読書感想文『パーク・ライフ』吉田 修一著

■タイトル
パーク・ライフ
■著者
吉田 修一
■備考
第117回芥川賞受賞作

『パーク・ライフ』を読了。凡庸な小説だった。

しかし僕が言っている凡庸とは、似たような作品がたくさんあるという意味ではない。中身のドラマ性のなさを凡庸と言っている。

正直感想文を書くのに困る。第一声は「あ、なんかいつの間に読み終わってた」だ。

例えば通勤列車に乗る。都内ならば時間帯で満員となる。そこに居合わせた人たちは皆同じ「通勤」へと立ち向かう戦友とも言える。だが果たして満員の中の何人の顔を覚えているだろうか。知り合い以上の関係値の人、あるいは自分に被害が及びかねないほどのちょっとおかしな行動をとる人、きっとそういうことがない限り誰一人として僕は覚えられないだろう。まるでそんな小説であった。

受賞時の選評を読む。どうやらドラマが起きる前兆の何気ない日々を無理なく描いた現代風俗描写が総じて評価されているようだ。

なるほど確かに。僕にとっても違和感のない、ほどよい日常風景を描いている。それが凡庸という言葉に置き換わり、時間を意識することなく通り過ぎていったからこそ、このような感想となったのだろう。なんと見事な仕掛けだ。僕の第一声にも納得がいく。こりゃあ芥川賞受賞作として妥当だあ、と盲目的に歴史的文学賞を信奉できるだろうか。僕にはできない。

本書への批判は前述と同じくその凡庸さへの指摘である。共感はするが、これも何かが足りない。せっかくなのでもう少し掘り下げて考えてみる。

芥川賞とは何か。新進作家による純文学の中・短編作品のなかから、最も優秀な作品に贈られる賞。純文学とは何か。大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説の総称。芸術性、もとい芸術とは何か。表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。果たして本作はその側面に則っているのだろうか。

原初の芸術について立ち返ってみる。きっとそれはこんなものだろう。一人の原始人がなんとなく地面とかに絵を描き始める。その日の飯を何とかする以外やることを見出せず、ただの暇つぶしとして。満足のいくものが描けないときもあれば、何かの噛み合いで二度と描けない作品ができることもある。いずれにせよ地面に描いたものはじきに波立った空気が粒子の摩擦を起こしたり、大なり小なりの生物の息づきがもたらすこれもまた摩擦によって、その形を保てなくなってくる。原始人は嘆き、永続性を求め始める。葉だろうと、土を押し固めた塊だろうと。手始めはなんでもいい。とにかくそれ自体が独立できるように、周りの影響を及ぼさないような形を見出す。そうして暫定的な永遠を纏わせた作品ができて一旦納得した後は、その瞬間をいつでも思い出せるように飾ったり、擽られた自己顕示欲によって実物や会話を通じて他の奴らに披露する。他の奴らは初めこそその意味を理解できなかったが、次第に何かを見出す。場合によっては、その当時の真新しさをいつでも思い返せるように、欲しがる者さえも出てくる。自分では考え得なかったものを自覚し、先駆者が築いた最短の道を活用してその先や別の枝分かれ先について考え始めたら、また次の何かが出来上がっている。そういう輪廻が芸術であったはずだ。

人は自分にはない意外性という視点を求める。かと思えば、自分と同じ共感性も求める。きっとこれも一つの輪廻なのだろうが、その配分は個々人と時々で異なる。僕はどちらかと言えば、前者の方を多く求める。だからきっとこのモヤつきは僕の個人的趣向にそぐわなかっただけのものとして、黙し溜飲するべきなのだろうが、結局我慢を抑えられないままこうして文章を綴っている。自分の方こそが高尚であると思いたいし、思考をした果てでその確信を持っているから。

共感などという陳腐な概念は時に人を動かし、動かされるときに必要なことだとは理解できるが、あくまで処世術止まりであって僕たちの本業はそこにはないはずだ。身体の進化をひたすら理性と思考に宛てることに費やし生物としての頂点を獲得してきたつもりでいる人間という生き物には、その果てを探り続ける義務があるはずだ。いや、そう進化してきたはずだ。なのに今更疲れたからと言って同類を見つける安寧に浸るというのはいかがなものであろうか。生物である以上人間は全く完璧な存在ではない。緩急という揺らぎによって、時には休息を得る必要もある。だが多くの人間の目によって露呈し、ただ「だよねー」という共感だけを目的として作られたものは作用をもたらし合うものとは言えないのではないかだろうか。それは人類史における理性と思考の発展を何も手伝うことはない。停滞でしかない。振り返るためのただの基準点が関の山である。だとすれば、本作は教科書的な意味合いで受賞したものと捉えられるのかもしれない。

教科書を軽んじてはいない。何が人々の中でどのような処理を為されているのかを思い出させてくれるから。だからといって教科書が文学賞を受賞しても納得できるかと言ったらそうではない。仮にそのようなことが起き得たとしたら、それは日本という国が年間で発行する数多もの新作文学の中から、備忘録じみたものしか見つからなかったことを意味する。長い年月を得て熟成されてきた文学界において、発表したくても発表できなかった結晶達を押しのけた結果、残った珠玉の一作が、その程度のものとして消費されていいはずがない。これだけの理性と思考たちが毎年あらゆる時間と空間をうろつき回り、作品として発表される中で、見出した新発見がゼロだなんて許されていいはずがない。何も見つからなかったから妥協として凡庸な教科書を公然と、今年の誉れるべき事象の巡りとして、盛大に発表するくらいならばそんなもの初めから存在しないほうが余程潔ぎが良い。その醜い商業性の仄かな香りを僕は嗅ぎつけ、泥濘のような想いを、今抱えている。

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