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「眼高手低」 表現者は、目は肥えているが、表現する力が低い…… -⑪


 安部龍太郎の「等伯」を読んでいて、強く思った。

『この小説は、この瞬間を描写するために全ての時間と資料と労力を費やして来たんだな』と、深く強く思った。そう思わされた、といいあらためたいほどの衝撃を持って、その部分を読み終えた。

 そのシーンとは、後の世に「国宝」とされた「松林図屏風」を描き始めてから描き上げるまでのシーンである。

 いままで、数多くの小説を読んだが、これ程までに深く強く感銘を受けた作品に出会ったことはない。確信を持って、そう断言できる。それは私に限った事なのかも知れない。他の人が、この作品を読んで私が感じたほどの感動を受けるかどうかは、確約できない。人によって、その感度の程もまた、感銘を受ける種類も違うだろう。ただ、私は深く感動を受けた。しかも、表現の巧さに、衝撃を受けた。

「松林図屏風」は長谷川等伯が、自刀させられた千利休と「裏狩野」によって暗殺された彼の息子・久蔵への鎮魂歌である、との説もある。安部龍太郎は、そ説に基づいて「松林図屏風」の制作風景を描き上げている。そこでは等伯がこの一枚を書き上げるために、どれほどまでなのか、計り知れないほどの心の葛藤の末に描き上げたかが、描かれる。

 さて、タイトルの「眼高手低」に触れたい。この言葉が意味するものは、「表現者の目は肥えているが、表現のための技が低い」と言うことである。まさに今の私は、その通りであると認めたい。良いものは良いと言える。しかし、それに見合う様な表現をする技術を私が持っているかとう言うと、決して、それだけの技術を持っているとは思ない。安部の「等伯」を読んで、「彼我の距離」が、さらに遠のいて行っている様に思て来た。その、ギャップを埋めることができなければ、志を立てた「蜉蝣版・長谷川等伯」を書き上げることはできそうにない、と諦めたくはないのだが……。     (※絵と本文は関係ありません)

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