雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【9】

昨日の話をしよう。

昔のことではなく、1年前のことでもなく。
できれば一昨日、理想的なのは、昨日のことを。

昨日はどんな日だったのだろう。
いつもと変わらないと思うのだろうか。
表層的にはそうだろう。

いつもと変わらなかった。
太陽は東から上ったし、西の地平線に沈んでから夜の帳が降りた。
お店は営業していて、車は走り、空には飛行機が飛び、人々は街に溢れていた。

そんな周囲の中で、自分はどうだったのだろう。

朝目覚めてから、夜眠るまでの間、何をして、何をしなくて、何ができて、何ができなくて、何を思い、何を思わなくて、何を感じて、何を感じなかったのだろう。

僕は昨日、会社を辞めた。

理由は、長期休暇を申し出たら、却下されたからだった。

僕を知る人物を探すためには、人の手を借りずに、自分の力で探す他ないと思った。

そのためには、仕事を休んで時間を作り、手間暇かけて、地道に探す他ないと思った。

諺で、犬も歩けば棒に当たるというが、棒に当たるためには、ひたすら歩かなければ、そんな宝くじみたいな幸運には巡り会えない、と思っていた。

犬でさえもそうなのだ。

ましていわんや、素人の僕においておや。

僕は退職を願い出た。あっさりと受領された。人の出入りが激しい職場だから、そうなのだろうと思った。
退職金は後日銀行口座に振り込むと言われた。

仕事を辞めるにあたって、僕は事前に葉子に伝えていた。

「相談があるんです」

「何かしら?」葉子は柔らかな表情で僕を見つめていた。

駅前の喫茶店。2階の窓際の席で、僕らは向かい合って座っていた。

葉子はブルーマウンテン、僕はハワイコナのコーヒーを飲んでいた。

「人探しが得意な探偵社のいくつかに、僕を知る人を探して欲しいと相談したのですが、どこも力になれないと断られたのです」

「まあ、そうだったのですの…それは残念ですわ…探偵さんって人探しもなさるのね」

「そうです」

「でも、そうなると、あのお写真の方やお手紙を送って来られた方は、分からないままですわね」

「そうなんです。だから、自分で探そうと思っています」

「まあ。人探しをなさるの?」

「そうです」

「お忙しくなるんじゃなくって?」

「そうなります。会社勤めとの両立では無理だと思っています。だから、仕事を辞めようと思っているのです」

「もう、お決めになったの?」

「いえ、未だ決めていません。こうして、初めて、葉子さんにお話しして、ご意見をお聞かせ願えたら幸いです」

「私の?」

「はい。ひとりで決めるのは楽ですが、道を違えること、誤ることもあります。聡明な葉子さんにご相談しようと思ったのです」

「まあ、嬉しいわ。独断専行を戒めていらっしゃるのね」

「たくさん失敗してきましたから」

「失敗も糧と申しますわ」

「しなくても良い失敗は避けたい、とお考えください」

「それもそうですわね。全てが糧になるわけでもありませんわね」

「それで…仕事を辞めて、人探しに専念することは、いかがでしょうか?」

「あの方を探し出すこと…お手紙を送って来られた方を探し出すことは、とても大切なことと思ってらっしゃる…そう思っています」

「はい」

「お仕事よりも大切なこと、ご自身の人生そのものに関わることと思っていらっしゃる…そう思っています」

「はい」

「でも、生きるために、食べていくためには、仕事も必要ですわね」

「その通りです」

「では…こういうのはいかがかしら?」

「何でしょうか」

「お仕事はお辞めになって、人探しをなさる。ひとり探すのもふたり三人お探しになるのも同じこと。いっそ、探偵さんをお始めになったらいかがかしら?」

「僕が探偵ですか?」

「そうですわ」

「素人探偵の誕生ですね」

「長くお勤めだったのですから、退職金も出ますでしょう。それを資金になさったらよろしいわ。食べていくこと…お暮らしになる用向きは、私にお任せくださらないかしら?」

「葉子さんが?」

「そうですわ。お世話係りというところですわね」

「あなたが僕の?」

「お嫌かしら?」

「とんでもない。見に余る光栄です」

「こう見えて、お料理得意ですのよ。お裁縫もいたしますの。お針子のお仕事していたのですのよ。お洋服もお作りいたしますわ。背広だってお仕立てしますわよ」

葉子はにっこりと笑った。

「すごいですね」

「嗜み…みたいなものですわ」

葉子は顔を赤らめた。

「あなたのお世話をさせていただけないかしら?」

「それはもう、喜んで」

「では、決まりですわ。お仕事をお辞めになって、人探しに専念なさって。素人探偵さん」

葉子は僕の手を握った。

僕も葉子の手を濁り返した。

「ありがとうございます、葉子さん。何と御礼を申し上げて良いか…」

「そのうち、探偵事務所に雇ってくださいましね」

葉子はにっこりと笑った。

「その時は、社長でお呼びしますよ」

僕も微笑んだ。

「まあ、嬉しいわ。私、社長にお呼ばれしますのね」

「もちろんです」

葉子はにっこりと笑った。

僕も笑った。

「お仕事始めに、背広をお仕立てしますわね」

「ありがたいです」

「針を埋め込んでおきますわ。悪いことなさるとチクッてあなたを刺すように」

「いやあ、怖いなあ」

葉子はくすくすと笑った。

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