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雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【10】

図書館が閉館になる頃は、辺りはすっかりと暗くなっていた。

僕は図書館前の緩やかなスロープからドアに向かった。

ドアの向こうに貸出カウンターが見えて、人が動いていた。

ドアを開けて中に入った。

カウンターに、昼間いた初老の司書はいなかった。

代わりに、四十代と思われる女性が、デニムのエプロンをかけて、受付の席に座っていた。

僕は声をかけた。

「少しよろしいでしょうか?」

「はい。何でしょうか?」

「今日の昼間、こちらの受付に座ってらっしゃった男性は、いらっしゃいますか?」

「男性ですか?」

女性の顔が少し曇り、僕を胡散臭そうに見た。

「はい。初老の…白髪で後ろに撫でつけていて、眼鏡をかけた男性です」

「少しお待ちください」

女性はそう言って立ち上がると、事務所に入っていった。

僕は女性の後ろ姿を見つつ、周りを見渡した。

図書館には、まだ何人か人がいた。

児童書の書架付近に、小学生らしい子供たちが2、3人いた。

エプロン姿の女性は、白シャツに黄土色のネクタイをした中年と思われる男性とともに戻ってきた。

男性は、黒縁眼鏡で、樽のような身体をしていた。

「どうかされましたか?」

男性はそう言ってズボンのポケットから大判のハンカチを取り出して、額の汗を拭った。

「昼間、ここの受付カウンターに座っていた男性とお会いしたいのです」

樽の男はデニムのエプロン女と目配せした。

「男性が昼間ここに座っていたと?」

「そうです」

樽の男はもう一度デニムのエプロン女と顔を見合わせた。

「その…何と言いますか…それはちょっとおかしいですね…」樽の男は言った。

「おかしい?」

「昼間、受付はここにいる鈴木さんが担当だったんですよ」

「そうです。昼間は私が受け持っていました」

「それに、そんな男性は、うちの職員には、ひとりもいないんですよ、実は」

「そうなんですか?」

「そうなんです」

「それはおかしいですね…昼間、確かに、ここに初老の男性が座っていたのです」

「鈴木さん、何か気付きましたか?そんな人いましたか?」

「いいえ。ずっと私ひとりでした。初老の人はたくさん来ますが、それは本を借りに来る人たちで、ここに座っていたのは私だけです」

「とのことなのですが…」樽男はハンカチで汗を拭った。

「おひとりと仰いましたが、途切れなく、ずっとここに座っていたのですか?」

「そう言われると…ずっと、というわけじゃないです…実際には、少し席を外すこともあります。休憩もありますから。トイレにも行きますし…」

「そうですとも。うちの図書館は、職員が働きやすい図書館ということで、表彰されることもあるんです。休憩も職員は自由に取れるんです」

「あなたが休憩の時、どなたかと交代をなさるんですか?」

「交代はいます。でも女性の司書です。ふたりともいない時もあります。でもそんな時は、ここに」

エプロン女は、カウンターの下から白い立札を取り出しながら「こんな風に、受付不在で今は席を外してる立札を置いてるんです」と言った。

「少ない人数で切り盛りしてるんです。図書館だからと言って、予算がふんだんにあるわけではないのです。本当はもっと予算をつけて欲しいんですよ」

樽男はハンカチで首筋を拭った。

「昼間、ふたりともいなくて、立札を立てましたか」

「私はしてません。交代の前田さんの時もどうか知りません」

「その、前田さんにお話をお聞きすることはできますか?」

「前田さんは、さっき帰りましたよ」

僕は黙った。

樽男もエプロン女も黙ったままだった。

「わかりました。お仕事の手を止めてしまって、申し訳ありませんでした」

「いえいえ、お役に立てませんで」

「では失礼します」

僕はお辞儀をした。

樽男とエプロン女は会釈した。

僕は図書館を出る時に、何気なく児童書の書架の方をちらっと見た。

女の子が手元に本を持っていた。

見覚えのある本だった。

ドン・キホーテ。

僕は図書館を後にした。

少し歩いていたら、肩を軽く叩かれた。

振り返ると、そこに初老の男性がいた。
白髪で後ろに撫でつけて、金縁の眼鏡をかけていた。闇に溶けそうな深い紺色の鈍く光沢のある背広を着ていた。

「あなたは」

「いや、大変ご無礼をしたました。申し訳なく思っています」

「今しがた、図書館へ」

「見ていました。声をかけるべきでした」

「あなたは」

「司書ではございません。ちょうど誰もいなかったので、茶目っ気を出して、あそこに座っておりました」

「そうでしたか」

「お怒りでしょう」

「いえ、こうして会えて良かったです」

「心の広いお方だ」

「心の広さはこのくらいです」

僕はポケットからメモを取り出した。国土地理院にいる、と自分で書いた掌ほどの紙だった。

「なるほど」

「はい」

「それでは」

初老の男性は背広の内ポケットから名刺入れを取り出した。

「どうぞ。お見知り置きを」

そう言って、僕に一枚の名刺を手渡した。

僕は薄暗い街灯に照らして名刺を見た。

建設省国土地理院院長特別補佐官企画部常任指導官基本図情報部非常勤特別顧問、本庄蝉丸、とそこに書いてあったあった。

漢字だらけだ、と思った。

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