話しても分かり合えない
皆さまご機嫌いかがでしょうか。ヨガインストラクターで日本茶アドバイザーの まるやま ゆみ です。
私の文章に目に止めていただきありがとうございます。
先日、私にとっては興味深い出来事が起こりました。皆さんからしたら、何てことも無い、些細な話だろうと思います。
誘いを断りたい
ちょっとお断りしたいなぁと思うお誘いがあったのです。
会場は自宅からものすごく近い。電車なら30分以内で到着。自転車でも行けちゃう。更に開催日は三連休。
行けないわけがありません。
他の用事がバッティングしているので、行けない理由はあるのです。
但し、調整さえすれば行ける。なんせ、近いんだもの。
でも、気乗りしない。
ただその一点が譲れない。どうしても気乗りしない。
「残念ですが…」とお断りのメッセージを送りました。
しかし何故か、「顔出すだけでも!」と前向きな返答が。
いやいやいや!
顔出すだけなら意味なさそうな用事だったから、そう書いたじゃない??
仲間の一人に事の顛末を話したところ、その人はあっさり不参加を了承されたそう。
あれ?
相手の気持ちで全てが決まる
仲間と話した結果、受け取り手の問題だという結論に達しました。
話せば分かると言う名台詞(?)を残して犬養毅は5・15事件で青年将校に暗殺されたのを見ても分かるように、人と人とは話せば分かるわけではないのだと思います。
分かり合えないからこそルールや法律があるのだとも思います。
法律について専門的に学んだわけでは無いので、分からないことが多いのですが、日本の法律って性善説を基に出来上がっている気がするのですが…。どうなんでしょう。
最近それを感じる出来事もありましたね。選挙ポスターの件とか。
あなたの本音は分からない
規模の小さい話に戻しましょう。
私はなるべくその人の発言や行動の意図をくみ取りたいと考えているのですが、どうして私フィルターを通してくみ取ることになりますから、本当に相手のことを理解したかどうかは、正直不安です。
結論、「あなたの本音は分からないよ」というスタンスを崩さないのが、本当の優しさなのではないかと考えるようになりました。
視覚障がいを始めとして、様々な障がいを持つ方にヨガ指導をする機会をいただいております。本当にありがたいご縁です。
なるべく、参加される方に寄り添いたいと思うけど、その障がいを抱えていない私には分からないことがやっぱりあります。
目が見えない人の気持ちも、耳が聞こえない人の気持ちも、本当のところは分かりません。
分かったふりをされたり、変に同情したり、賞賛される方がよっぽど気分が悪いのではないかと思います。
インドの教え
ヨーガ・スートラ第一章8節にこんな言葉があります。
ヨーガ・スートラを解説している本には、湖に映ったモノに例えて説明されることが多いのですが、風により湖面にさざ波が立っている時にはモノが歪んで正しい姿を映すことはできないとかなんとか書かれています。
私たちの心がザワザワしていたり、浮かれていたり、落ち込んだりしている時、正しい姿を映すことは難しい。という事だと思います。
話し合っても分かり合える保証はどこにもありませんが、だから話し合う必要はあるだろうとも思います。
話し合うというより、分かり合おうとする気持ちですかね。どちらかというと。
そして、分かり合えることはないのだという、気持ちも大事にした方が良いと思っています。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
また、読みに来ていただけたら嬉しいです。
それでは。
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