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インド哲学を学んで生き方を反省した話

皆さまご機嫌いかがでしょうか。ヨガインストラクターで日本茶アドバイザーの まるやま ゆみ です。
私の文章に目に止めていただきありがとうございます。

ヨガインストラクターなら、必ず一度は目にしたことがある本。
それが、ヨーガ・スートラです。今回はヨーガ・スートラのお話。

インドの哲学

教科書的にはインド哲学には主に6学派あり、その中にヨーガ学派というものがあります。

私が教えているヨガの基礎というか基盤というか。支えになっている思想です。

インドの多くの人々は、輪廻転生を信じています。

そして基本的にもう絶対生まれ変わりたくないという点は一致しているのですが、どうしたら輪廻の連鎖が止まるのかという方法論について随分いろんな説が展開されています。

その中の一つがヨーガ学派。

私の中では「うじうじ悩んでないでとりあえず動いてみようよ!」というイメージです。(詳しい人から怒られそう)

ヨーガ・スートラの八支則

2年ほど前に、現在のヨガの師の元でティーチャートレーニングが開かれました。

生徒は10人。

私はそこに入るには経験が少なすぎるのですが、マスク必須のあの時期に休まず通い続けていたおかげで、ティーチャートレーニングに参加することができました。

そこで、ヤマニヤマに関するレポートを提出する課題が最後に出されたのです。

ヤマとニヤマという言葉ですが、ヨガを続けていると聞いたことがあるという方もいらっしゃるかもしれません。ヨーガ・スートラのメインテーマです。

ヨーガ・スートラに記されているヨガ求道者の最終目的(サマーディー)へ至る手段で、八段階に分かれた目的へのステップ(アシュターンガ・ヨガ)における第一段階と第二段階のこと。

具体的には…

●ヤマ…外面的な道徳律
非暴力(アヒンサー)、真実(サティア)、不盗(アステヤ)、禁欲(ブラフマチャリヤ)、慎ましい生活(アパリグラハ)
●ニヤマ…個人的倫理
清廉さ(サウチャ)、満足(サントーシャ)、持続的な修練(タパス)、自習(スヴァーディヤーヤ)、神への謙虚な服従(イーシュヴァラ•プラニダーラ)

といったものです。

で、レポート作成にあたり改めてこの八支則を読み返すと、私のそれまでのヨガ指導者としての姿勢について猛省を促されたのです。

私に欠けていたもの

私の指導にはアパリグラハ(慎ましい生活)とスワーディヤーヤ(自習)の精神が欠けていたのではないか。レポートの為に改めて調べると耳(目?)が痛い言葉が次々と飛び込んできます。

一般の人間生活は、絶え間ない欲求の混乱と、それによる不満と、それに対する反応で精一杯であり、それゆえに心のバランスを保つことがほとんどできない状態である。

B・K・Sアイアンガー著 沖正弘監訳 ハタヨガの真髄 白揚社

上の一文は、アイアンガー先生が、会ったことも無い私の問題点をズバリ言い当てられていると思い言葉を失いました。

指導を始めた頃は一人でも生徒さんが来てくれたらありがたいと思っていたのに、しばらくすると生徒数が増えないことばかりに目がいき、それがストレスとなっていました。

恐らく生徒が増えなかったのは、生徒が満足しなかったからです。私の指導では、生徒一人一人がヨガに通う目的を持ち続けられなかった。

要するに面白くない、お金を払う価値が無かったのだろうと思います。

で、当時は自分に知識が無いから面白くできないんだと思っていて、いろいろ講座に通ったり本を読み漁ったりしていました。

確かにそれも一つの原因だろうとは思います。
でも、私に一番足りなかったのは自分が思っているヨガの良さを伝える熱量と伝える時の思いやりと謙虚さ。そしてそれを伝える技術だったと気付かされました。

謎の宗教にハマったヨガスタジオでヨガに絶望してしまった私は、当時ヨガに対する熱量が覚めていました。

技術というのは「説明し過ぎず、ポイントを絞った、聞きやすい(=受け取りやすい)話し方」であると今は考えています。
以前は、覚えたことをこれでもかと説明していく、独りよがりで上から目線な指導だったと思います。

スワディヤーヤは、講師が無知な聴衆の前で自分の知識を並べたてている、単なる説教や講義を聞くような学習を意味していない。スワディヤーヤを習得していれば、講師と学ぶ者の心は一体となることができ、お互いに愛し合い、尊敬し合うのである。

B・K・Sアイアンガー著 沖正弘監訳 ハタヨガの真髄 白揚社

あぁ、耳が痛い。痛いよぅ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。
また、読みに来ていただけたら嬉しいです。
それでは。

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