協力者を得るための、作品への情熱の熱量
早朝。会社に向かう道すがら、自宅を出て緑豊かな公園を通り抜けようと歩いていた。その時、小説•俵屋宗達の冒頭部分が突然、天から降って来た。その場で立ち止まりスマホを取り出して、ポチポチ打ち込んで、続きは駅に着いてからと道を急いだ。その時、作品の大筋が頭の中に湧いて来た。気持ちの上で空一面が厚い雲でおおわれていたものが、小さな雲の切れ間ができ一筋の光が差し込んだ様な思いになった。
残る不安は、詳細な宗達の絵の解説である。それがわからないと、宗達の成長と作品の関連性が見えて来ない。一つの壁を越えると次の新たな壁が目の前に現れる。
俵屋宗達の絵の特徴を彼の成長の軌跡から表現できないものか、とあがいた。すると彼の絵の研究をしている現代水墨画の作家がいる事を知った。この方は女性の方。私より6歳ほど若い。
その方に俵屋宗達の絵が年齢と共に、どの様に成長していったのかについて、お話しを聞けないものかと淡い希望を抱き始めた。なんとか彼女の協力を得たいものだと考えるようになった。前段階として私がいかに、どれほどの情熱を持って俵屋宗達の小説を書きたいと思っているのかを彼女にアピールしなくてはいけない。そのためにも、小説の冒頭の部分だけでも見せた方が、私のことを理解してもらえるのではないだろうかと思った。そう考えがまとまると、資料に目を通すときも、今までになく集中出来るようになった。
どれほど書き込めば、宗達にかける私の熱量が彼女に伝わるのか。そんな事が頭をよぎる。かと言って彼女の話を放棄するわけにもいかない。
ある意味、彼女の話はストーリーの大きな幹になるだろうと思われる。彼女の口から、宗達の絵に対する考え方の変遷が語られれば、願ってもない事である。どういうことをきっかけに、宗達の絵に対する考えが変わって行ったのか。それを思うだけでワクワクしてくる。それがいつか、風神雷神図屏風を生み出す。風神雷神の絵は、仏教画として沢山描かれている。その中で宗達の風神雷神図屏風の評価がどうして高いのか、それを言葉だけでなく五感の全てで感じたい。
その体験は絶対に作品に良い影響をもたらしてくれることと、確信している。