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化現の蝶~天乃アメとぼくが過ごした世界の一隅~

1

 遠くにあると輝いて見えたものが、近くに寄るとただのモノクロだった。何が光っていたのかその物体すら認識できなかった。


 空に浮かぶ星たちとは違う。そこにあるのに届かない。届かないのは星も同じ。


 願ったものほど、遠くなる。ほんとうに好きな人とは結ばれないというのが、ある種人生の定石であるように。願いを超えてそうなると決めてしまえば、それはもう祈りという尊さとはすでに次元の異なる精神的観念となるはずなのに––––。


 凍てつく春––––春なのに凍てつく。


 ぼくがアメを最初に見た季節だった。相変わらず頭痛のする日だった。原因はわからずにいる。わからないことをそのままにしておくのはそれなりに勇気のいることなのかもしれない。


 駅前の路上で弾き語りをしている女の子の前で反射的に足を止めた。たぶん眼鏡をかけているという共通点のその子がどんな唄を唄うのか気になったからだと思う。初めて見かける子だった。


 マイクスタンドとスピーカーだけの簡素なセッティング。裏腹にその子の目標は壮大だった。日本武道館を目指すのだと高らかに宣言した彼女の足元の段ボールに書かれた名は天乃アメ––––知らない。


 黒いワンピースに華奢な身を包み、どことなく高貴な様は路上でアコギを抱えて唄うにはそぐわないように思えた。どこかお洒落なクラブで微少の灯に照らされながら、マイクスタンドの前に立つ方が似合うだろう。ぼくは彼女の影を踏んでいることに気付いて、その場から少し離れた。壁の落書きには誰かの名前が書かれている––––知らない。


 透き通るような、それでいて強かな唄声を聴きながら、この気持ちを整理しておかなければならない気がしていた。


 過去を冷静に振り返ることによって、ぼく自身の人生は、確かに三十年以上生きてきたことを認めつつあった。人生は暇つぶしだと誰かが言っていたが、暇つぶしにしてはスリルと興奮に満ちていた。


 自分の見ている世界が全てではないこと、世界はちゃんとここでも回っていることを確認する。それなのにどうしてか、三十歳を過ぎても、あの海外映画のような壮大な物語が自分の人生にも起こるんじゃないかと、どこかで期待してもいる。まるでお菓子をねだる子供のように。


 一方で年老いたように、人生はこんなもんかと、半ばなにかを悟ったように諦めてもいる。


 次にアメを見たのは、昔組んでいたバンドのドラマー、暁斗に誘われて行ったライブハウスだった。昔、ぼくらが出演していた箱でもあった。久しぶりに呑もうと落ち合ったのだが、その前に彼が行ってみようと言うので、断る理由もなく向かった。この町のライブハウスなんて限られている。


 誰のライブでも良かった。ただ仕事の鬱憤を晴らすめたに、ライブハウスを体感できればそれで––––。


 ぼくは仕事終わりでスーツ姿に革靴、仕事鞄。暁斗は時々新人バンドのサポートでドラムを叩いている。


 舞台には知らないバンドが「いっそくたばっちまった方が楽さ」と唄っている。その続きは「くだばってたまるか」そう続く。


 確か昔ここで「不満のある奴は叫べ!」と叫んでいたバンドがいた。不満はなかったけど、叫んでみた。なにも変わらなかった。いや、すっきりしたのかも知れない。たぶん。


 小さなスタンド席に坐りながら、舞台の上を眺めているぼくの元に彼らはなにかを伝えようとしているように見えた。


 自分たちもあんな風にがむしゃらに唄い、奏でていたのだな––––もうどこか昔の話だった。噛み続けたガムのように、味なんて簡単に無くなる。本当に価値があるのは、噛めば噛むほど味が出るスルメの方だ。

「どう、またやりたくなった?」

「いや、もう未練はないよ」

「ふうん。でも、お前はなにか物足りなさを感じてるんじゃないのか」

「なにに」

「日常にだよ」


 虚を就かれたぼくは二の句が継げなかった。


「まぁ音楽以外でもなんでもいいさ。なんか見つかったらそんときは教えろよ」

「嫌だね」


 ぼくは暁斗の言葉を軽くいなした後で、「あっ」と思わず声を漏らした。

「なに」

「この間––––路上で歌っていた子」

「へぇ」


 暁斗は嘆息したあとで、「この子、ここいらじゃ結構知られてるよ」と言った。


 スポットライトに照らされた天乃アメはサポートメンバーであろうバンドを引き連れて、高らかにロックを唄い上げていた。


 弾き語りのときとは曲調もずいぶん違っていた。洒脱なクラブではないが、黒いワンピースは路上よりこっちの方が幾分似合っている。まるで深い暗闇と同化する様は生き場を見付けた深海魚のようだった。


 そして、一番この場にそぐわない背広姿のぼくは、深海から光を求めて逃げ出したものの、やっぱり違うと今さら居場所の違いに気付いた小魚あたりだろう。


 三度目にぼくらは初めて互いを認識した。ライブハウスで見かけてから、ぼくは彼女のSNSで発表される予定を定期的に確認していた。路上ライブの日取りと場所を確かめて足を運んだ。


 路上ライブのあと、小動物のように丸まりながら片付けをしている彼女に近付いた。

「この間、ライブハウスで見かけました」


 ぼくは思いきって声をかけた。


 彼女のぼくを見上げる瞳はやっぱり小動物みたいにくるりとしていた。少し大きめの丸い眼鏡がよく似合っている。眼鏡の柄は––––なんて言うのかわからない。


 彼女の髪は意思を持っているのかと思うほど、黒よりも黒い漆黒がかえって光を帯びているように見えた。彼女はしばし間を置いてから、ありがとう、そうひと言だけ発した。決して吠えたのではない。

「お兄さん、暇なの?」

「え」

「この後、暇?」

「まぁ、暇だけど」

「じゃあ感想聞かせてよ。私の唄の感想」

「え」

「この間、スタンド席で観ていたスーツの人でしょう」

「え」

「一度も立ち上がらずにずっと上階の真んなかで坐ってたからよく覚えてる」

「え」


 無論、ぼくは戸惑った。レンズの奥に映るくっきり引かれた黒のアイライナーがはっきりした目元を余計に演出している。


 その眼力は、ぼくが言うべき答えがすでになんであるかを知っているような強かさだった。獲物を捉えて、じっと逃がさない。しかし、その黒の中には確かな光が仄見える。


 質問がなんであるかを束の間忘れかけて、ぼくは目の前の奥二重の瞼の奥に吸い込まれそうに––––いや、はっきり言って見惚れていた。


 彼女の瞳の中で白鳥が一羽飛び立った。そのあともう一羽と合流して飛んでいた。ふと懐かしい光景を見た気がしたが、たぶんそうではない。


 景色を目に焼きつけたまま変わらずに十年以上を過ごして来た。


 ぼくも確かにあのステージに立っていて、そこには二十歳のぼくら、彼らが居たのだ。こうやって後からしみじみ気付く、これが人生なのだろう。だから明日を生きて行けるのだろう。


〝いや違う〟


 もともと自分は一人でしかなかったのだ。ステージに上がるときも、ステージを降りるときも。もともとあのステージには、自分一人しかいなかったのだ。


「いいよ」


 ぼくは眼鏡を上げて、ひと言だけ短く告げた。


 彼女は得心したように頷くとギターを抱えて、背負い込んだ。そして、なにもなかったかのように歩き出した。ひとつひとつの動作に自信が漲っているみたいに、歩く意思もしっかりしている。そのあとをぼくは黙って付いて行った。


「ここでいい?」


 アメはファミレスの前で足を止めた。


「いいよ」

 制服を着た店員の男に案内されて、ぼくらは向かい合った。

「そのギター、この間のライブハウスとは違うね。オベーションのセレブリティー」

「うん、これは練習用。もし外で暴漢に襲われたらこれで殴り飛ばすから、あまり高いのは路上では使わない」

「いや、セレブリティーもそこそこすると思うけど」

「よく知ってるね」

「この間ライブハウスで使ってたのは、テイラーのT5でしょ」

「お兄さんもしかして経験者? てか、お兄さんの名前なに」

 矢継ぎ早に来る質問––––いや、尋問に少々狼狽えながら、ぼくは「一ノ瀬才」と告げた。

「いちのせ? いちのせ楽器と一緒じゃん」

「この町の人間にしかわからんぞ、それ」

 すると、彼女は初めて笑顔を見せた。世界が一瞬、明るくなった気がした。

「親戚?」

「全然」

「そっか。アコギもほんとうは国産メーカーのを使いたいんだけど、これっていうのにまだ出会えなくてね。音はもちろん、意匠にもこだわりたいから」

「じっくり探せばいいよ」

「でもエレキは国産。バッカスのテレキャスタイプ。エレキはアイバニーズとかフェルナンデスとか、国内でも魅力あるブランドがちゃんと存在してるよね」

「懐かしい。俺が最初に買ったエレキはアイバニーズのストラトタイプだった。フェルナンデスは俺も好きだな。あと、バッカスは俺もベースなら一本持ってるよ。グラデーションの意匠のものなんだけど」

「え、ほんと? 私のギターもそうだよ。バッカスって紅を基調にした意匠は燃えるような夕暮れだったり、紅葉みたいだったり、青を貴重にしたものは綺麗な浜辺みたいだったり、海の森みたいのだったり––––自然を連想させる感じがすごく好き」

「わかる」

 ぼくの声がうわずった。

「ふふ」

 アメは息を吐くように微笑った。

「ほんとうはね、アコギも音だけで言えばいちのせ楽器で国産の古いアコギでとってもいいのがあったんだ。中古で、たったの一万五千円だったんだけど、旋律が甘美というか、心地いい霧に包まれるような、とにかく自然に曲が出来ちゃうような」

「買わなかったの?」

「迷って、買う決心が付いた三日後に行ったらもう売れちゃってた。あのときはほんとうにがっかりしたよ。だって、あのギターは百万のものよりずっと価値があったんだもん」

「人生ってそんなもんだよ」

「出会った瞬間にはわからない?」

「あとから気付くことがたくさんある」

「そうかもね。まぁでも、お兄さん経験者なら感想聞いてもあんまり参考にならないや」

「どうして。むしろ逆じゃない」

「私はあくまで音楽を知らない人がどう思うかを大切にしたいから。専門的な御託より、まっさらな、素のままの感性にどう響くかが大切だから」


 ぼくはなにも言わなかった。ただ目の前の冷えた紅茶のストロー越しに彼女の表情を窺っていた。


「天乃アメって、本名なの?」

「そうだよ」

 なんの躊躇もなく答える彼女に、ぼくはそれ以上追求する気にはならなかった。でもたぶん本名に当て字して変換したのだろうと勝手に推測した。

「珍しい名前だね」

「ありがとう」

 咄嗟に、果たして自分は彼女の名前を褒めたのだろうかと考えた。


 これといった会話のないままに、アメはぼくの奢りでステーキを頬張り、満足そうな破顔を見せた。子供みたいだった。子供みたいに清らかで純だった。

2


 爾来、ぼくはアメの路上ライブを観察した。というより、ほとんど強制的に足を止められた。


 彼女は演奏中だろうがなんだろうが、通り過ぎようとするぼくを見付けると、「おい、才、私の唄を聴いていきなさい」とマイク越しに引き止める。


 その度、幾人かの聴衆がぼくを振り返る。が、ぼくは知らないふりをしながら、聴衆と同じように振り返り、それとなく他人のふりをする。そして少し離れた所で足を止める––––悪い気はしなかった。

 無論、アメが唄う駅のロータリーは多くの人で輻輳する、ぼくの最寄り駅でもあった。


 正直な話、だんだんと仕事帰りが楽しくなっていた。どうしてかはわからない。仕事から解放された高揚感だけじゃない。ただの暇つぶしにしては、ずいぶんと駅に向かう足取りが軽いことだけは確かだった。


 まるで初恋の相手に会いに行くような、あるいは小さい子供がなけなしのお小遣いを握って、駄菓子屋に行くような感じに似ていたのかもしれない。

 時々そのまま路上に設置された長椅子に坐って話すこともあった。

「どうだった? 今日の演奏」

「経験者の意見は参考にならないんじゃなかったの」

「まぁべつにいいじゃん。才は特別ってことで」


 ぼくは経験者と言えども、特別な才能があったわけではない。当たり障りのない感想しか言えなかった。


 例のファミレスに行くこともあった。アメは相変わらずぼくのお金で満足そうに食事を平らげた。ちなみにその日はエビフライだった。


「バックバンドの人たちはサポート?」

「うん。みんなライブハウスで出会った人たち」

「結構みんな歳いってるよね。その分、上手い」

「そう、みんないい人たちだよ」

 どうやらぼくのギターでは付け入る隙はなさそうだ。

 非日常のような日常で、よくわからないアメとの交流が続いたある日、アメは突飛な依頼をしてきた。

「あのさ、お願いがあるんだけど––––」

「ん?」

「音楽機材を一旦、才の家で預かって欲しい」

 預かってくれない? でなく、預かって欲しいと言い切るところに相変わらず意思の強さが垣間見られた。

「え」

「今週末、お母さんが大学の同窓会とかでこっちに来るんだけど、私のマンションに泊まるの。音楽に没頭してるって知ったらきっと心配するから、お願い」

「なんで。堂々としてればいいじゃん。アメらしくないよ」

「うるさいなぁ。こっちにはこっちの事情があるの」


 アメはそう言って、拗ねた子供のように口を閉し、黙り込んだ。


 こうなるともうぼくが首肯するまでなにも話さないだろう。我慢比べをするつもりはない。

「べつにいいよ」

 肯んずると、アメは「やった、ありがとう!」と目を輝かせた。その目の輝きは不意にぼくの心を照らすようだった。どうしてか、アメと居るとぼくの世界が––––心が––––和らいでいくような気がした。

 結句、運搬も手伝うことになり、アメと駅前ロータリーで落ち合った。
 自転車置き場は広い敷地に奥から整然と自転車が敷き詰められていて、とば口に近付くほど雑然としている。この自転車の数だけこの駅を利用する人がいる。それぞれの目的地があって、それぞれの人生がある。


 無数に拡がる光景が、地球の縮図みたいに思えた。その世界の隅っこを選んで、ぼくは自分の自転車を置いた。


 そこから歩いて階段を登り、ロータリーの待ち合わせ場所に行くと、すでにアメが待っていた。

 白いTシャツに青を基調としたチェック柄のシャツを腰に巻いて、タイトなジーンズ、白のスニーカーというカジュアルな格好で待つアメは、ギターを持っていなければ町に同化した今どきの子だった。


 周りと少し違うのは、彼女は小さな鞄ひとつ持たず、待っている間携帯もいじらず、ただじっと輻輳する人々を観察しているところだった。


「早いね。アメのことだから絶対遅刻すると思った」

「失礼な。私は意外と時間はきっちり守る方だから」


 四方山話をしながらぼくは彼女を自転車置き場に誘導した。


「自転車、意味ある? むしろ邪魔じゃない? ギター三本あるんだよ。それからアンプ、スピーカー、マイクスタンド、それから教本、雑誌。しかもその自転車、小型の無駄にお洒落なやつだし。まぁカゴが付いてるだけ幸いって感じ」

「うるさいなぁ、来ちゃったもんはしょうがないだろう。そんなにあるなら先に言えよ」


 言いながらぼくは自転車のスタンドを地面から解放するように足で小突いた。

「くっ、くっ、くっ」

「なにがおかしいんだよ」

「べつに」


 アメは微笑った。


「だんだん、口調が親しくなって来たなと思って」


 ぼくは自転車を引きながら、どうもアメの調子に狂わされた気がして、片手で頭をかいた。十五分ほど歩いただろうか。住宅街に入ってほどなくアメはマンションの前で足を止めた。


「ここ?」

「うん」

「え、アメってお嬢様なの?」

「べつに。お父さんが医者なだけ。階は違うけどここに叔母さんも住んでいて、おばさんも医師なんだけど––––ほら、あの総合病院で働いてるの」


 アメは少し遠くを指さした。


「私がこっちに出て来るとき、一人暮らしならここが安心だろうって」

「医者の家系なんだ」

「さぁね。私は私だから。でも医師は立派な仕事だとは思ってる」

 アメはオートロックのエントランスからすたすたと歩を進め、エレベーターで八階に上がった。ぼくはほんの幾ばくか鯱鉾しゃちほこ張りながら瀟洒な玄関の扉の前でアメに悟られないように深呼吸した。


「襲ってもいいよ」


 玄関の鍵を開けたアメはそんなぼくを試すように無邪気に振り返った。


「はっ、お前みたいなガキ誰が襲うか」


 言ったが、ぼくは年甲斐にもなく自分が赤面しているのがわかり、わかると尚さら恥ずかしくなった。


 モデルルームのような空間にギターが列んでいた。アメは綺麗好きらしく、その点はぼくと同じだった。


「教本とか音楽雑誌は段ボールに入れておけば、わからないんじゃない? あとスピーカーもこの程度なら一緒に段ボールに入るよ」

 ぼくは提案した。

「そうかもね。その上に適当になにか置いておけばバレないか。このマイクスタンドもケースに入っていれば、物置部屋の隅にでも隠せそう」

「じゃあ持って行くのはギター三本とアンプで済みそうだ」

 アメはオベーションのアコギが入ったソフトケースをリュックのように担ぎ、家庭用アンプを手に持った。


「重くない? 俺がギター二本でもいいよ」

「大丈夫。T5のハードケースの方が絶対大変だから」


 アメは破顔した。

「ギターは才に任せる」


 ぼくはバッカスのテレキャスタイプ(ソフトケース)を担ぎ、T5のハードケース手提げのように持った。


 三本のギターの中でもアメが一番大事にしている二本。ぼくはアメの重さを知った気分だった。重いのか、軽いのか精神的な意味ではわからないが、物理的に重いことだけは確かだ。


「自転車は片手で押すの無理だな。ギターになんかあったらあれだし」

「出勤で使う?」

「いや、歩いても駅には行けるから、その時々なんだよね」

「じゃあ私が今度乗って行くから、ひとまず今日のところはマンションの駐輪場に停めておこうよ」


 そう決まり、ぼくらは汗を掻きながら歩いて、ぼくの住むアパートにたどり着いた。なんとかふたりで一回で運び切れた。


「ほう、どうやら恋人はいないようですな」


 アメは三和土たたきから手で望遠鏡をつくりながら部屋を覗いていた。

「うっ」

「よかった、図星みたいで」


 遠距離恋愛だった彼女と別れてから、もう何年も恋人がいないことは確かだ。物理的な距離を精神的な距離で埋められず、乗り越えられなかったことを思い出した。


 どうやら過ぎ去った過去の全部が全部、味のなくなったガムというわけではないようだ。ほろ苦さが残っている。そんな苦さを振り払うかのようなアメの無邪気さにぼくは救われているのかも知れない。


「これ、ファイヤーバードじゃん」

 彼女の目が一瞬きらきらした––––が、すぐに険しい表情で、口を窄めた。

「ホコリ」

「あぁ、もうだいぶ弾いてないからな」

「私に合わせて、音出してみてよ」

「いや、近所迷惑だろう」

「大丈夫、昼間だから」


 ぼくは仕方なく、除菌シートでファイヤーバードのホコリを拭った。


 チューニングを確かめているとき、ふとアメを見るとすでにT5を抱えて、ぼくの手元をじっと見つめていた。

 彼女の言葉を思い返せば、オベーションでなくT5を選んだということは、どうやらぼくには襲われないと思っているのか、あるいは襲われてもいいと思っているのか、いずれもぼくの部屋に上がるくらいだから警戒はしていないのだろう。


 そんなことを考えながら、逆にぼくの手はまるで初めて女の子の体に触れるかのように震えていた。


 軽く弦を弾くと、ふたりだけの世界のとば口にようやく立てた気がした。


 じゃり、じゃり、じゃり、じゃり、アメはカウントを取るようにピックを持つ手でブラッシングした。T5独特の生音が響く。彼女の弾くコードに、ぼくは震える指でマーシャルのミニアンプから陳腐で気の抜けたようなアルペジオを乗せた。


 出す音はこれでいいのだろうか。正解はわからない。もしかしたら、アメは平然と奏でる表情とは裏腹に、心の中で嘲笑しているかもしれない。不意に目が合ってしまったとき、ぼくは自分でもどんな表情をしていたのかわからなかった。考えるのも怖いくらいだが、おそらく微苦笑らしきものだったろう。


「どうして諦めたの」

 演奏を止めたアメが訊いた。

「ん?」

 ぼくは突然の質問に戸惑い、それを誤魔化すように頭をかいた。

「音楽しかない、絵しかない、小説しかない、写真しかない––––そう思っている人が世の中にどれくらいいると思う?きっとごまんといるよ。だんだん、夢とか目標なんて霞んで見えてくるんだよ」


 アメはムッとした面立ちでぼくをねめつけた。

「目ん玉、歯ブラシで思いっきり擦ったろか」


 冗談でそれとなく言ったつもりだったのだろうが、妙に本格的な関西弁が混じっていた。

「それ歌詞に使えば?」

 ぼくは笑いながら言った。

「アメって関西の出身なの?」

 アメは、しまったという顔をした。行き先を見失った小動物のようにきょとんとした面貌が愛くるしく、ぼくのなかに情愛という名の音を響かせた。

「さっき関西弁だったよね?」

 ぼくは追い討ちをかけるように言った。

「うるさい」

 アメは結局なにも言わなかった。関西弁を遣ったのもそのときが最初で最後だった。

「今はテレビどころか、インターネット動画も普及しているから、方言なんてどんどん薄れていく。それでも、関西弁の影響力はものすごいと思うけど」

「私が関西弁を使ったら、世の中なんでも思い通りになっちゃうからね」

 彼女は子供が悪戯をするのを真似るように微笑んだ。

「ところで、アメは、なんで唄っているの」

「ボンクラ揃いの世の中を斬り裂くため、かな」

「え? そういえば棚に難しい本ばっかりあったけど、あれって勉強しているの?」

「うん。無知って怖いから。身勝手な行動につながるから––––」

 アメはピックをそっと置いた。

「海をひとつ隔てた向こうでは、何万という罪なき人たちが強制労働させられていて、子供の臓器が抜かれて道端に棄てられて、民族弾圧が行われている。そのとき、私たちはなにが出来ると思う? 答えがあるなら教えて欲しい。私たちの国だって他人事じゃない」


 急に真剣な眼差しで難しい話をするアメを見て、ぼくは黙ることしかできなかった。


「本当に私たちは今のままでいいの? 傍観者でいることが正義だとは私はまったく思わない。それに対して非難の声を上げなければ、まるでクラスのいじめを見過ごしてるのと変わらない。誰かが声を上げなければ世のなかも、世界も変わらない」


 ぼくは中学生のとき、いじめられてひとりぼっちでいる子に声をかけられなかった悔しさを思い出した。アメは規模の大きなことを言っているようで、実はそういう身近な出来事と変わらないのだということを言っている。


 中学のとき、数人で電車に乗って三十分かけて繁華街に行ったときの帰路の超満員の電車を思い出していた。

 ぼくは完全に付き合いだったし、行きたくなかった。誰々が彼女に酔っ払ってくだらないメールをしたお詫びになにか買いに行くという至極どうでもいい馬鹿馬鹿しい理由に付き合わされた。

 ぎゅうぎゅうに詰め込まれた乗客の中で、ぼくらの間に見ず知らずのお婆さんが挟まっていたのだが、一緒に来た連中が全員で怪訝な顔をして明らかな不満を態度に表し、舌打ちをしたり、あろうことか肘で少し小突いたりした。

 じっと気まずそうに耐えるお婆さんが自分の祖母に重なり、あまりにも不憫に思えた。ぼくは笑いながら全員を宥めたが、笑顔の裏でそいつら全員の顔面を掴んで電車の窓の外に放り投げてやりたい憤りで一杯だった。きっとそいつらはもうそんなことは覚えていないだろう。


 ぼくは今でもあのお婆さんには申し訳なく思う。そのあとのお婆さんの人生が幸せであることを祈ることしかできなかった。


 あのときもっと毅然とした態度でお婆さんを庇う強さがあったら。勇気ある行動、勇気あるひと言が言えたなら––––。


 それでも恋愛の苦味とは違って、この苦味は消えない方がいいのだろう。この悔恨こそがきっと原動力になっているはずだから。


「アメ」

 ぼくは思わず彼女の名前を呼んだ。

「うん?」

「アメならきっと世界を変えられるよ」

「そうかな? でも、音楽が簡単に海を越えられる時代だから、私は私の唄を届けたい」

「うん」

「本を買うのは、この数千円が僅かながらも現実を教えてくれた著者の懐に入ると思うと、ようやくつながれた気がするからなんだよね」

「うん」

「この世のすべての哀しみも苦しみも、全部吸い上げて天へ還せたらいいのに––––」


 黙ったまま耳を傾けていたぼくは、決然と語るアメの姿に強さと美しさを垣間見た気がした。アメならほんとうにできる気がしたからだ。


「あっ」

 ぼくは思わず声を上げて、窓の外に目を向けた。

「あっ」

 アメも同じように言葉を漏らした。


「これだけの雨音なら、ギターの音色も外には聞こえないよね」


 アメは嬉々として笑った。ギターを弾く事も唄う事もほんとうに好きなのだろう。


 ぼくらは倦むことなく、ひたぶるに音色を奏で続けた。まるで互いを求めるように、ふたりだけの音を追求するように。彼女を抱くよりも甘美な、自分の裸を曝け出すよりも恥ずかしげな、そんな気がした。この遣らずの雨に密かに感謝しながら、苦味がようやく力に変わる気がしていた。


3

 アメと音楽を奏でた日から、ぼくの頭痛は消えていた。心因性だったのだろう。スッと楽になった気がした。言うなれば、目薬を差したときの爽快感とか、喉飴で喉のイガイガが、楽になったときみたいに––––。


 アメは宣言通り、自転車をぼくのアパートに戻しに来てくれた。


「お母さんがね、音楽はもうやめたの?って聞いてきた」


 まるで子供が遠足の報告でもするような屈託のない破顔だった。


「なんて答えたの」


「心の中で奏でてるって言った」


 アメはまた笑った。だけど、すぐに表情を変えた。


「お父さんがよく芸事には才能が必要だろうって。親が才能を口走ってどうするんだろうね。好きこそ物の上手なれ。親ならこれを重視しても良いのに」


「まぁ大抵の親は音楽やることに反対するよ。うちもそうだった。それがロックでしょ」

 ぼくは言いながら父親のことを思い出していた。父はぼくのやることにはすべて反対––––というよりは父が決めた道以外は認めないような狭量な人間だった。団塊の世代特有の自己顕示欲のカタマリから、自分の価値観だけを押し付ける人が多い。

 ぼくはいつも追い詰められ、追い込められ、逃げ場を失った。今でも自分の人生は父親に壊されたとどこかで思っている。その憎悪の念を拭えずに今日まで生きてきた。中学の時から父親もあの町も嫌いになった。でも、アメといると、まるで氷が溶けるように––––そんな過去をしばし忘れられた。


「親の反対を跳ね除けてでも貫くことが、本物の意思かもね。ほんとうは音楽活動は大学卒業までの約束だったんだ。だから––––」


 アメは言った。


 アメの唄うような声に救われていたのかもしれない。そしてぼくはこのとき初めてアメの年齢を知った。

 上京したと聞いたときに十八歳は超えていると思っていたが、どこかで未成年だったらどうしようとも思っていた。

 女性に年齢を訊くのは失礼だとどこかで刷り込まれたような気がして、アメのような若い子であっても訊くに訊けずにいた。くだらない刷り込みではある。どうして正解があるようでないのだろう。

 ならば「失礼ですが・・・」と前置きして訊けばいいのだろうが、泰然自若なアメに対してそういった他人行儀がどうもそぐわない、慇懃無礼になるような気がした。


「アメはアメの信じる道を行きなよ。俺は応援してるから」


 ––––応援してるから。なんと都合のいい言葉だったろう。あとからぼくは、自分で発したこの言葉に嘘は一切ないのに、猛烈な矛盾を感じざるを得なかった。


 アメは定期的にぼくのアパートに遊びに来て、ギターのセッションを申し込んできた。今度はぼくがコードを弾いて、アメがリードのフレーズを即興で乗せた。これがぼくらの会話以上の会話だった。


 ギターさえあれば、発達し過ぎて無感覚になりそうな現代の難解なコンピュータープログラムなんていらないとさえ思えた。


 するうち互いのギターを持ち替えて演奏したりもした。ファイヤーバードの黒いピックガードに刻まれた銀色の鳥がアメの腕のなかに包まれて大事に育まれているみたいだった。


 再びギターを持ち替えて、ぼくの元にファイヤーバードが戻ってくると、自分のギターにどこか安心感を覚えた。ぼくらはいつでも旋律を探して呼吸を合わせていた。


 しばし即興を止めると、付けっぱなしのテレビの中からスーツを着た女の声が聞こえてきた。なにやら会社組織と戦っている。


 ストライプのスーツに派手な化粧と長い髪。靴底をコツコツ鳴らしながら、書類を片手に歩いている。


 ぼくはその音に合わせてなんとなくAmをなぞりながら、ぼんやり見ていた。世のなか、そんなに忙しないのだろうか。いや、きっと忙しないのだ。ぼくだけがのんびりした時間を過ごしている。


「綺麗な女優だね」

 アメが画面から目を離さずに言った。

「あんまりキャリアウーマンみたいな女は嫌だな」

「どうして」

「この女の人は完璧過ぎるよ。こんな人と一緒にいたら疲れる」

「そうなるとA子よりB子、B子を選べばB子に見合う男にしかならないよ」

「別に、それでもいいじゃん」

「人生それなりにしかならないというのは、それなりの選択しかしていないからだよ」


 なるほど。こうやって月並みの人生という名のドツボにハマっていくのだろう。ぼくは妙に納得した。


 働いて得られる金と物欲の解消、翻って働かないで得られる安らぎをどこかでイーブンだと思っていた。本当は働くことによって得られる充実感は後者を勝だろうと知っておきながら––––。


「今言いながら気付いたんだけど、英語って単純だよね。アルファベットと数字しかないんだもん」

「どういうこと」

 ぼくはきょとんとしながら訊き返した。

「例えば今みたいなA子よりB子みたいな対比の話にしても、日本語は甲乙丙、松竹梅とかあるでしょ。松竹梅ってそれだけで格がわかるものだし、奥が深い」

「確かに日本語は平仮名、片仮名、漢字、数字にしても多様な表記があるけど」

「なんか、アルファベットみたいな如何にも人工的な造形には魅力を感じない」


 アメはこちらを見向きもせず、キャリアウーマンを真っ直ぐ見つめていた。やっぱりその瞳はなにか獲物を捉えようとしているように見えた。時間が止まったようにじっとしているアメの姿が正直に愛おしかった。


「そういえば、才が音楽を始めたきっかけは––––」

「憧れたアーティストがいたからだよ」

「それは日本の」

「そうだけど」

「いいね。海外にもたくさん素晴らしいアーティストがいるけど、日本にもまだまだ世の中にはそう認知されていない、うんと素晴らしいアーティストがたくさんいる。決して海外にも負けない」


 ぼくが憧れたアーティストが誰なのかを聞かず、アメは言葉を続けた。ぼくのことなど興味がないと言われている気がした。ぼくとアメは距離が縮まっているのかそうでないのかたまにわからなくなる。


「歌詞にしてもそう。さっきの話の続きみたいになるけど、日本語ってこんなに奥深いんだなって思わせる歌詞が感情を揺さぶる旋律に乗る瞬間がたまらない」

 彼女の言葉はどんどん熱を帯びて行く。

「世界中の音楽を散々聴いて、聴いて、聴き込んできた。もう曲にハマるなんてないと思ったりもする。それなのに出会ってしまう。新しい名曲に。だから私は作り続けるよ」


 アメはひと言、強い決意をもう一度発した。「作り続けるよ」


 アメの決意を表象するように、ぼくの部屋に一時保管していたギターはすべてアメのマンションへ戻って行った。ギターを置くために作った隙間が空っぽになり、妙に空虚さだけが残っていた。


 そんな寂寥を紛らわすように、ぼくはアメと過ごす世界の中で湧き起こる情動を吐き出してみたくなり、なにか新しいことを始めようとしていた。それがnoteだった。今まで文章はそれなりに得意なほうだったが、なにを主題にすべきかはわからないまま、とにかく言葉を綴った。


 新しい事を始めるのに躊躇はなかった。三十歳も二年をすぎると、人生が案外と短いことに気が付く。十代、二十代の頃はあんなにも長く感じていたのに、急にそうじゃないと焦り始めた。人生は短い。


 なにかをすることに迷ったり、躊躇ったりしていたら、その分だけ時間が経過してしまう。一日一日が大事だという、この当たり前を吐き出すだけでも文章になった。


 アメがまるで呼吸をするように唄うのなら、ぼくは息を吐くように文章を書き綴った。


 noteにはたくさんの利用者がいて、情報に溢れていた。自分の発する言葉もその多(さわ)のなかに埋もれている。あの自転車置き場の無数が世の中の縮図だったように、このnoteの世界もそうだった。


4

 相変わらず仕事をしながら、帰り際にアメの路上ライブを見学し、ふたりでファミレスに行ったりする日常が、ただただ愛おしかった。ぽつねんと過ごしていた日々に彩りが生まれた気がした。いや、確実に生まれていた。


 であれば、この事件もまた彩りのひとつだったのかもしれない。その日は仕事帰りに図書館で本を借りる事にして、ぼくはいつもとは反対側の西口に降り立った。

 同じ駅なのに、雑然としている西口には滅多に来ない。ロータリーを歩いていると、下の路上からなにやら言い争う声が聞こえた。


 ぼくが上から覗き込むように見ると、コンビニ前で楽器を手にした市民団体の手合いと女の子が言い合いをしていた。なにを揉めているのだろう。そう思ったのも束の間––––。


「!」


 よく見るとその女の子はアメだった。市民団体のおじさんとおばさんは道路使用許可がどうのこうのと言っている。


 ぼくは急いで階段を駆け降りた。革靴の音を鳴らしながら、ドタバタと––––。


「どうしたの、アメ––––」

「法律の話でなく、倫理の話をしているの。お巡りさんたちはどう思うの? 答えなさいよ」


 アメはぼくに気付かず、相手に向かって叫んでいた。仲裁に入っていた警官たち(婦人警官もいる)も戸惑っていた。

「アメ!」

 ぼくはもう一度叫んだ。

「あぁ、才。なにしてるの––––」

「いや、こっちの台詞だよ」

 相変わらず自分の時間軸を中心に動いている冷静なアメに、ぼくは半ば呆れながら声を出した。

「この人たちがね、迷惑行為をしているから抗議していたの」

「だから、こっちは道路使用許可を取っているんだよ」

 市民団体のおじさんは言った。

「どうなの、お巡りさん」

「いや、こちらでは今すぐに確認できません」

「仮に道路使用許可が出ていたとしたら、こんな場所で許可する警察も、あなた方も間違ってる! まず許可が出ているのかどうかをお巡りさん、本署に連絡して調べてよ」

「は、はぁ、そうは言われても今すぐには」

「この役立たず! 税金泥棒! もういい! 直接総理大臣に言うわ」


 啖呵を切ったアメはすたすたとその場を後にした。

(総理大臣!?) ぼくは瞠目しながらアメを追いかけた。


「あっ、ちょっと!」


 警官が声を上げて引き止めようとしたが、無視したアメはそのまま歩を止めなかった。


 アメを追いながら、さっきの現場を振り返ると嵐が去ったような静けさで、市民団体のおじさんもおばさんも呆然としていた。


「アメ、どうしたんだよ」

「納得できない」

 アメは憤然としていた。

「だからなにが? しかも総理大臣って」


 ぼくらの姿は周りの通行人から痴話喧嘩に見えたことだろう。それでもひとりにはして置けなかった。


「アメ、いい加減止ま––––」


 言い終わらないうちにアメが急に足を止めたので、ぼくは危うくぶつかりそうになった。


 もうこの時点で図書館に行くことは諦めた。二個あるデザートのもうひとつを食べ損なったように。


「西口は駅前とはいえ、図書館の前でもある。あそこで楽器やスピーカー、マイクを使った主張は、図書館の利用者の迷惑になる。館内まで聞こえるの、その雑音は。勉強している学生とか、静かに読書しているお年寄りが気の毒」

「それで怒っていたのか」

「怒っていたというより、彼らのモラルを問うていただけ」

「アメは許可取ってるの」

「許可? なんの」

「いや、普通に考えたら警察の」

「取ってるよ。それに、私がいつも演奏している側は周囲の建物まで距離がある。そこまで音も大きくない。もちろん唄は駅向こうの図書館には届かない。私はたったひとりで唄っているし、音量も抑えているし、誰にも迷惑かけているつもりはない。西口にいるあのわけのわからない連中とは違う。彼らは自分らの主張のために大勢で集ってギターやらマラカスやらでどんちゃん騒ぎして、あれは演奏とは言えない。表現の自由も場を弁えるべき。あんなのと一緒にされたらたまったもんじゃない!」

 アメの声が夜風を切り裂いた。

「うん。アメの気持ちはよくわかった。でもやり方があるよ。警察の本署でまず確かめて、そのあと役所とかにも問い合わせて、場合によっては市議会に陳情を出すとか考えようよ」

「いや、もういい。面倒だからいい。そんなことしている暇があったら、曲を作る」

「アメ––––」


 もしかしたらアメは全部知っているのかもしれない。知っていた上で十人相手にひとりで立ち向かっていたのかもしれない。


「ところで、総理大臣ってのは」

「あぁ、あれはただのはったり。でもいつか会って直接言うことに変わりはない」


 ぼくは思わず笑った。でも、アメはそうではなかった。


「私も––––」

「うん?」

「私も、いつまでも路上にはいられないってよくわかった。いずれもっと多くの人には届けたい。ちゃんとしたライブ会場で。私は必ずこの場所から日本武道館に行く。そのあと、この空も海も越えた向こうへ唄を届ける」


 アメなら出来るよ––––言いかけたその言葉をなぜ飲み込んでしまったのだろう。

 後日、ぼくはくだんの一件を役所に問い合わせた。そもそもどうしてあの雑然とした西口に図書館があるのか。役所の回答は、利用率を上げるため議会で決定したとのことだった。後日そのことをアメに伝えた。

「いかにも木っ端議員と木っ端役人が考えそうなことだね」

 アメは尚さら憤激したようだった。ぼくは予想通りの回答に思わず吹き出してしまった。

「知ってる? 副市長の比留間ってすこぶる評判が悪いの」

「ヒルマン?」

「ふふ。まぁそれでいいよ。ヒルマンはしょっちゅう職員を怒鳴りつけてるんだって。きっとそれだけ自分に自信がない証拠だね」

「へぇ。なんでそんなこと知ってるの?」

「大学の同級生が役所に就職してるんだ。それで嫌な思いしたみたいでさ。それで市長の池井戸は自分の権力保持のためにそのヒルマンを切れないんだって。アホらしい」

「市議会って確か二元代表制ってやつでしょ? 議会は? 議長は?」

「議長もてんで役立たずだって。そもそも議長なんて代わり番こだから、ある程度期数さえ積めば、バカでもアホでもできるんだよ。っていうか議員自体そうじゃん。思想は愚か、住民自治もまともにできない奴らが受け取る報酬って一体なに? やるべきこともやらないで次の市長選は誰々、都議選は誰々って言ってる連中だよ。ほんと馬鹿みたい。主要国の地方議員はほとんどボランティアでやってるっていうのに。ほんらいそうあるべきだと思う。なにかの職業を持った上でバッジを着けるべき。議員を職業化するのは間違ってる」


 そうなんだ、とぼくは相槌を打つだけだった。まぁそんな市長とヒルマンでは西口問題も解決しないのだろうなと漠然と思うだけだった。


「これを言うと、地方議会の軽視だって言われるけど、むしろ逆。重視しているからこその主張だよ。職業化しているからバカらしい権力闘争が生まれるんだから」


 もしかしたら、この一連の出来事がアメの中でなにかしらの変化を与えたのかも知れない。


「それより、なに? それ」

「あぁ。これ? 最近、noteっていう個人メディアみたいなものを初めてさ。文章を書いてるんだ」

「へぇ。どんなこと書いているの?」

「まぁ、その時々だけど、思ったこととか感じたこと、かな」

「ふーん」


 アメは画面を覗き込んだ。


「なんで写真の加工するの。自然の色合いが失われるじゃん」

「こっちの方が目立つかなと思って。そうすればアクセス数も増えるかなって」

「私は自然のままが好き」


 アメならそうだろう。生き方そのものが自然なのだから。ぼくはアメの言葉を引き取らなかったが、ほんとうは加工しているからこそ、加工をしないありのままの自然が一発でわかるようにもなっていた。なにより、ぼく自身が誰よりもありのままの自然に飢えていた。


 noteに添付するための写真を撮りに川原を歩いたときにはっきりそう感じた。そこから見渡す景色は首をどちらの方向に向けるかではっきりと違いがあった。

 左側は川向こうに人工的に造られた複数のマンション。右側は橋。その上を車や人が行き交う。


 右でも左でもない、その真ん中だけが滔々と流れる川の先にすすきが風に揺らいでいて、視界の先には雲がかかった山が見えた。そこだけに自由が拡がっているように見えた。美しいと思った––––見事に自然のものしか目に映らない瞬間が、日常の中でどれくらいあるだろう。

 ぼくは初めて、十代、二十代のときは人工的な造形物にある程度の美を感じていたことに気付き、この齢にしてようやく自然の美を悟ったのかもしれない。いや、きっと子供の頃はちゃんと自然を感じていたのだろう。


〝俺はいつからアメのように自然に生きていけなくなったのだろう〟


 自由に見えて、実はなにもかもが狭量だ。ぼくもアメのように感性だけで生きていたいのだと思う。


「表現の場があるっていうのは素晴らしいことだね。私の路上も、あなたがやっているその、note?も。その気次第でどこでも表現の場になる」

「ぼくが書く理由は表現というより、たぶん、自分が生まれて来てよかったのか、とか、生きていていいのかっていう問いなんだと思う」

「深いのか浅いのか。まぁ才にしては深いということにしましょう」

「どういう意味だよ、それ」

「でもきっと才に出会えた人たちは、出会えてよかったって思ってるよ。それはもう生があることが前提でしょ」

「アメもそう思ってくれてるの?」

「さぁね」

 アメは舌を出して戯けてみせた。


「でもそれはきっとひとりの神様でなくて、たくさんの神様がそうしてくれたんだと思う。あるいはたくさんのご先祖様か」


 アメはぼくの抱える窮屈さを吹き飛ばすように、まるで旋律を奏でるように言った。


 音楽をやっていたことも、これまで生きて来たことも、全部この瞬間の言葉のためにあるのだとしたら––––ぼくは震えそうな心身を初めて自然に任せられた気がした。


6

 ふと、なにか見つけたら教えろよと言っていた暁斗を思い出したが、面倒なので黙っていた。そんなぼくを悟ったのかどうかはわからないが、久しぶりに向こうから連絡がきた。なにやらドラムを叩くらしい。


 当夜、アメからもライブハウスで演奏するという連絡があり、暁斗と同じ会場を指定して来た。

 暁斗がアメのサポートで叩くと知ったのは、当日だった。控室に行くと、アメと暁斗がなにやら親しげに話をしていた。ふたりは扉を開けたぼくに気付くと、ほとんど同時に声を上げた。

「おう、才––––」

「あっ、才––––」

「え、なに。アメちゃん、才の知り合いなの?」

「そうだよ。それよりちゃん付けやめてくれない?大阪のおばちゃんが言う飴ちゃんみたい」


 事態が飲み込めないぼくは目を丸くしていたと思う。


 どうやら急遽出演できなくなったドラムの代わりに、アメのサポートメンバーのひとりが暁斗に声をかけたらしい。

「そういうことか。まさか久しぶりに暁斗が叩くのがアメのサポートとはね」


 ぼくはそう平然を装っていたが、実際はかなり嫉妬していた。アメが唄っている後ろ姿を見ることはなかったからだ。

 心のなかでブツブツ文句を言いながら、この間と同じスタンド席に腰かけた。最後のトリにアメたちは出てきた。


 アメのサポートメンバーは皆、黒の衣装で統一している。暁斗も黒いTシャツに黒のリストバンドを両腕に着けていた。現役時代と変わらない。黙々と叩く正確なリズムも同じ。違ったのは顔だ。

「好きな女を口説くためには完全な姿になる必要がある」


 そう言っていた暁斗がメイクをせずにドラムを叩いている。暁斗も〝自然〟に帰結したのだろうか。いや、そもそもメイクをしないことが自然なわけではない。メイクをするのが自然と捉えられる場面もある。暁斗がメイクをせずに舞台に上がったのは、きっと年齢を重ねて引き算を覚えたからだろう。いや、単に面倒だったからか、それともアメの世界観に合わせたのか。でも合わせたのならメイクをしていたほうが混合するのではないか。やっぱり引き算だろう。そう思うことにした。もっとも、ぼくがコンタクトをやめて眼鏡にしたこともそうだ。

 きっと大人になって引き算を覚えて行くほどに、自然に対しての価値観も変化するのだろう。これが歳を重ねて行くということなのかもしれない。

 五曲を演奏してあっという間にライブは終わった。ぼくは途中、嫉妬なのか、それとも眩しさからか、熱の違いか、少し目を背けてしまった。

「才、帰ろう––––」

 控え室を覗いたぼくにアメはそう声をかけた。

「え、なにお前らそういう関係?」

 暁斗が汗を拭いながら、煙草に火を点けた。

「うん」

 アメは頷いた。暁斗以上に瞠目してぼくはアメを見つめた。

「セッション相手」

 アメは言った。

「え、なにそれ。なんかいやらしいぞ、お前ら」

「うわ、いやらしいって言うことはいやらしいって考えているからでしょ。才、こんな変態ドラマーからは早く逃げよう」

「そうだね」

「おい、ちょっと待て! 打ち上げ行くぞ、打ち上げ!」


 暁斗は足を絡ませて転げそうになりながら、機材を抱えて追いかけてきた。


 ライブハウスを出て、ドタバタと倒けつ転びつしている暁斗を待つ間、ぼくは近くのコインパーキングに停まっている二台の車をぼんやり眺めていた。9259とお揃いのナンバーで、文字は一台が「あ」、もう一台は「め」だった。その文字が「あ」「い」だったら、ぼくらの運命も変わったのだろうか。やがて二世帯らしき家族連れが二台の車に分かれて乗って去って行った。


 ぼくは去り行く車を見つめながら、その日、アメが演奏した最新曲を反芻した。「路上」と題された曲は、この町に対する彼女の最後通牒だったのかもしれない。その日を境にアメの存在は遠くなった。


7

 アメが階段をひとつずつ上って行くたびに、ぼくの心は荒んだ。小さい男だ。


 彼女がぼくの叶えられなかった夢を叶えて行くからではない。ただ単に、彼女が人生を賭けるものの大きさに気付いたからだった。真剣に打ち込めるものがないぼくには、その大きさが重さに変わっていた。


「私はもっと都心に行く。もっと大きな舞台に、日本武道館に立つために」

 むしろ自然な流れだったように思う。

「どうしてそんなに武道館にこだわるの?」

「日本武道館だからこそ、千代田区のあの場所だからこそ、意味があるの」

「ここからでも武道館は行けるよ」

「ここからじゃ、武道館は遠過ぎる」

「ここも一応東京なんだけどな」


 諦めるようにぼくは言った。「まぁ郊外だからな」


「一緒に来てくれない?」

「アメ、俺はここまでだよ」


 ぼくは言葉に詰まった。


「俺が足枷になってはいけない––––」


 アメはなにも言わなかった。うつむくアメを抱き締められたらどんなに楽だろう。


「もうアメといるのも辛いからさ」

「嘘吐かないで」


 ぼくらの間にしばしの沈黙が流れた。「嘘をつくな」というのは、「嘘をつけ」と言ったのかもしれない。言葉のあやは難しいものだ。


「才は、これからも変わらない?」

「いや、変わるよ。世のなかのすべてが変化して行く。変わらないように見えているものでも、実は変わり続けてその今があるというだけのことなんだ」


 孤独––––享楽を味わった時は過ぎ去り、新しい芽吹きを探す。人も情況も時間とともに変わる。なにをもたらし、なにを諭し、なにを教えているのだろう。


 あぁ、もうアメとの蜜月は終曲を告げたのだな––––つくづく思った瞬間だった。


「アメと出会えたこの町を離れられない。アメと出会えたこの町で静かに応援する」


 ほんとうは待っていると言いたかった。


「アメ、そんな顔するなよ。楽しまなきゃ損だよ」

 ぼくはまるで自分に言い聞かせているようにも思えた。


「わかった」


 アメは力なく呟いた。


 目の前で本が一冊倒れた。ぼくは彼女の後ろからそれを眺めていた。彼女はなぜか倒れた本をそのままにして、去り際、横目でぼくを嘲笑うように去って行くようだった。永遠なんて聞こえのいい言葉はきっと存在しない。あったとしても進行型の永遠なのか、停止型の永遠なのかわからない。


 アメは言った。


「水槽の中で餌を与えられて一生安泰に過ごすか、大海で荒波に揉まれても自由に泳ぐか。用意された奇跡を掴みに行かなければ意味をなさない」


 明日になれば運命を信じられるかもしれない。多分ここからが始まりだ。アメとぼくとでは次元が違い過ぎた。あるいはぼくがもう二、三歳だけでも若かったら、その感性に乗ることができたかもしれない。そう思うと同時にぼくはもうすでにトンネルから抜けていたのだ。


「またいつか––––」


 その言葉は二度とその日が来ないことを知っておきながら希望を込めるから切ない。


 アメはきっと武道館の舞台に立つだろう。ギターを背負った彼女の背中を見つめながら、ぼくはそう思った。ぼくもアメも、自分に打ち勝つしかないのだ。負けないためにも。


 それからのぼくは目が覚めるのが恐くなった。アメがもうすぐこの町を出て行ってしまう虚無感を、毎朝現実として受け入れるのが恐かった。その作業に鬱屈していた。


 なにもせずにいるのは防御ばかりしているのと変わらない。この苦痛を跳ね除けるためにはなにかしらの気持ちの切り替え、つまり自分自身の中で攻撃に転じなければならない。


 ようやくそのことに気が付いたのはアメがこの町を出て行く前夜だった。


 深い眠りに就いたぼくは、アメが東京へ行くその日、暁の空がいちめんを覆う頃、夢を見た。

「私は世の中を案じて、世の中を切り取って、唄って行くの」


 アメの声が聞こえた。やがてその声は唄声へ変わり、景色はどこかの巨きな舞台に切り替わる。満員の観客。ぼくはそのなかのひとり。バックバンド、照らす光線。その中心にアメは立っていた。眩い光は、彼女自身から発せられているようでもあった。

 あぁ、武道館だ。


「アメ、夢を叶えたんだね。おめでとう」

「ううん、違う。夢を叶えたはずなのに、どうしてか満たされない。どうしてだろう」


 アメは伏し目がちに言った。長い睫毛がやっぱり印象的だった。ぼくは戸惑った。

「どうしたの、アメ」

「わからない」

「早く唄ってよ」

「自分でもわからない」

「なにがわからない」

「なにがわからないのかすらわからない」

「アメ、しっかりしろ! きみはすべての哀しみ、苦しみを天へ還す役割があるはずだよ」

「!?」

「アメ、しっかり意識を取り戻せ!」

「––––」

「アメ!」

「唄––––私には唄しかない。でも、唄がある」

「そうだよ。唄うんだ。みんながその唄声を待っている」


 ぼくが懸命に伝えると、彼女は満足そうに頷いた。そして彼女は唄い出した。アメが唄っている。アメが今日も唄っている。今この瞬間も。


 次の瞬間、スポットライトがまるで天へ導くようにアメを空へと運んでいるように見えた。やがてアメの黒いワンピースは目を見張るような純白へ変わり、どんどん透明度が高くなり、裸体のようにぼやけたときにはもうはっきりした霞がかかっていた。


 淡雪のように、暁のように、せせらぎのように、あるいは暮れなずむ薄暮のように、すべての四季を纏うように、彼女はたおやかに光の空へ向かう。

 演出にしては、凝りすぎていないだろうか。いや、違う。彼女は天へと還るのだ。ぼくは確信めいた気持ちがあった。


「才、ありがとう」


 微かに彼女の声が聞こえた気がした。


 彼女は清らかさを纏って、遍く哀しみも苦しみを羽根に変えて、天へと運ぶのだろう。そして、彼女が案じていた彼方の空に光を降り注ぎ、安閑と蒼穹を拡げることだろう。


 この雲がきみのいる場所まで流れて行くなら––––ぼくは願いを込めてその姿を見送る。きみがぼくで、ぼくがきみであるように。


 カーテンの間隙から、強く確かな日差しがぼくの顔を照らしていた。睡眠という名の冒険から目覚めるように、その眩しさを受け入れたぼくは、ゆっくりと瞼を開けた。

 今ははっきりと輝いているものを認識できる。窓の向こうで、日輪がはっきりとした形を作っていた。その圧倒的な存在感を誇示するように、蒼天に、天高く、高く。


8

「アメ、聞こえる?」

「うん」

「アメはさ、俺がなんの仕事してるかいっさい聞かなかったよね。ほんとうは俺に興味なんてないんでしょ」

「不動産屋でしょ」

「へ?」

「不動産屋でしょ」

「え、なんで」

「私たち四年前に会ってるじゃない」

「そうなの?」

「私が上京したとき、初めて行ったのが才の勤める不動産だった。あのときカウンターの向こうで死んだ目をした才を見て、あぁ、東京はこういう町なのかと思った」

「あんときはバンドやめた直後で、やさぐれていたからなぁ」

「きみはいつも辛そうだった」

「そんなことはない。アメといられて幸せだった」

「ほんとうに?」

「うん」

「時々、才が働く不動産屋の前を通ってたんだ」

「なんだよ、早く言ってよ」

「才はどうして私のそばにいてくれたの?」

「人が––––いや、アメが夢に近付いて行く過程を見てみたかったからかな。数年後か、十年後か、いつかわからないけどアメがその夢を叶えたそのとき、そばに誰がいるのかわからないけど、一度しかないその過程を一緒に過ごしたら––––いつかアメに思い出してもらえるかなって」


「思い出すことなんてしないよ。だって私はずっと––––」


 白いベールに包まれた世界でぼくらは言葉を交わした。


 ぼくは今でも時々、もしかしたらアメがこの町にふらっと戻って来ていて、ふと扉の外からぼくのことを見守ってくれているような気がしている。 


【完】

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