映画に「問われる」―「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト」という〈体験〉
「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト」というアニメ映画があります。この記事は、その映画の感想。ネタバレをめちゃくちゃするわけでもないけれど、留めようとはしません。ただ、多少のネタバレによって「削がれる」ような作品でもないのでは、という思いもある。そんなスタンスで書きます。
「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト」を観に行ってきました。映画館へ。この作品、観ること自体は3度目です。2回は配信で観ました。劇場版が公開されたのは3年前(2021年)。その前段階としてあるTVシリーズは6年前の作品です(他にも舞台やコミカライズなど色々あるようですが割愛しますね)。自分がこの作品に触れたのはおよそ1年前(2023年)。その時勧めてくれた友人からは「劇場版は今も上映イベントやってるから、劇場で観られるといいね」という言葉を頂いていました。とはいえ半信半疑と言うか、「とはいえ~~~~~」という気持ちでした。確かに、シアターで観よう!というファンイベントは色々となされているみたいだけれど、それも局所的なもの。自分が行ける機会が来るものかねえ……
と思っていたら、このたびまさかの3周年記念全国スクリーン上映。自分が住んでいるところ、ではないけれど、おとなりのS賀県でやっているらしい。高速使って車で1時間ちょい。はやる気持ちをあんまり抑えず、仕事もそこそこに高速をかっ飛ばして観に行ってきました。
で、行き着いたのがタイトルのフレーズ。
劇場で観る「劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト」、これは、〈体験〉だ……。
詳細は省きますが、ざっくり言ってこの作品は、主人公の愛城華恋(あいじょう・かれん)さんほか、聖翔音楽学園という学校で舞台俳優になるべく頑張っている人たちが「この先どうすんの? 気合い入れていけよな!」とケツをひっぱたかれる、そんなお話です。
作中では、次へ進む、ということについてこれでもかとばかりに語られます。「次」へ進めよ? 進む「次」はそっちでいいのか? 「次」に進むのをどうして勝手に1人で決めるんだ? あの人を「次」に進ませてやれるのはあなたなんだよ? 「次」に進むのは「あなた」自身なんだよ? などなど。このまとめ方が適切かどうかはわかりませんが。
それぞれのキャラクターは、それぞれの「次」、言い換えればそれぞれの進路に関して、それぞれの大事な人とレヴュー(歌・踊り・バトル・あれやこれや)を繰り広げ、大切なことに気付き、自分のこれまでにケリをつけていきます。圧倒的な歌唱と動きと戦いで見せつけられる、それぞれの気付き・目覚め。これまでの自分にケリを付け、これまで成し遂げてきたものから離れ(塔を降り)、新しいステージ、「次」へ進むことへの覚悟。映画のメッセージとしてはシンプルだなと思っています。
「次へ!」
ただ、その見せ方がものすごい。現実世界で地に足着けて進路を考えているかと思えば、次のカットでは謎空間での謎バトル(等)。百花繚乱です。映像の暴力。情報の奔流。あんなシーンやこんなシーンのコラージュのようでありながら、作品の全体を通して1つの問いがしっかり背骨として通っているので、破綻はない。つながってないがまとまっている。または、まとまっていないがつながっている。
そしてその問いは終わらない。「1+1は?」という問いに対しては「2」と答えることで終わりとすることができます。確定した答えがあり、それ以上には何もない。しかし「次」って、「次」に行ってもそのまた「次」があり得る。この映画で語られる彼女たちの覚悟は、「最終目的地を見つけて定めろ」ではなく、「進み続ける覚悟を決めろ」ということなんでしょうね。その意味では、ある場所で何かを成し遂げた(ひとつの公演でベストを尽くした)としても、そこに留まっていてはいけない(ちなみに、劇場版の前段階としてのTVシリーズのお話は、「ひとつの場所で物事を極める覚悟」の話だったのかなと認識しています。ある場所で上を目指す、縦方向の話。劇場版はそれを踏まえ、「ひとつの場所でてっぺんに達したから終わりじゃないんだよ」というメッセージ、横に進め、広がっていけ、見たことのない景色を見に行け、というメッセージなんだと思います。高く(深く)・広くでものすごくバランスがよろしい。ただ、適当に違うことをしていてもダメで、成長もし続けていなければならない。その点では「進みながら昇っていかなければならない」。終盤の「ロケットブースターを備えた再生産トレイン」がマスドライバー然とした「斜め上」の移動を決めるのには膝を打ちました。そうこなくっちゃ!)。
スクリーンで映画を観る意義ってなんでしょう? デカい画面、スゴい音響、自分がそこに「いる」ような感覚。わかります。それはある。それもある。
ただ、この作品については、上述の要素ももちろんのこと、映画館という[ハコ]の中に入って、出ていくというその一連の流れの中にいる自分が、映画の中で「問い」を引き受けるキャラクターに重なり出す感覚が多分にある。スクリーンの中の出来事が「自分ごと」として観客である自分に向いてくる。そういう点において「劇場で観る」ことの意義がめちゃくちゃ大きい作品だなーーーーーと感じました。実のところ配信で観たときもぼんやりと感じてはいたんですが、実態に体感して確信に変わりました。
そこには、作中でえらく印象的に使用される「電車」という装置も関わってきます。[ハコ]型の乗り物。円運動から線運動を生み出すもの。どこかとどこか、「前(今)」と「次」を繋ぐもの。雨からも風からも守ってくれる(ただし電車の上に乗っていたり、自分が電車になったりした場合はその限りでない)すごいもの。「電車は必ず次の駅へ―― では舞台は? あなたたちは?」このフレーズが、映画の中で幾度となく使われます。
移動手段を示すなら自動車でも飛行機でも良さそうだし、自分の足で歩いても良いんだろうけど、ここはやっぱり(乗客として向き合う)「電車」がいいんでしょうね。進み、止まり、また進み、という適度なストップアンドゴー(自動車は自由かつ細切れすぎるし、飛行機はゴーしてストップして終わり)。人工物としての機構のありようは舞台装置など、舞台を構成するものたちのイメージにも繋がり得ます。乗っている自分の手ではどうしようもない加速減速(停止)は、これまた作中―これは特にTVシリーズで顕著でしたが―で多用される「運命」にも通じる感があります。
さあ彼女たちは自分たちの「次」へ進んでいったよ。電車という[ハコ]に揺られ、次の駅(ちなみにこの作品では、駅に関してはあまり建物としての[ハコ]感がありません。ロンドンにしても謎空間にしてもホームが示されるくらいで、通過点・チェックポイント的な雰囲気が強い。逆説的だな~と思います)へ向かう覚悟が決まったようですよ。
では、今そこで映画館という[ハコ]の中に座っているあなたは? その[ハコ]を出ていったあなたは、どこへ向かい、何をするのか? もといたおうちへ帰るだけ? また、変わらぬ日常の繰り返しに戻ってゆくのですか?
映画から語りかけられ、「問われる」感覚。単なる画面がデカくて音響がスゴくて映像がヤバいアニメ映画の、一方的な〈鑑賞〉にとどまらない、コミュニケーション。〈対話〉であり、〈体験〉ですね。わかります。
はたしてこれは、ものすごい体験でありました。観終わっても2時間くらいは頭の奥のほうがぎゅうぎゅうと痛かった。凄いものを渡されてしまった。もちろんそれは、作品の中で描かれるキャラクタたちの存在感が凄い、動きが凄い、振る舞いが凄いということにもよります。ジャパニーズ・カワイイ・アニメ・ピクチャの彼女らが、それまでの自らを肯定しつつ否定してゆく姿。その奥にある、「普通」を捨てて臨む覚悟。一旦死んで生まれ直すくらいの勢いです。この表現も、大げさなものではない。彼女たちは日本でトップクラスの―地方生まれの人がそこに入学が決まれば地元のテレビが取材に来るくらいの―学校で、しかも学年の代表に選ばれるくらいの人たちです。そんな彼女たちがその場所で安穏とせず(しかけてケツをはたかれる人もいるわけですが)、命がけでそんじょそこらの、妥協でも諦めでもない「次」へ進む覚悟を決めてみせる。そして、それが[ハコ]という類似性で繋がった私達にも「自分ごと」として飛んできます。お前はどうだ? と。
すごいね~で済んでいれば幸福なことでありましたでしょうが、自分にはむしろこれが重い。重すぎた。こういった問いに悩みながら答えを出していくキャラクタたちの物語を画面の中のおはなしとして消費することには手慣れているけれど、それが「自分ごと」になってこっちに向かってくると、「うわぁ!」になってしまう。なまじ映像・演出など、様々な映画としてのクオリティがめちゃくちゃに高い分、こちらでそれを受け止めるの!? となったときの衝撃が大きいったらない。そういえばこの作品、びっくりするくらい「消費者」がいないんですよね。何かを観て「いいねー」「すごいねー」というだけの人がいない。いや、一応出てくるけど、そういうときはかなりモブめいているし、なんとなればTV版の時点で「観客気分なら出ていけ」とまで言われてしまいますからね(それは、「あんたらが表現者だろ!」という理由もあるんですが)。つくづく、行動主体としての「わたし」たちばかりです。単なる鑑賞者として向き合うにも壮絶、だけど、その「問い」を引き受けてみてもまた壮絶。
ですし、また、主人公の愛城華恋というキャラクタがずるい。TVシリーズ(の序盤)において、彼女はわりかしダメダメ主人公然としています。朝も自分ひとりで起きられず、ぽやぽやとしている。先に述べたように、ものすごい学校のものすごい実力者であり、少なくとも自分にとって感情移入をしようにもできなさそうなはずなんですが、そのダメダメさをもってなんだか親しみを持って受け止めてしまう。「ま、こちらもちょっと頑張るか」くらいの気持ちにもなります。なったところで、劇場版で彼女をはじめ、その仲間たちのみせる覚悟の深さ。作中で「普通の女の子の楽しみも捨て」という表現がありますが、それが全然誇大でない。本当に彼女たちは、舞台少女という存在になるべく、あらゆる物を捨てる。これまでに積み重ねてきたものすら、食い尽くしてエネルギーに変えるか燃やし尽くしてしまう。様々なものを捨てていったけれど、残る自分の核みたいなものはどんどんその比重を増していく。何かを本気で頑張る人への「ガチやんw」などの冷笑も少なくないこの世の中で、この作品は重々しく生きることへの讃美でもあるように感じます。
ファンの中には、この映画を(劇場で)何度も観る、という方も少なくありません。少し前は「いい作品だもんなぁ」と思うばかりで、自分は数度観たらいいかなぁ、くらいのものだったんですが、この「問い」を自覚してからは、なんだかその気持ちがわかってきたような気がします(当然ながら、皆が皆問いを求めて行っているわけではないでしょう、ということは言い添えておきますが)。問いと行ってもそれは反語のようなもの、要するに背中を押してもらいたいわけで、この作品にはそのパワーが存分にある、ということ。プロレスラーにビンタで闘魂を注入してもらうものに通じているようにも思う。上述したように、「次」は止まらない。「次」の次に「次」あり。ついつい手が止まったり足が止まったりしてしまう自分も、この作品で背中にロケットブースターでも付けてもらうのがいいんでしょうね。でもやっぱり、たまにでいいかな~~~~ とも、思ってしまう。 わかります?
「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト」は、TVシリーズ(全12話)やその他の関連タイトル含め、Amazon Prime VideoのDアニメストア(500円/月)で視聴可能です!(唐突なダイレクトマーケティング)
本とか買います。