなと納得はしているのです。リスクは切る。むしろ変に忖度しながら雇うより相手のためになるのだし、システムの中に温情もある。世の中の人たちは社会性とかいうものに穢れつつも、その中に一応の優しさを持っているので責めにくい。僕には、その優しさや善性は、システムと化していく己への贖罪や抵抗に近いものに見える時があって、そのときは怯えてしまう。
怯えるなんて、被害者面してコイツはまたしても最低だな。下手に回れば簡単にガードを固められるからね。サッと地面に仰向けになれば、相手の攻撃方法を限定できる戦法だ。本心に近いのは「軽蔑」なんだろうが、それを言い出すとあなたたちは僕の傲慢さにまた怒りゲージを溜めていくのだろうから、これ以上は黙っているしかない。こうやって多少の挑発を含めることすら、僕の人格の気持ち悪いところそのものなのです。
僕と喋っていると、僕なんかの文章を読んでいると、こうして不快な気持ちだけ残ってモヤモヤするだろうから、やっぱりお金を払ってカウンセリングへ行く決心をつけるべきだよなぁと理解しつつ、事情を知らないカウンセラーに何か話したところで、嘘の理解以外に何を得られるんだと、またスタート地点手前で斜に構えて逆走の準備をしているのだ。やはり死んだ方がいいのだろうけれど、そうはならない図々しさがまた嫌になるよね。本当にイヤだと思ってはいるのだけれど。