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【5】床に落ちたいなり寿司

バシャッ

「ああー、ごめんよ」

 車窓を見ていた僕が向き直ると、目の前におじさんが立っていた。床には、いなり寿司の折がひっくり返っている。

 1981(昭和56)年1月、南武線川崎行き101系の車内。小学3年生だった筆者は、クラスメイトのサクマくんと一緒に、南武線・鶴見線・横浜線・相模線をめぐる「神奈川4線区踏破」にチャレンジしている。

「大事なごはんをダメにしちゃったね。おじさんが弁償してあげる」

 立川駅で買ったいなり寿司は、少し食べかけた後、車内が混んできたので車両の妻面の窓枠に置いてあった。それを、何かの拍子におじさんが触ってしまい、床に落ちたのだ。運悪く、寿司を下にして落ちたので、もう食べられそうもなかった。

「僕たち、どこまで行くんだい。川崎までか。おじさんと一緒だ。じゃあ、川崎に着いたら、ごはんをごちそうしてあげる。本当にすまなかったね」

 川崎駅に着くと、おじさんは僕たちを駅ビル内の喫茶店に連れて行った。

「好きなものを食べていいよ。スパゲッティは好きかい。じゃあ、ナポリタンはどうかな。すみません、ナポリタン2つ」

 知らない人についていってはいけない。それは、この時代も親や先生から習っていた。だが、ここは駅の中であり、どこかに連れ出されたわけではない。おじさんは本当に申し訳なさそうで、そこは不安ではなかった。

 だが、僕らは気が気でなかった。心配していたのは、ただ1つ。

「予定が、狂ってしまう」

 この日は、南武線から鶴見線、横浜線をまわって相模線まで乗りに行く計画なのだ。しかも、夕方に乗る相模線西寒川支線は本数が極端に少なく、遅れるわけにはいかなかった。

 いや、それ以上に、事前に立てた計画が少しでも狂うことを恐れていた。大人の感覚なら、スパゲッティを食べるくらいの時間遅れても、予定を変えればよい。だが、小学3年生にそんな余裕はなかった。一生懸命考えたプランが崩壊し、何時にどこに着くのか、全くわからなくなってしまったのだ。

「おじさんは、ちょっとトイレに行ってくるから。遠慮せずに食べなさい」

 ナポリタンが出てきたところで、おじさんは席を立った。レジの店員になにやら声をかけ、店を出て行く。外に出たおじさんが足早に立ち去るのを、僕は目で追った。

 このスパゲッティ、食べてもいいのかな。

 サクマくんと、顔を見合わせた。おじさんがいないのに食べ始めるのは行儀が悪い気がしたし、そもそも喉を通りそうもなかった。だが、10分近くたっても、おじさんは戻ってこない。

 ……そういえば、おじさんが歩いて行った方向って、トイレとは逆方向じゃなかったかな。

 あっと声をあげて、レジに向かった。すみません、さっきのおじさん、何か言っていませんでしたか。

「ボクたちに食べさせてあげるようにって、お会計を済ませて行かれましたよ」

 しまった! おじさんがトイレに行くと言ったのは、ウソだったのだ。その男性は、きっと通勤途中だったのだろう。子供たちのいなり寿司をひっくり返してしまったことに責任を感じ、スパゲッティをご馳走したが、本当は急いでいたのだ。労働者風の身なりで、子供の扱いに慣れていなかったのかもしれない。食事が提供されたのを見届け、会計を済ませて立ち去ったのだ。

「あの、食事はどうします?」
「ごめんなさい、もういいです」

 慌てて店を飛び出したが、おじさんの姿は、もうどこにもなかった。

 時刻は、9時半をまわっていただろうか。当初の計画なら、浜川崎から鶴見線に入っていた頃だ。日中の鶴見線は本数が少なく、今から先に進んでもどれくらい時間がかかるかわからない。鶴見に何時に着くのか、八王子には、寒川には? どこに何時に着けるかわからないまま、僕たちは見知らぬ川崎駅に立っていた。

 とにかく、報告のために公衆電話から家に電話をかけた。この時には、半べそになっていたと記憶している(後年親が語ったところでは、「ワンワン泣きながら電話をしてきた」そうだが……)。今日のチャレンジは、ここ川崎駅で中止する。すぐ家に帰る。

 予定外のアクシデントを前にして、無理せず即座に撤退を決断……といえば、勇気ある判断力のように聞こえるが、要は予定が御破算になって、見知らぬ土地で先に進むのが怖くなったのだ。結局、川崎駅から東京駅に向かい、昼過ぎに中野に戻った。

 それ以来、4線区踏破といった強行軍は控え、1〜2線区ずつ無理せず踏破し、さらにどこかで乗り遅れた時の代替プランを立てるようになった。

 乗り損ねた鶴見線と横浜線は、1カ月後の2月11日に出直して踏破した。南武線支線はなぜか乗り残し、相模線とともに3年後までお預けとなった。

※写真は、1981年3月1日、姉と一緒に横須賀線を踏破したときのもの 
 


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