自分を疑ったことはありますか?
自分の認識は正しいと思うことが多いと思います。
でも、時々、本当かな?と思ったり疑うことはありますか?
たとえば、真実と事実について、考えたことはありますか?
目で見たことは事実だから、その通りで、それ以外意味はないと思っていたら、真実は別の意味があった、ということはありませんか?
認識には限界があります。
隠されていたら認識しようがありません。
でも、隠されていないのに認識していないのは、何故でしょう?
見えていない、見ていない、見たくない、見ようとしない、知らない、知りたくない、めんどくさい…などでしょうか?
意識が認識に作用していると思うことはありませんか?
認識して、解釈して、判断する順番は、意識から始まるのでしょう。
意識の前にあるのはなんでしょうね。
言葉かな、と思うことがあります。
もう少し小難しく言うと記号や言語など、意識を形作るための道具などでしょう。
では、その道具はどうやって用意したのか、覚えていますか?
誰も用意していないのだから、自分が用意したと思っていませんか?
自分が用意したのだから、覚えていますよね。
覚えていないとしたら…何故でしょうね。
たとえば、家を建てる時、準備するのは土地だったり、資材や道具、設計図などです。その前に、元手や工数も必要でしょう。
大工さんなど建てる人も必要です。
お天気も良くないと工事は中止します。
人の判断も似たようなものです。
疲れていると判断が鈍るのは、心のお天気が嵐だからなのかもしれません。
精巧な道具が揃っていないと、家が完成しても壁は歪んでたり床は傾いていたり、天井から雨漏りしてしまうかもしれません。
建てる土地がないとそもそも家は建てられません。
設計図がなければ、いつまでも家は完成しません。
…自分の認識や判断は正しいと思うのは誰しもがそうかもしれません。
でも、時々思います。
自分の家は雨漏りしていないか?と。
それは本当に正しいのか?と。
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