雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【12】
店は細長く、赤い天板のカウンターと赤いファブリックの丸い椅子が鮮やかだった。ひんやりとした空気の中に、音楽が流れていた。
カウンターの端にレコードプレーヤーがあって、レコードがかかっていた。
カウンターの向こうに、背の高い女性がいて、煙草を燻らせていた。
「いらっしゃい」
壁にウィスキーやジンやラムなどの洋酒が並んでいた。
僕は適当に座った。
僕に声をかけた子猫のような女は、カウンターの向こうに入って、僕の前に立った。
「何にする?」
「ウィスキー」
手慣れた仕草で、後ろの壁から洋酒の瓶を手に取ると、グラスに氷を入れてウィスキーを注いだ。
子猫は僕の前にコースターを置いて、その上にグラスを置いた。
「ありがとう」
僕は琥珀色の液体を一口飲んだ。滑らかな舌触りでするりと入り、喉を通る時に熱く感じた。
「また拾ってきたの?」
背の高い女が言った。よく見ると、クラナハの絵のユディトのような顔立ちをしていた。
「またって何よ、ママ」
「何か気になったんでしょ?」
「まあね」
「お兄さん、この子に気に入られたみたいね」
「そんなんじゃないわよ」
「はいはい」
「またこの曲かけてるの?ママ」
「いいじゃない、好きなんだから」
「いつもこれじゃない」
「いいのよ。お店の名前もこれなんだから」
「だから閑古鳥が鳴いてるんだわ」
「あら、暇なのがいいって、あんた、いつも言ってるじゃない」
「時々暇なのはって意味よ。これじゃ干上がっちゃうわ」
「あの」僕は言った。
ユディトと子猫は僕を見た。
「この曲、何ていうんですか?」
「リリー・マルレーンよ」ユディトが言った。
「看板見なかったんですが、このお店の名前も?」
「そうよ。同じ名前」子猫が言った。
「良い曲ですね」
ユディトと子猫は顔を見合わせた。
「ほら、ね」子猫がユディトに言った。
「何よ、ほらって」
「この曲が好きって言う人、久しぶりじゃない」
「そりゃそうだけど」
「昔、この声と曲に虜になった男たちはみんな死んでしまったって、ママ、言ってたでしょ?」
「たとえよ、たとえ」
「最近、そんな人いた?」
「そうねえ…いたかもしれないわ」
「いないわよ。わたし、聞いてないわ」
「そうかしら?」
「そうよ」
「そうかしらねえ」
「そうよ」
「あなたが言うなら、そうなのかもね」
「そうよ。いないわよ」
「じゃあ、そうなのかも」
「そうよ、だから久しぶりなのよ、ママ」
「嬉しいわね」
「そうでしょ」
「ええ、そうね」
「そうよ。わたし、嬉しいわ」
「あの」僕は言った。
ユディトと子猫が僕を見た。
「おかわり」
「あら、ごめんなさい。同じのでいい?」子猫は慌てて僕の空のグラスを手に取った。
「うん。ありがとう」
「お兄さん、この曲、気に入ったの?」ユディトが尋ねた。
「気に入ったというか、胸に沁みる感じ」
「胸に?」
「言葉はわからないけど、切ない感じが心の中に入ってきて、締め付けられる。でも、なんだか甘い。胸をぎゅっと掴まれる感じ」
「ふうん」子猫がお酒を作りながら言った。
「文学的ね、お兄さん」ユディトが言った。
「ほら、良かったでしょ?」子猫は言った。
「そうね」
「はい」子猫はコースターにグラスを置いた。
「ありがとう」
「お兄さん、何してたの?」子猫が尋ねた。
「歩いてた」
「歩いてた?」
「そう」
「散歩?」
「そうだね」
「ふうん…。なんだか悲しそうだったわよ」
僕は黙った。
「何というか…うん、悲しそうに見えた」
「真由美ちゃん、母性本能くすぐられたの?」ママが言った。
「そんなんじゃないわよ。ただ、呼び止めないと、どっか危なっかしいなあって」
「そうね…」ママのユディトが僕をまじまじと見た。
「そうね…お兄さん、若いのに、悲しみが沈んだ眼をしてるわね」
僕は目を伏せた。
レコードが終わった。ユディトはもう一度最初からレコードをかけた。
「この曲はね」
ユディトは煙草の煙を吐いた。
「この前の戦争の時、ヨーロッパでよく流れてたんですって。この曲が流れている時だけは、一発も弾が飛ばなかったんですって」
「ママ、よく知ってるわね。まるで見てきたみたいね」
「見てきてないわよ」
僕はレコードプレーヤーを眺めていた。
「お兄さん、ジェラールなんとかって俳優に似てるわね」
「フィリップよ」
「そうそう、そのフィリップ」
「真由美ちゃん」
「なあに?ママ」
「あなた、やっぱり」
「なによ、やっぱりって」
「やっぱり、そうなのね」
「そうなのね、って、なあに?」
「やっぱり、そうなのね」
「わからないわよ、やっぱりとか、そうなのねって」
「だからお兄さん選んだんでしょ」
「ち、違うわよ」
「違わないわよ」
「違うわよ」
「じゃあ、何よ」
「だからほら、危なっかしいから」
「ふうん」
「もう、ママ、お兄さんの前でやめてよ」
「いいじゃない。自由恋愛の世の中なんだから」
「ママ」
「あの」僕は言った。
ユディトと子猫が僕を見た。
「おかわり」
ユディトと子猫がふたりして甲斐甲斐しく、僕のお酒を作ってくれた。
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