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花も紅葉もない下北沢の安アパートで、侘茶三昧の暮らしを夢想する

「煤はかず門松たてず餅つかず かかる家にも春は来にけり」

 福阿弥という茶人の句である。全ての人に平等に、季節は巡ってくる。当たり前すぎて、季節が巡ることの価値がわからなくなってしまった昨今。私にも巡る季節の恩恵は、平等に訪れる。考えてみれば頼んだわけでも無いのに、ありがたい事である。お金を払わなくても、窓から見える景色が変わって行く。その他に、何を望むと言うのであろうか(アウディの中古のA4アバント クワトロが欲しい。それから、古田織部の沓茶碗。それから茶釜の雲龍釜。etc)。

 当然、食べないと死んでしまう。しかし、飯を食っていれば欲も出る。出来れば、お茶も飲みたい。

 利休の兄弟子で変わり者だった事で有名な丿貫(へちかん)。彼は鉄瓶一つで雑炊を作り、それでお湯を沸かし、茶の湯も楽しんだと言う。しかし、現代社会にあっては、そんな簡素な生活は、逆に贅沢な部類に入るだろう。まず、庵を建てる土地と資材が必要になる。さらに燃料となる薪を得るためには、狭くても林か山が必要になる。土地を持って小屋を建てると固定資産税が発生する。現金がないと払えない。では、現金はどうやって作るか。何をするにも元手が無いと出来ない。

 やはり、現代社会にあっては丿貫のような、貧乏でもお茶三昧の生活と言うのは難しそうだ。山奥や海の側の、浦の苫屋で秋の夕暮れを味わうなんて、夢のまた夢なのだろう。侘び寂びと風雅を唯一の老後の楽しみとする生活が難しいなら、いっその事、逆転の発想で考えてみよう。

 花も紅葉もない若者の街・下北沢の安アパートで暮らす。そして、色とりどりの服装で着飾った若い女子学生でごった返している下北沢の駅前通りを通って銀座の茶の湯の教室に通う。茶室では、くだんの厳しくて優しくて綺麗なおっしよさんに相変わらず、

「あら、蜻蛉さん。柄杓は肘から回すのよ。うんもう…、鈍いのかしら」

 と連日のごとく、慈愛に満ちた厳しいご指導をいただく。結構楽しいかもしれない。そんなことを夢想する、今日この頃です。

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