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ゴッホの黄色

 ここ数週間ほど目の前のコップを掴み損ねて飲み物をこぼすことが増えてきて、それは酷い乱視で物が歪んで見えてしまうからだと考えていた。最近の僕は目眩と吐き気が治らなくて、時折耳が聞こえにくくなることがある。そんな日が続いたある朝、突然僕の世界には黄色いフィルタがかかってしまった。

 目が覚めて何気なくゲームを起動したところ大好きな白い髪のキャラクターの髪が薄緑に変わってしまい、それで僕はひどく動揺して、それから数時間どうしていいかわからず狼狽えてから病院に行くことになった。

 不安でどうしたら良いかわからないまま近くに転がっていた適当な服で外に出てみると、世界はすっかり青山真治の「ユリイカ」のようにセピア色に染まっていた。当たり前だけど三十年間生きてきて初めての色の世界は僕を混乱させたし、その時には左耳に膜がかかったようになって音が上手に聞こえず平衡感覚が失われていた。もしかして僕の世界は一生このままなんだろうかと不安になる。夜に差し掛かる隙間の青いはずの世界も黒みのかかった緑色に見えて、目眩のせいで街の灯はハレーションを起こしたように長く尾を引いて見えた。

 何とかたどり着いた駅の近くにある病院で診断を受けて、詳しいことは書かないけれど珍しい病気ではないらしいことを教えられた。珍しいことがあるとすれば普通は片眼にしか起こらないことが多いらしいが僕は両眼ともそうなってしまったらしい。

「ゴッホと同じ黄色です」

 医者はそう言って、僕はこれがゴッホの黄色なんだと教えてもらえた。ひまわりの黄色。人間の肌に塗るなんてまともに考えられないあのポートレートの黄色。診察料を払ってすっかり陽が暮れた街を歩きながら、僕は普段とすっかり変わってしまった街灯を見上げる。

 とにかく、一生続くことじゃないと医者は教えてくれた。再発はするけどそのたび治るものだと。だけど僕はいまそれ以外にも目眩と難聴が起こる異変を抱えていて、世界がその全てを同時に起こすことで自分を拒絶しているように感じられた。

 家に帰った翌朝から、窓という窓を塞いで電気をつけずに過ごすことにした。食事はコンビニで羊羹をたくさん買い込んでおいてそれを一日にひとつ食べる。携帯電話をグレースケール設定にすると色を見なくて済んだのがありがたかった。

 セピア色の世界で過ごす日々を続けた夜、ある時僕は何かを探すように夜の街を歩くことにした。病院に行った日から脱ぎ捨てられていた服を着て。昭和通り沿いの店に身体を擦り付けるようにして上野の方に向けて歩き出す。目眩と経験したことのない色で自分の視界に自信が持てなかったから、そうしないと自分がちゃんと他人や建造物にぶつからずに歩けるか自信がなかった。

 昭和通りを不確かに歩きながら御徒町の裏通りに入ると、繁華街にある色とりどりの灯りが視界をモザイクのように覆い、僕はそれに怯えながら街を通り抜けてなんとか上野公園の交番のそばにある噴水の縁に座り込んだ。様々な種類の人々が目の前を通り過ぎる。スーツ姿の男たちや着飾った女性が代わる代わる喫煙所に出入りし、時折仲睦まじそうな男女や年老いた男性が公園の奥のほうに消えていく。

 僕は長い間胡乱な目つきでそれを眺め、人通りがなくなるたび、何度も噴水のそばと喫煙所を往復しながらゆっくり煙草を吸った。

 平日の夜だったから時間が経つほど街からはひとがいなくなっていく。静かではあったけど僕はまた左耳が殆ど聞こえなくなっていて、イヤホンから流れる音楽がどんな風に鳴っているのかわからなくなっていた。煙草を吸い込んだときにメンソールが肺に染み込む冷たさに安心する。

 拒んでも懇願したとしても、やがて朝が夜を呑み込んでしまうことが、それがどうあっても逃れられないことがたまらなく恐ろしかった。

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