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「国宝-風神雷神図屏風」も能登人の作? -⑯

 長谷川等伯に関する資料を読み込んでいて、大変なことを見つけてしまった。まさに、欣喜雀躍の第三弾! 等伯が活躍したのは天文8年(1539) から 慶長15年2月24日(1610)。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて。それから、30年余り遅れて、俵屋宗達(大体、1570年くらい1640年くらい)が生まれている。その生まれた場所は京都という説があるが、もう一つ、等伯と同じ、能登という説も有力なのである。ましてや、宗達の墓が京都にあるというが、石川県の金沢にもあるのである。彼の生没年月日も出身地も、はっきりしたことはわかっていない。しかし、資料としての「石川県史」を、決して無碍にはできない。

 その根拠として、最初に目に飛びこんできたのは、「石川県史 第三編
第四章 美術工藝 第一節 繪畫」に記載されている一文である。その抜粋が、すごい。

《俵屋宗達、本姓を野々村といひ、諱は以悦、字は伊年、宗達はその號、所居を對青軒といへり。能登の人にして、初め徙りて金澤に居り、後京師に入りて豐宗寺に寓す。宗達の畫系に就きては諸説紛々として、或は狩野永徳に學べりとし、或は狩野安信に就けりとし、或は住吉如慶の門人なりとす。》

 つまり、《俵屋宗達、苗字は野々村といい、死んでから送られた名前は以悦(いせつ)、成人してから付けられた名前が伊年(いとし)。宗達は、雅号である。対青軒、法橋という称号が与えられた。宗達は石川県の能登の人で、後に金沢に移り住んだ。そして京に行って豊宗寺にて勉強。宗達の絵の系統はいろいろ言われているが、時には狩野永徳に学び、またある時は狩野安信に、またある時は住吉如慶の門下生となった》との記述を見つけた。

 つまり、これが事実なら、「風神雷神図 - (寛永年間中頃、建仁寺蔵、京都国立博物館寄託)」という、もう一つの国宝を描いた能登出身者がもう一人。能登の観光資源の開発のためにも、書かなくてはならない羽目になってしまうということだ。

創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。