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風景は私が見ていなくてもそこに在り続ける すずめの戸締まり(半年振り2回目) 【映画感想文】

あらすじ

九州の静かな町で暮らす17歳の少女・鈴芽(すずめ)は、「扉を探してるんだ」という旅の青年に出会う。彼の後を追うすずめが山中の廃墟で見つけたのは、まるで、そこだけが崩壊から取り残されたようにぽつんとたたずむ、古ぼけた扉。なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばすが...…。やがて、日本各地で次々に開き始める扉。その向こう側からは災いが訪れてしまうため、開いた扉は閉めなければいけないのだという。――星と、夕陽と、朝の空と。迷い込んだその場所には、すべての時間が溶けあったような、空があった――。不思議な扉に導かれ、すずめの“戸締まりの旅”がはじまる。

アニメハック

はじめに

初回の感想ではなくて2回目を観た感想です。お気をつけてください。
あと書くにあたって公式を見に行ってみたら5月27日で終映のようです。意図してなかったけど観れて良かった。私のnoteを読む前に1回目にイマイチだったという感想を持った人は2回目を観に行くのをオススメしておきます。いや別に「君の名は。」とか「天気の子」のようにアマプラに来るだろうからそれを待ってもいいんですけど。

以下は一応自分の言葉で、完全に観たことがある人に向けてネタバレ全開で書きます。ちなみにまだ小説版は読んでいません。今回で読みたくなりました。

感想

2回目の鑑賞でかなり印象が変わって、素直に楽しめたし感動しました。

最初に結論を言ってしまえば、この映画は震災映画であると認識したうえで見た方が良かったんだなと思いました。その方がキャラクターの心情が素直に入ってきます。鈴芽は3・11の被災者である。それが前提としてあるだけでも初回の印象がかなり変わったと思います。ただ制作側も少なくとも公開が始まるまでは受け取り方を誘導したくないでしょうし、私としても2回目であったからスムーズに情報が入ってくる箇所が他にも多かったのでやっぱり2回観るのが一番後腐れがなくて良かったなと、2回目を観た今なら思えます。

私が初回で納得いかなかったポイントとして

・イケメンに見惚れてついていったことがキッカケである
・すずめが封印は解くわ扉は閉めないわで一連の出来事の原因である
・すずめの死を厭わないメンタリティが物語的すぎる
・PAでのサダイジン登場シーン
・芹澤が鈴芽と環を乗せていく途中で途中下車して一服する時のシーン
・オリジナルのファンタジー映画ではなく明確に3・11を示した
・大学生と女子高生が好き合うまでの過程が早く感じた

等がありましたが、それらは2回目の鑑賞で解消されました。以下に書いていきます。

・イケメンに見惚れてついていったことがキッカケである
最初にイケメンが気になってついていったのは物語終盤で幼い鈴芽が見た、高校生になった鈴芽と隣に立つ草太の印象があったためであることがわかります。これは私のような愚昧でなければ気づいた人もいたであろうと思いますが、草太を見た瞬間に鈴芽が「きれい……」と言うので丁寧なミスリードがあったとも言えます。ここ素直に「このイケメン強烈に見覚えがある……どこかで会ったっけ……」って言ってくれてたら良かったのになぁとも思いますが、物語がわかっていれば鈴芽が惹かれた理由がわかりますね。1回目観た時は第一印象として「なんだかなぁ!」と思ってしまいました。

・すずめが封印は解くわ扉は閉めないわで一連の出来事の原因である
これはシンプルにいずれ解ける封印だったってことですよね。かつては不可避であった災害であるミミズを、そこに住まう人々の想いの力で抑えられる封印術を過去の人間が編み出しました。住まう人々の想いが力の源なので定期メンテナンスが必要なものです。それを行なっているのが閉じ師です。そしてそういった存在がいたとしても物語中で語っていたように過去何度も封印をやり直しています。草太の家で書物を読んでいたシーンですね。なので解ける時は解けるんです。ダイジンである要石が抜けかかっていたのも、鈴芽が既に常世に繋がっている扉に居合わせたのもそういうことだったと思います。あそこで例え草太が先に着いていたとしてもいずれ封印は解けていたし、その時居合わせない方が不味い事態になっていたはずです。なんでこんなシンプルなことに思い至らなかったんだろうと思いましたが、草太が丁寧に鈴芽が抜いたせいでって言及するんですよね。草太自身も鈴芽が封印を解いてしまった現場に居なかったので仕方ないことなんですが、私もそれを素直に受け取ってしまっていました。不覚。
結局のところ、ここの思い違いが本当に大きくて草太が意を決して要石になるシーンも鈴芽が草太を救いに行く決断をするシーンも、でも元はと言えば鈴芽のせいだしなぁ……と間違えて考えていたせいで受ける印象が全然違いました。

・すずめの死を厭わないメンタリティが物語的すぎる
これが明確に震災映画であると明示されていた方が良かったと思った一番の理由です。中学校の後戸を締めるシーンで草太に死は怖くないと言ったり、草太のお爺さんとの面会で生きるか死ぬかなんてただの運と言ったり、鈴芽はたしかにここまでの描写で辛い生い立ちであることはわかるが、死を厭わないのはなんか違くない?と感じていました。ただそれが3・11の被災者であるならば話は変わってくるんですよね。鈴芽は辛い生い立ちがあり、母を亡くしているだけではなく、震災により母だけではなく周囲の人を含めて大勢の人が死に、生き残った存在なんですよね。それがわかっていれば鈴芽の心情が自然に入ってきます。

・PAでのサダイジン登場シーン
ここ初回観た時は結構突然に感じたので、観ている最中に解釈がしきれていませんでした。作中で環さんが言うようにそう思ったことが無いとは言わないが、それだけじゃない、それ以上にいっぱいもらったっていう義理親子関係の感動を作りたかったのか、ダイジンとサダイジンの体毛の色や片方にサとつけたように対の存在であることから、陰陽を表していて、かつ2匹は要石で草太にその役割を押し付けられる神のような存在であることから、2匹は神である、2匹いるがゆえに神は2面性を持つ、2面性とは見方によっては”気まぐれ”であるようにも見えます。分たれたとしても陽のダイジン、陰のサダイジンにはそういう成り立ちの神の性質として人と関わる時に気まぐれさを持つってことを示すために環さんにその煽りを受けさせたのかなぁ?それ必要だったかなぁ……うーん?とか考えていたんですが、2回目観た時に、まずあのシーンは、鈴芽と環の関係と、鈴芽とダイジンの関係の対比だってことに気づいたんですよね。
そしてそれがなぜ必要なのか?って考えた時に、最初に鈴芽がダイジンに対してうちの子になる?って唆してしまったのって罪は罪だってことがあるんですよ。あげくにそんなつもりではなかったからと拒絶する。ダイジンは優しくてショボショボになっただけでしたけど神目線からすると身勝手な人間ですよね。ここの回収だと考えるとスッキリするなと。深淵を覗く時以下略みたいな話で、封印が解けたこと自体は鈴芽の責任ではなくても、神に対して不用意な優しさを見せた結果、無慈悲に好意で踏み躙られる。それが起こり得るのが神である。という畏怖の精神をダイジンの描写からは私は感じていて、その絶対的な存在に対する人間側からすると理不尽とも言える罪、その精算があのシーンだったのではないかと思ったんですよね。
鈴芽がダイジンにうちの子になるか聞いた。
環さんが鈴芽に一緒に暮らそうと言った。
鈴芽がダイジンに嫌いと言った。
環さんが鈴芽に私の時間を返してと言った。
お前がした行為はこういうことだぞ、意図してなくても、悪気はなくても、因果は巡って自分に返ってくるぞ、と神意を示したのではないかと感じました。
そして陰陽の話に戻るんですが、ダイジンとサダイジンは白の中の黒、黒の中の白と変身前と変身後で明らかに対になっています。その2匹のバランスがとれていなければ完全な封印はできないでしょう(たぶん、知らんけど)
なのでサダイジンとしては鈴芽のダイジンに対する罪を精算することで鈴芽とダイジンとの関係をフラットに戻し、その罪に連なる草太の要石の権能を引き取る用意をしたことで(うちの子になる?のシーンで草太は椅子になる=要石の権能を渡されている)、ダイジンの要石になる権能が万全になり、また最後に2匹で要石に戻れたのではないかなぁ、と。サダイジンが車中でダイジンの毛繕いしてたのも乱れた陰陽のバランスを整えてたのかなぁ、とかとか……そんな解釈をしました。これだけ書いて小説版で全然違う話を書いてたら赤っ恥です笑

そうなると環さん的にはやっぱりとばっちりといえばとばっちりですがそれは後でちゃんと環さん自身が鈴芽に話して解決するので本当に立派な伯母さんです……。ええ人や……。

・芹澤が鈴芽と環を乗せていく途中で途中下車して一服する時のシーン
芹澤が風景を見て「綺麗だ」っていって、鈴芽が「ここが……?」っていうところ。ここも震災映画であることを示してほしかったシーンですね。初回観た時は鈴芽にはミミズが映っている違う風景が見えているのか?もしかして天気の子のように鈴芽は人という存在から離れようとしている?という伏線かと勘違いしました。被災者としての「ここが……?」なんですよね。このあたりは自分の読解力不足でもあるんですけど……。

・オリジナルのファンタジー映画ではなく明確に3・11を示した
これはもうシンプルにそうならそうと言ってくれよって最初は思っちゃいました。いや言ってたのかもしれん。楽しみすぎて情報を遮断してました。2回目だと気にならなかったですね。

・大学生と女子高生が好き合うまでの過程が早く感じた
「君の名は。」の関係性の変化の描き方が好き過ぎたというのもあるにはあるんですが、なんか性急に感じちゃったんですよね。これにはもうちょっと明確な洞察をしたいところなんですが、2回目だとオチまでわかっていることもあり、二人の心情の変化に注視できたので、言うほどは性急じゃなかったと感じられました。
鈴芽のほうは初回に観た時と比べると、前述したように結局鈴芽のせいなのに何やってんだろコイツはって感情が無く見れたのと開幕の何か気になるの時点で好感度が高かったんだなってのがわかったので、その上であんなことあればそりゃ好きにもなるって素直に思えたし、草太側はイスの姿になっても鈴芽を帰して自分で解決しようとするくらい責任感が強いのは、たぶんおじいさんの態度的に厳格な家庭だったんだろな、草太もたぶん父と母がいない寂しさがありながらも強く生きてきたんだろなってところで、椅子になってしまったことで初めて完璧に人を頼りにした状態で行動を共にした境遇が似た鈴芽にこれまでになかった感情を感じたんだろうなぁってのが見えたので、ええやん!となりました。お幸せに。

というわけで不満点が全て満足点になった!とまでは言わないし自分なりの解釈が入っちゃってるところが多分にあるし、うーーーんって思った人のことや1回目の自分のことを否定はしないんだけど、私はわりと綺麗に解消されました。なるほどなーってなった。初回で納得いかなかったポイントではなかったので書きませんでしたが、草太のおじいちゃんと病院で会うシーンでもうちょっと説明してくれればスッキリできたんじゃないかなとかは思います。ただ元々好きなところは好きだったので(芹澤とか芹澤とか)、好きじゃないところがほぼ無くなってかなり好きな映画の一つになりました。この感想は2回目の鑑賞じゃないと出なかったと思います。なので観て良かったです。まぁただの個人の感想なので無責任に薦めようと思いますが、すずめの戸締まりの鑑賞2回目、面白かったです。5月27日で終映らしいので2回目の鑑賞がまだの方はアリかもしれませんよ。


余談

福岡から東京に行き十年過ごし、東京から福岡に戻り半年経った今、東京で1回目を観た時は田舎の風景に郷愁の念を抱いたが、2回目を観た時には東京の風景に郷愁の念を抱いた。
そして芹澤が綺麗だと言った風景と、被災者としてそれを見る鈴芽のシーン。
新海誠といえば幻想的な田舎の風景であるというのは秒速5cmなどのころから見てきた人にとってはなんとなくイメージとしてあるだろうが、近年(ってほど近年でもないが)では都会の風景も叙情的に描くことでも知られる。
前作の天気の子であったり、今回のすずめの戸締まりであったりは顕著に田舎から東京に来る人と東京にいる人の描写が見られたように思う。
それは外から来る人にとっての東京と、その内にいる時の東京、故郷としての田舎と、旅先として見る田舎、それだけではないあまねく人の立場の違いによる風景の見え方を監督は映画の主題とは別にそこかしこで観客に対して提示しているようで、どれだけこの世界の「風景」というものに愛執を持ってきたのだろうかという創作の偏愛を感じて、胸が痛くなった。


さらに余談

https://filmaga.filmarks.com/articles/203829/

他の感想も読んでみようと検索したら、本当にビックリするくらい書こうとしたことが一致したうえに文章もうまいのでこちらを読んだらいいと思いましたorz

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